ルソー音楽年譜


1712年
6月28日イザーク・ルソーとシュザンヌ・ベルナールの二男として、ジュネーヴに生まれる。母は産後すぐに死亡したため、叔母のシュザンヌ・ルソーに育てられた。
1728年
3月ジュネーヴから逃亡し、アヌシーでヴァランス夫人に出会う。このあと、トリノの救済院に入り、カトリックに改宗する。トリノを放浪していた頃、軍楽隊の楽器やカトリックの聖歌に惹かれ、またトリノ宮廷楽団の演奏にも感動する。
1729年
6月アヌシーのヴァランス夫人のもとに帰り、そこで生活することになる。ヴァランス夫人から歌と音楽を習う。
8月ラザリスト会神学校に入る。クレランボーのカンタータ集を持参し、独習する。二ヶ月で帰る。
10月アヌシーの大聖堂聖歌隊員養成所の寄宿生となり、楽長ル・メートルに音楽を学ぶ。ブロックフレーテなどの楽器を習う。
1730年
2月ヴァンチュール・ド・ヴィルヌーヴと名のるパリの青年音楽家と知り合い、心酔する。
4月喧嘩のためにアヌシーを去ることになったル・メートルにつきそってリヨンに行くが、発作を起こした楽長を見捨てて、自分だけアヌシーに戻る。ヴァランス夫人が不在。
7月ヴァランス夫人の不在が続くため、帰省する女中のメルスレにつきそって、フリブールに行く。そのあと、ローザンヌで、ヴァンチュールを真似て、パリの音楽家ヴォソール・ド・ヴィルヌーヴと自称し、音楽会を開くが失敗する。
11月ヌーシャテルに行き、音楽を教えながら、翌年の4月まで過ごす。
1731年
5月ヴァランス夫人を追ってパリに上京するが、見つからず。
9月ヴァランス夫人を追ってサヴォワに向かう途中、リヨンで音楽好きの修道士ロリションと知り合い、写譜の仕事をする。その後シャンベリのヴァランス夫人のもとに戻る。
1732年
6月前年よりついていた地籍測量係の仕事を辞し、音楽で身を立てようと決意する。作曲の指導を依頼しにブザンソンのブランシャール師に会いに行く(1733年とも1734年とも言われている)が、断られたため、シャンベリに帰り、独学をしながら、良家の令嬢達に音楽を教える。
1733〜1739年
この時期のルソーは、ラモーの『和声論』を中心にして音楽理論を独学する一方で、ヴァランス夫人やその友人達と音楽会を開き、ルソー自身は指揮をしたりしていた。ルソー作曲のシャンソン『一匹の陽気な蝶が』が『メルキュール・ド・フランス』に掲載されたり(1737年6月)、悲歌劇『イフィスとアナクサレート』を書いている(1739年)。
1740年
4月リヨンのマブリ家の家庭教師になる。
1741年
5月家庭教師の仕事に失敗し、辞職して、シャンベリのヴァランス夫人のもとに戻る。悲歌劇『新世界発見』を書く(時期については諸説あり)。
1742年
1月数字記譜法を考案。
7月数字記譜法を持ってパリに上京する。
8月22日科学アカデミーで『音楽のための新記号案』を朗読する。9月8日には審査報告の後、証明書が交付されるが、ルソーの数字記譜法は新しいものとは認められなかった。
9月10月にかけて、『音楽のための新記号案』を大幅に改訂をほどこす。またこの時期にディドロ、フォントネル、マリヴォー、カステル神父らと知り合いになっている。
1743年
1月『近代音楽論究』出版される。
5月ロワイエのオペラ・バレエ『愛の神の力』を見て、自分もオペラを書くことを思いつき、オペラ・バレエ『優雅な詩の女神たち』を熱心に書き始める。
7月ヴェネツィア駐在大使モンテギュの秘書としてヴェネツィアに発つ。ヴェネツィアに着いたルソーは、さっそく大使秘書の特権であった劇場通いをし、クラブサンを弾き、オペラやゴンドラの舟歌に惹かれ、スクオーレの音楽に新鮮な感動を覚える。またパリで作曲していた曲の一部を演奏させたりもしている。
1744年
8月大使モンテギュとたびたび衝突した結果、職を辞して、フランスに帰る。
パリに帰ったルソー、再び『優雅な詩の女神たち』の作曲を再開する。音楽のメセナとして有名な徴税請負官ラ・ププリニエールに紹介される。
1745年
7月9日『優雅な詩の女神たち』完成する。
9月ラ・ププリニエール邸で一部が演奏される。ラモーには酷評されるが、他の人たちには好評だったので、ついで技芸長官ボンヌヴァル邸で全曲演奏される。立ち会っていたリシュリュー公の忠告に従い、タッソーのかわりに、ヘシオドスのアントレを三週間で書き上げる。
10月初旬
〜12月初旬
リシュリュー公の依頼で、ヴォルテール作詩ラモー作曲のコメディ・バレエ『ナヴァールの王女』の改作『ラミールの祝祭』の修正を行う。
12月22日『ラミールの祝祭』がヴェルサイユで上演される。作品の修正と上演をめぐるラモーによる嫌がらせに疲れ果てて寝込む。
1746年〜1748年
ラモーからの圧力によって音楽家としての道を閉ざされたと思ったルソーは、文筆に熱中していたデュパン夫人と化学・博物学に凝っていたフランクイユの秘書になり、生計を立てていくことになる。1747年には『優雅な詩の女神たち』がオペラ座で稽古演奏されている。また、秘書として古今のさまざまな分野の書物を読み、ノートを取ったり、デュパン夫人の口述筆記をしたことが、思想家ルソーの形成に大いに貢献した。
1749年
1-3月ディドロの依頼で、『百科全書』の音楽関係項目を執筆する。
10月ヴァンセンヌの啓示。『学問芸術論』となるディジョン・アカデミーの懸賞論文を書き始める(翌年の3月まで)。(ヴァンセンヌのアントニー・ベアンさんが、ディジョン・アカデミーが置かれていた建物と生誕200年を記念して作られたプレートの写真を送ってくれました・・・写真1写真2 Merci, M.Béhin !!
1750年
『学問芸術論』出版され、大反響を呼ぶ。
1751年
2-3月秘書兼出納係の職を辞し、写譜で生計を立てていくことにする。
5月23日コンセール・スピリチュエルで『狩猟ホルンをもつサンフォニー』が演奏される。
6月『ブランヴィル氏考案の新旋法についてレナル師に寄す』を『メルキュール・ド・フランス』に掲載される。これは、コンセール・スピリチュエルにおいて演奏されたブランヴィルの『第三旋法の試作のための新しい音の動きのジャンルによるサンフォニー』を聴いたルソーが友人で『メルキュール』の編集長であったレナル師に依頼されて書いた手紙である。
7月1日『百科全書』第一巻出版。このなかにはルソーの書いた項目《伴奏》《和音》などが掲載されている。
1752年
1月『百科全書』第二巻出版。《根音バス》《終止・終止形》などが掲載されている。
4月グリムがフランス・オペラを酷評した『オンファルに関する手紙』を書き、匿名氏がそれに反論した『「オンファルにかんする手紙」についての考察』を発表し、それを受けてルソーが匿名で『「「オンファルにかんする手紙」についての考察」についてグリム氏に寄せる手紙』を発表する。このなかでルソーはラモーを中傷する。
幕間劇『村の占い師』三週間で書き上げる。
4月17,19日ルソー作曲のモテット『サルヴェ・レジナ』がコンセール・スピリチュエルにてフェル嬢の独唱で演奏される。
8月1日イタリアのオペラ・ブッファの一座がオペラ座でペルゴレージの『奥様女中』を上演し、大成功をおさめる。イタリア音楽派とフランス音楽派に分かれて、ブッフォン論争が起こる。
10月18日『村の占い師』がフォンテーヌブローで御前上演され成功する。
翌年の3月にかけて『フランス音楽に関する手紙』を執筆。
1753年
3月1日『村の占い師』がオペラ座で初演され、大成功。
9月末ブッフォン論争たけなわののこの時期にオペラ座でヨメッリの上演失敗に憤ったルソーは、オーケストラ団員がわざと失敗させたとする『同僚たちに宛てたオペラ座管弦楽団員の手紙』を匿名で書く。
11月『百科全書』第三巻出版。《歌謡》《数字記号を付ける》《合唱曲》《クロマティック》などが掲載される。
ディジョン・アカデミーの論文募集を見て、『人間不平等起源論』を書くことにする(翌年の3月まで)。このとき、後の『言語起源論』の一部に発展する、音楽と言語の起源、および音楽の堕落に関する部分も書かれている。
11月末『フランス音楽に関する手紙』がジャン=ジャック ルソーの名前で出版される。このなかでは、フランス音楽を否定し、リュリの『アルミッド』批判を通してラモー音楽思想を批判している。
12月16日『同僚たちに宛てたオペラ座管弦楽団員の手紙』に憤ったオペラ座管弦楽団員たちがルソーの像を焼くなど、騒ぎが大きくなったため、オペラ座の無料入場券を取り上げられる。
1754年
10月『百科全書』第四巻出版。《協和音》《不協和音》などラモーを批判した項目が掲載される。
1755年
1月『音楽辞典』の執筆を決心する。『百科全書』に書いた項目の出来に不満があることや、ラモーからの批判に答えるという意味もあった。
6月『人間不平等起源論』出版される。
9月ルソーが『百科全書』に書いた項目を批判した『「百科全書」の音楽に関する誤謬』をラモーが出版したのを受けて、ルソーは『旋律の原理あるいは「音楽に関する誤謬」への回答』を書くが、出版しなかった。これは大きく分けて二つの部分から構成されていた。一つは、『ラモー氏が「「百科全書」の音楽に関する誤謬」と題する小冊子で主張する二つの原理を吟味する』になり、もう一つはその後さらに書き直されて、『言語起源論』になる。
11月『百科全書』第五巻出版。《二重唱》《エンハーモニック》などが掲載される。
『新エロイーズ』のもとになる『ジュリ』が書き始められる。
1757年
8月デピネ夫人のラ・シュヴレット城館礼拝堂献堂式のためにモテット『エッチェ・セーデス・ヒック・トナンティス(Ecce sedes hic tonantis)』を作曲する。(演奏は9月15日)
1758年
9月『新エロイーズ』完成する。
1759年
5月『エミール』の執筆を開始する。
1760年
『エミール』と『社会契約論』の執筆に本格的に取り組む。
1761年
1月『新エロイーズ』出版され、大評判となる。
8月『社会契約論』の原稿が完成する。
9月末『言語起源論』を出版検閲局長官マルゼルブに託す。『エミール』もこのころには完成。
1762年
5月『エミール』『社会契約論』出版される。
6月高等法院が『エミール』の有罪宣告を決定し、ルソーに逮捕状が発令される。これ以降、ルソーは逮捕を逃れるために、フランスを逃れ、スイスを転々とすることになる。
11月『ピグマリオン』を執筆。この時点ではまだ音楽はついていない。
1764年
12月『音楽辞典』はすでに出来上がっており、序文を書く。
1765年
11月30日英国行きを決意する。
1766年
1月ロンドンに到着し、大歓迎を受ける。
3月『百科全書』第八巻〜十七巻が一挙に刊行される。このなかでルソーの重要な項目としては、《和声》《旋律》《旋法》《音楽》《単旋律聖歌》《レシタティーフ》《体系・シュステマ》《ユニゾン》などがある。
このころ、『告白』を執筆している。
1767年
5月フランスに戻る。しかし相変わらず、各地を転々とする。
11月26日『音楽辞典』発売される。
1770年
4月音楽会で知り合ったアマチュア音楽家コワニエに『ピグマリオン』の作曲を頼み、二人で完成させる。
4月19日リヨン市役所のホールで『ピグマリオン』と『村の占い師』が上演される。
6月パリに帰ってくる。
12月14日イギリスの音楽史家チャールズ・バーニーがルソーを訪問。
1774年
2月3月グリックのために写譜をする。グリックはオペラ『オーリドのイフィジェニー』を成功させるべく前年の11月からパリに来ていたが、ルソーを訪問し、知己の間柄になっていた。
4月19日グリックのオペラ『オーリドのイフィジェニー』初演され、ルソー感動する。
6月『ダフニスとクロエ』(作詩・コランセ)を作曲しはじめる。
8月2日グリックのオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』(フランス語版)が初演され、ルソー感動し、何度もオペラ座に通う。
11月グルックに刺激されて、『村の占い師』を新しく作曲し直している。
1775年
10月30日コメディー・フランセーズで『ピグマリオン』が上演され、熱狂的な大成功をおさめる。フランスでは初演。
1777年
8月ペルゴレージ作曲『オリンピアード』の写譜を仕上げ、これ以降は写譜の仕事をやめる。
1778年
7月2日エルムノンヴィルにて死去。
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