『近代音楽論究』

(1753)

「かって存在したものへの我々の感情を変える」(ルクレチウス)

序文

諸般の事情や偏見によってしばしば著作の運命が決まってしまうというのが本当なら、私以上にびくついたものはかつていなかったに違いない。今日の一般読者は新作と呼ばれるものなら何に対してでもひどい悪感情を抱いているからである。とりわけ音楽に関して、彼らは学説とか新案に対して非常に不快に思っているので、読者の最初の反応の結果、すなわち読んでもらわないうちに非難されるという羽目に陥らないで、この種の著作を出すということはもはやほとんど不可能になっている。
その上、理性にもとづく障害ではなく、それよりももっと強固な習慣や偏見にもとづく障害をあまりにもたくさん克服しなければならないので、そんな強力な障壁を打ち破るのは不可能に思えてくる。それにたいして理性しか持たないということは、対等の武器で闘うことにならず、偏見の側にはほとんど常に勝ちがはっきりしている。そして私はそうした偏見を打ち負かすことができる意義を一つしか見出せない。
もし一般読者が自分たちの利益について常に注意深く判断していたら、私は上のように考えて心穏やかでいるだろう。しかし彼らは通常はかなり無頓着で、正反対の利益を持っている人々に自分たちの利益の監督を任せてしまっている。そしてもっといいものを出してもらうために配慮をするよりも、ろくな物を出さないと絶えず不満を言うほうが好きなのである。
音楽において起こっていることがまさにこれなのである。彼らは音楽教師たちのだらだらした教え方やこの芸術の難解さに抗議の声を上げはするが、それを解明し、簡単にしようと提案する人々のやる気をなくさせる。音楽記号は、音楽の他の部分での進歩にほとんど釣り合わないほどの未完成の状態にあることを誰もが認めている。しかしながら、それを改革しようという提案に対しては、まるで恐ろしい危険を前にしたときのように身を守ろうとする。神のごときリュリが使ったのと違う記号を考案するなどということは、人間精神が為し得るもっとも常軌を逸した行いであるだけでなく、一種の涜神でさえある。リュリは神であり、その指でこれらの神聖な記号の姿を永遠に不動のものにしたのである。良いか悪かは重要ではない。それらの記号は彼の作品によって永遠のものにされなければならない。それに手を加えることはもはや許されないことであり、そんなことをしようものなら罪人となるだろうし、今後は音楽を学ぼうとする若者はすべてリュリの功績をたたえて二年か三年の労苦という貢物を納めなければならないだろう、というわけである。
音楽のこの部門を改良することを目指した新案に対してはことごとく、まったく同じ表現ではなかったにしても、少なくとも異義の声が上がるのを私は幾度となく聞いてきた。「なんだって!私たちの作曲家の作品を全部火中に投じなければならなくなるのか?すべてを改革するだって?ラ・ランド、ベルニエ、コレッリも?すべてが私たちにとって失われてしまうのだろうか?その埋め合わせをするためにどこで新しいオルペウスたちを手に入れたらいいのか、再び生徒にもどる決心をしたがっている音楽家たちはどうなるのか?」
このような異議を唱えている人々が改革案をどんな風に理解しているのかは私には分からない。しかし彼らはこうした異義を格言に変え、その結果をこと細かに述べることで、文芸や諸芸術の進歩をただひたすら押しとどめようとして全く奇妙な警句を作り出しているように私には見える。
それにこのような理屈はまったく的外れであり、新しい記号の確立は古くからの作品を台無しにするどころか、新しい版と今後も存続する古い版という二重の形で残すことになるだろう。ある作家の翻訳をしたらかといって、原作を火中に投じる必要はない。したがって、作品そのものも、実際の楽譜も失う恐れはないし、特に注意して頂きたいのは、新しい方法がどんなに役立つものであろうとも、いっきに古い方法の使用を廃止していまうほどのスピードで新しい方法が古い方法を台無しにしてしまうことはないだろう。楽譜は役に立たなくなるまえに十分使われるだろうし、それらが頑迷な人たちの資料にしか役立たなくなっても、常にそれらを使う手段は見つけ出されるだろう。
音楽家たちがこの点に関しては御し易くはないということは私も分かっている。彼らにとって音楽は楽音の知識ではなく、四分音符、二分音符、十六分音符などの知識であって、このような記号が彼らの目に訴えかけるのを止めるやいなや、彼らは楽譜を実際に見ているのだとは信じなくなるだろう。再び生徒に戻ることに対する恐怖や、とりわけ彼らが知識だと勘違いしている一連の習慣が、彼らに提案されるこの手のものすべてを軽蔑あるいは恐怖をもって見させることになるだろう。したがって彼らの同意はあてにしてはならない。新記号の確立に際しては、新記号の出来の善し悪しではなく、たんに新しいかどうかを判断するものとして、彼らの抵抗をあてにすることができる。
この点についてリュリの見解がどうであったかは知らないが、彼はこんな些末なことにのめり込むには偉大すぎたことは確かである。リュリはこんな風に感じていただろう。自分の知識は記号に左右されるものではないし、自分の作る音はそれを表すためにどんな記号を用いようと神的な音でなくなることは決してない。それに、彼の作品を力強くて、もっと理解し易く、そのことによってもっと普遍的な言語で出版することは、たとえ古い楽譜を放棄せざるを得なくなるとしても、この芸術とその作品の進歩に重要な貢献になると。そしてきっと、彼は古い楽譜の放棄による損失はこの芸術全体の完成に比べるに値しないと考えていただろう。
不運なのは、我々が相手にしなければならないのがリュリのような人ではないということである。彼の資質を受継ぐよりもその知識を受継ぐほうがたやすい。私はなぜ音楽が理性的活動の友ではないのか知らない。だが、彼の子弟たちは同僚がこの芸術を原理にまとめ、深く究明し、系統的に扱うのを見てあれほど憤慨するのだから、いわんやこの芸術の構成部門が攻撃されるのは彼らには耐えがたいのだろう。
どんな扱いを受けるかを判断するには、まだいたるところで廃棄されないで残っているあの粗野なムタッツィオのかわりに《シ》を使用するためにどれほどの歳月の不屈な戦いが必要だったかを思い起こしてみさえすればいい。音階は異なった七音で構成されるということを誰もが認めていたが、その一つ一つに個別の名称を与えるほうが便利だということが誰にも納得できなかった。なぜならそれまで誰もそれを考え付かなかったし、音楽はとにかく順調に歩みを続けていたからである。
このような難点が強烈に私の頭を占めているが、それは読者諸氏も同様だろう。それにもかかわらず、私には、そのような難点も打ち立てなければならない証明の真理に対抗し得るものであるとは思われない。今まで提案されてきたこの手の学説がすべて失敗してきたことに私は何ら驚くものではない。既存の方式に長所と短所が半分づつだとしても、それが勝利することは言うまでもない。なぜなら既存の方式を打ち破るには、新しい方式と既存の方式をそれぞれにそれ固有のものについて検討しただけでなく、既存の方式が古いという理由とこれを強化するあらゆる偏見を結び付ても、既存の方式よりも新しい方式のほうが好ましいと判断されなければならないからである。
私の方式はこの好ましいものにあたると私には思われるし、私の方式が、普通の方式の利点を損なわず、その不都合な点を償い、かつ、この種のあらゆる新案に対して、その実体とは無関係に主張される外面的な異論を解決するなら、私の方式が実際に好ましいものであると認められるだろう。
最初の二点に関しては、この著作の本文で論じられるから、それを読んでみなければどう考えるべきかは分からないかもしれない。第三の点に関しては、判断するのにこれほど簡単なものはない。私の新案の目的とそれを実践したことから生じるはずの結果を明らかにすればいいからである。
私が提案する方式は二つの主要目的を中心としている。第一の目的は楽曲とその難点のすべてをより単純で、より容易な方法で、より狭いスペースに記譜することである。
第二の、最も重要な目的は、音楽がいままでは人を尻込みさせてきただけに、それだけ習いやすいものすること、表現内容を削ることなく記号をもっと少なくすること、そして理論と言っても大したものでなくなるように、また実践の上手い下手は、けっして音符の難しさのせいではなく、声の出し方の上手い下手次第になるように規則を簡略化することである。
私の方式でなら通常の方式の半分ないしは三分の一の期間で音楽が習得できるということや、私の方式で訓練された音楽家は同等の知識をもった他の音楽家よりも信頼がおけるということ、通常の楽譜で満足したい場合でも、もっと確実に短期間で通常の楽譜が読めるようになるには私の方式で始めるべきだというくらい私の方式は簡単なのだということを、経験によって証明することは簡単なことである。この提案は、どんなに逆説的に見えようとも、事実によっても実地による証明によってもたしかに真実であることに変わりはない。ところで、このような事柄が真実であるとすれば、どんな異論も策の施しようがなくなる。第一に、古い方式によって記譜された楽譜は決して無駄にはならないし、火中に投じるかどうかで苦しむこともないだろう。なぜなら、私の方式の生徒たちは、私の方式のためにかける期間を含めても、通常よりも短期間で通常の楽譜が初見で歌えるようになるからである。彼らは余計な時間をかけずにどちらの楽譜も同じように理解するようになるので、彼らに関しては古い楽譜が無駄だとは言えないだろう。
何年も時間を無駄にできず、私の方式による楽譜を七ヶ月か八ヶ月のあいだに初見で歌えるようになるだけでよしと考えている生徒がいると仮定しよう。通常の楽譜は彼らの場合でさえも無駄にはならないと私は断言する。実際のところ、これだけの期間の後では、彼らは通常の楽譜を初見で歌うことはできないだろう。たぶん譜読みをするのさえやっとだろう。しかし最後には読譜するようになる。というのは、彼らは私の方式によって拍子とか抑揚の習慣ができているので、先生の助けがなくても自分自身で読譜できるようにするには、七ヶ月目の五回か六回のレッスンを使い、彼らがすでに知っている原理によって通常の楽譜の原理を説明してやるだけで充分だからである。それに彼らがそんな面倒をわざわざしたくないという場合でも、彼らはどんな種類の楽譜でも彼らの楽譜に即座に置き換えることができるし、その結果通常の生徒にはまだ読譜できない時期でさえ彼らは通常の楽譜を利用することができるだろう。
教師たちも再び生徒に戻らなければならないのではないかと心配する必要はない。私の方式は非常の単純なので、読みさえすれば充分であって、研究の必要はないからである。彼らが私の方式に難点を見出すとしても、それは方式が難解だからではなく、彼らの考え方の癖に由来するものだと信ずる根拠がある。というのはこの方式を教えさせて頂いたご婦人方はこの方式で書かれた曲をすぐに初見で歌い、非常に正確に曲を自分で記譜したのに、第一級の音楽家だったら何も分からないふりをしただろうからである。
音楽家たち、少なくとも大多数の音楽家は、ものごとを偏見なしに冷静に判断するのがほとんど得意ではないし、通常は彼らは、ものごとがそれ自体どんなものであるかによってよりも、自分たちの利益とどんな関係を持ち得るかによって判断している。この意味からでも、たしかに彼らは私の方式の成功に異を唱えるいわれはまったくない。なぜなら彼らは私の方式が公になるやすぐにそれを私と同じく自由に扱うことになるからである。それに私の方式が音楽にもたらす便利さのおかげで私の方式は当然もっと広く使われるようになるだろうから、彼らは私の方式を広めるのに貢献して、もっと深く関わることになるだろうからである。しかしながら大体において、最初に私の方式を受け入れてくれるのはまず彼らではなく、大衆のはっきりとした趣味にほかならないだろう。この趣味こそが、音楽家たちにはこの芸術の難点に対する危険な改革に見えるような長所を持っているにもかかわらず、そのような方式を作り上げるように彼らに促しているからである。
私が音楽家一般について語る場合、その人となりと知識によってこの芸術の栄誉をつくりなした方々はそのなかに入れていないつもりである。どんな社会どんな国家においても常に民衆と呼ばれるものが数によって圧倒しているのは誰でも知っていることだが、どこにでも名誉ある例外的存在がいるということはそれに劣らず知られていない。そして特に音楽という職業について言い得ることは、大多数が民衆で、例外的存在はごくわずかということである。
いずれにしても、私の新案の効果を疑わせるような障害を何でもでっち上げたり誇大視しようとしても、パリにはたいへんな才能を持ちながら、時間がかかるし難しいというだけの理由で音楽を学ぼうとしない人が二千人から三千人はいるという日を見るよりも明白な事実は、誰にも否定できないだろう。私がそのような人たちだけを対象にするとしても、すでに反論の余地のない有用性がある。私の方式は彼らが通常の楽譜で演奏するのには何の役にも立たないなどと言わないでほしい。というのは、このような異論に対してはすでに答えたが、それ以外にも、私の方式が誰もが使うようになるほど充分に広まるまで、彼らに最良の曲をもった出版物や歌曲や器楽曲の定期刊行物を与えるように配慮すれば、それだけいっそう彼らには旧来の楽譜に頼る必要がなくなるだろうからである。
最後に、不信感をひどく誇張して、私の方式など誰も採用することはないだろうと考えたとしても、そのような場合にこそ、この芸術の愛好家たちにとっても自分たちの便宜のためにこれを工夫してみることは有効な事だと私は言いたい。この著作の巻末の私の方式による譜例によって、通常の記号よりも私の方式の記号の長所が、簡便さの点で、また明確さの点で理解できるだろう。五線紙なしに曲を記譜しなければならない場合がよくある。私の方式は非常に便利で簡単な手段を提供する。新しいエールやオペラのいくつかの場面全体を手紙をかさばらせずに地方に送りたいということはないだろうか? 非常に長い曲を一枚の紙に書くことができる。作曲をしながら、各パートの関係、和音進行、和声の状態を一目で分かるようにしたいということはないだろうか?私の方式を実践すればこういった希望がすべて満たされる。そして結論として私はこう言いたい。もし私の方式を、崇高な知識を論じることにしか役に立たなかったエジプトの僧侶たちのあの特別な言語と比べてみたとしたら、私の方式もやはり音楽の奥義に通じたものたちにとってこの上なく無意味なものとなるだろう。ただし異なる点は、私の方式は通常の言語よりももっと難解であるかわりに、もっと簡単なので、そのため長い間一般大衆にとっての秘儀であることはできないだろうということである。
私の方式を古い記号を根絶しようとする企てと考える必要はない。そのような試みは、たとえ最も有利な代替案をもってしても空想にすぎないだろうと私は考えたい。しかしまた私は、私の記号がもつ便利さと、そしてとくにこの上ない簡単さは、他の方式の今後のあり方とは関係なく、常に豊かにしていくに値すると考える。
それに音楽の記号は非常に長期にわたって不完全な状態にあったので、それらを作り直したり、手を加えようと試みた人がいたことは驚くべきことでもない。それにこのような代用に最も自然で最もふさわしい数字のようなものを選ぶことで考えが一致したのも決して驚くべきことではない。しかしながら、たいていの人は第一印象でしか物事を判断しないので、同じ記号を使っているという理由だけで、私はたんに人まねをしているにすぎず、二番煎じの方式を提出していると非難される可能性が十分あるだろう。私ははっきり言っておきたいのだが、実際に方式の違いをなしているのは記号の種類ではなくて、それらの使い方にあるのだということは簡単に分かることである。言い方を変えれば、例えば、代数学とフランス語は、どちらもアルファベットを使っているということからすれば、同じものだと言わなければならなくなってしまうが、しかしこんな風に考える人はおそらくいないだろう。どんな異論であれ、異論が一つでもあればそれで私から発明したという手柄を奪い取り、同時に他の方式の欠点を私のせいにすることは非常に都合のいいことなので、もっぱら都合がいいというだけで、そのような批判を採用することができる人たちがいるのだ。
こんな非難には私はまったく無関心というわけにはいかないけれども、直接私の方式に関わるような非難ほどには気をもむことはないだろう。はるかに重要なことは考案したものを知ることよりも、それが便利なものであるかどうかを知ることである。そして発明の名が私に拒否される場合でも、私はそのような不正によりも、この方式が大衆にとって有用だと分かる楽しみのほうに心打たれるだろう。ほとんどの人は私に認めてはくれないだろうが、一般大衆に私が要求する権利がある唯一の好意は、私の著作と私が剽窃したと非難されている著書を読んだ後で判断して頂きたいということである。
当初私はここには、私が1742年8月22日に科学アカデミーにおいて朗読させて頂いたような手短なプランだけを掲載するつもりにしていた。しかし、一般大衆にはアカデミーで喋ったのとは違う論じ方をしなければならないし、予め答えておくべき異論も多岐に渡ってあると考えた。したがって私が予想できた異論に答えるために何らかの追加が必要になり、現在のような状態の著作が出来上がったのである。生徒たちに教えるようなかたちでの私の方式の完全な原理を含む別の著作を刊行するには、読者の賛同を待つことになるだろう。そのような著作では、このジャンルで今まで刊行された全てのものとは完全に異なったオルガンおよびクラヴサンの伴奏の通奏低音新技法を扱うことになるだろう。それはたった四つの記号で、あらゆる種類の通奏低音を、転調と根音バスとがいつも完全なかたちで伴奏者からわかるので、決して間違えることがないような数字の付け方ができるものである。この方式によって、数字付き低音を見ないでも、数字がこの数字付き低音に関連しているのではなく、根音に直接関連しているので、この数字だけで非常に正確に伴奏できるのである。しかし、この問題に関しては、ここではこれ以上論じる場所ではない。

『近代音楽論究』

音楽の記号がかくも長期にわたって今日見られるような不完全な状態にあったのだから、音楽を学ぶことが難しいことから、それは記号のせいであって、この技芸のせいではないということが分からなかったということ、あるいはもしそれに気が付いていたとすれば、それを直す工夫を合えてしなかったということは驚くべきことであると思われる。この手の新案が提出されてきたことは確かである。しかし、通常の楽譜がもっている長所は持たず、不便な点をもっていたこれらの新案のどれひとつとして、私の知るかぎり、目的を達したものはなかった。それは、実際の利用があまりに表面的すぎて、理論的に考えようとした人々をがっかりさせたからだったり、平凡な音楽科たちの狭量で視野の狭い資質のために、総合的で理性にかなったプランを着想したり、通常は彼らがこの技芸の現状に非常に執着しているために、この技芸の真の欠陥を感じることが妨げられているからである。
音楽は徐々にしか完成していかない諸技芸の道を辿ってきた。音楽の記号を考え出した人たちは自分の時代の音楽の状態のことしか考えず、それ以降どうなるかということは予想もしなかった。その結果、彼らの方式がまもなく欠陥に満ちたものになってしまい、その後もこの技芸はより完成していったので、それだけいっそう欠陥が大きくなったのである。変化するにつれて、現在の不都合を手直しするため、そして日々圧迫してくる新しい組み合わせに対応できないあまりにも限られた表現力を増やすために、規則が立てられていった。要するに、この種の考案者たちは、ソヴール氏が言ったように、音のいくつかの特性と、とくに彼らの時代に用いられていた歌の実践のことしか念頭になかったので、それに関係する楽譜の方式を作るだけで満足していたのである。ところが他の人たちは音楽の趣味が変化するのに合わせて少しずつそれを変えてきたのである。ところで、ある方式は、たとへそれが当初は世界中で最も優れたものであったとしても、それに加えられる変化や埋め草によって最後には障害や難点を背負い込まないでいることは不可能である。その結果、それは全体としては、かなり混乱し、まとまりの悪いものを形成せざるを得なくなってしまうだろう。
これこそが今日私たちが音楽において用いている方式の場合であるが、しかし原理の単純さは別で、そんなものは今まで存在したことがないのである。今日用いられている方式の基礎は完全に間違っているので、本来の意味で台無しにされたというよりも、むしろ余儀なく付け加えられてきた付加物によって前より悪くなったというのに過ぎない。
グィド・ダレッツォ*がその頃使われていた記号をすべて廃棄して、そのかわりに今日用いられている音符に置き換えようとした頃に、音楽がどのような状態にあったか正確に知ることは容易なことではない。真実らしい点は、このグィド以前の記号が古代ギリシャ人がその驚異的な音楽を表すのに用いていたのと同じものであったということである。たとえ何と言われようと、その効果の点で私たちの音楽は彼らの音楽に決して及ぶものではない。そして確実な点は、グィドが音楽にかなりの害を与えたことであり、彼がその過程で今日の音楽家ほど強情に抵抗する音楽家を見出さなかったのは私たちにとって残念なことだということである。 *グィド・ダレッツォであれ、ジャン・ド・ミュリスであれ、著者の名前は学説には無関係である。私が前者についてのみ語るのは彼のほうがよく知られているからに過ぎない。
ギリシャ人のアルファベット文字は同時に彼らの音楽の記号でもあり算数の数字でもあったことは疑いのないことである。その結果、ディスクールのあらゆる変化、数のあらゆる関係、音のあらゆる組み合わせを表すのに、彼らはたった一種類の、全部で24個の記号しか必要としなかったのである。この点で、不必要なほど多様化した多数の記号で想像力を無理強いすることを余儀なくされている私たちよりも、彼らは賢明であり幸福である。
だが、私の主題に関係のあることにだけ話しをとどめておけば、音符の使用が音楽に持ち込んだかくも多くの困難にどうして気づかないということになったのだろうか?あるいは、気づいていたとして、どうしてそれを手直しするとか、最初の単純な状態に戻そうと試みるとか、ようするにグィドが台無しにするためにやったのと同じだけのことをどうして完璧なものにするためにするだけの勇気がなかったのだろうか?しかし実際にはこれは言葉の上のことでしかない。私だって本気で言っているのではないのだから。
私はこの著者が自分の方式のために旧来の方式を廃棄させようとしてもちあげた理由がなんであったのかを探してみたが、次の二点以外には見つけ出すことができなかった。1)音符のほうが数字よりもはっきりしている。2)そして音符の位置のほうが音の高低を目によく示す。したがって以上の二点が、私たちのグィドが新しい楽譜の方式の根拠とした唯一の原理である。その結果彼は二千年来用いられてきた方式を無効とし、人々に難しく歌うことを教えたのである。
グィドの二つの定理が真実だと認めた上で、彼の論理が正しかったかどうかを確かめるには、問題は、精神を犠牲にしても目のほうが優先されるべきかどうか、記号をいっそう面倒なものにすることによってより目立つものにすることにこそ方式の完成がかかっているものなのかどうかを知ることに集約されるだろう。なぜなら彼の方式の例こそこれだからである。
しかし私たちはこの点については議論に入る必要なない。なぜなら、このふたつの定理はどちらも間違っていて馬鹿げたものであり、きわめて劣悪な方式の根拠になるのがいいとこだからである。
第一に、まず音符はこれの代わりになる数字よりもずっと多くのスペースを取るので、普通よりも大きな数字を使えば、ずっとわずかなスペースで音符と同じくらい見やすいものにすることができる。さらに、音符による楽譜には付点、十六分音符、線、音部記号、嬰記号、その他のひつような記号を数字と同じくらい、あるいはそれ以上に細々と持っているので、音符の大きさではなくて、これらの記号視点を定める必要があることが分かる。
第二に、グィドは音符の位置の便利さをあれほどまでに高く吹聴すべきではなかった。というのも、音符の位置が原因になっているあれほど多くの不便はおくとしても、音符の位置によって得られる利点なるものはすでに自然な楽譜、すなわち数字による楽譜の中にそっくり存在するからである。他の楽譜の場合と同じで、数字による楽譜の場合も、ある音が前後の音よりも低いか高いかは一目見ただけで分かる。違いは、数字による方式の場合、音程、あるいはそれを構成する二音の関係が一回検討することによって分かるのにたいして、普通の楽譜では上行しているのか下降しているのかは目で分かるが、それ以上のことは何も分からないという点である。
既存の方式において、音程や関係の知識をどうにか身につけるためには、一体どれほどの熱心さ、忍耐心、巧みな技巧が必要であろう。それは長く続くだけで決して広がりを持つことのない習慣だけが作り上げる骨の折れる結果である。というのも、音楽家は15年も20年も実際にやっていても、とくにある音部記号から別の音部記号に飛ぶような場合には、音の出し方についてだけでなく、音程の知識についても、まごつく跳躍に何度も出会うからである。この問題は深く解明されるだけの意義があり、私はもっと詳しくこれについて語るつもりである。
グィドの方式は、その着想に関しては、数字というのはそれぞれの価値に対応するものがその形の中には何もないと考えて、数字が表す数に比例したある種の相対的な大きさを相互に持たせることにしようと提案した人間の方式に比較できる。例えば、2は単位の二倍の大きさであり、3は2よりも半分だけ大きい、などである。この方式を擁護するものたちは、形による違いはなく、大きさによる違いがあるだけで、それらが表す関係がいわば目に描かれるような同じ形の記号ばかりを目にすることは非常に都合がいいと、必ずや証明しようとするだろう。
それに、音の高低や音程が目で見て分かるということは楽譜には非常に必要なことなので、たった一本の線の上に、最も奇妙で、最も想像がし難く、意味に最も類似していない記号によって記譜しようとした何種類かの新案の馬鹿らしさを感じないものはいない。符尾が右に曲がったり、左に曲がったり、上についたり、下についたり、斜めについたり、四方八方に向いていて、ド、レ、ミなどを表す。符頭や符尾がさまざまな位置を取って、パ、ラ、ガ、ソ、ボ、ロ、ドという名称に対応し、またその他の記号がまったく同じように使われている。先ずはじめに感じられることは、これらのどれも目に対しては何も意味せず、それらが意味すべきものとは何の関係もないということである。だから敢えて言えば、音とそれらの関係を表すためには数字以外には適切で自然な記号は見出せないだろう。その理由はこの本を読む途中で何度でも知ることになるだろう。さしあたっては、数字というのは数に与えられた表現であり、数そのものが楽音の生成の指数なので、算数の数字によって諸音を表現すること以上に自然なことはないということを指摘しておくだけで充分である.
したがって、楽譜をこのような自然な表し方に立ち返らせようとする試みが時にはあったということは驚くに値しない。この技術について音楽家としてではなく哲学者として考えてみさえすれば、その欠点がすぐに感じられる。さらにこれらの欠点はその方式の根本そのものに内在するもので、記号の使い方が悪いからではなくて、記号の選択の仕方が間違っていることに由来しているということも感じられよう。というのは、長い間の実践が論理を補い、記号を最も便利なやり方で組み合わせることを私たちに教えてきたことは、誰にも否定できないことだからである。
最後に、推論によって、音楽は数にもとづいているので、数と同じ表し方をもつはずだとはっきりと分かる。これは、ただたんにある種の一般的な便宜からだけでなく、この技術の物理的原理の本質そのものから生じた必然である。
土台がしっかりしており、首尾一貫した一連の推論によって、いったんこのことが分かれば、そのときこそ哲学を離れて音楽家に戻るときである。そしてまさにこのことこそ、今までこの手の方式を提案したことのある人たちの誰一人としてやったことのない点なのである。非常に立派な理論から出発しながら、それをうまく使いこなすところまで行かなかった人々もあれば、この技芸の技術面しか理解できず、主要原理にまでさかのぼることができなかった人々もある。しかしながら一つのまとまった方式を企てるにはこのような主要原理から出発しなければならないものなのである。ある人たちには実践の経験が欠け、別の人たちには理論が欠け、おそらく敢えて言えば、全ての人たちに天分の才が欠けていたのである。そのために、現在までのところ、刊行された新案のどれひとつとして、通常の楽譜の利点を保持しつつ不都合を手直ししえたものがなかったのである。
楽音は音程の度数にせよ、あるいは振動の比率にせよ、つねに数で表せるので、数字で楽音を表すことにはたいした困難はない。そうではなくて、通常の楽譜の不便を改めてもたらすことなくかなりの数の数字を使うことの心配、そしてさまざまな旋法との関係で、諸音の音階組織や進級を定める必要が、当初の予想以上の注意力を必要とするのである。というのは、問題は、24の調のそれぞれにおいて使われる全ての楽音をごく少数の記号でもって表すための普遍的な方法を見出すことにあるからである。
これらの方式を考案した人が誰でも落ち込む大きな困難は、休符や楽音のさまざまな長さを表すことが難しいという点である。通常の楽譜の偽りの規則にだまされて、たいていの人は全音符、四分音符、八分音符といった考え方を超え出ることができなかった。彼らはこうしたからくりの奴隷となり、このからくりが打ち立てた間違った関係を採用したのだ。したがって、音符に一定の音価を与えるために新しい記号を作り出し、それぞれの音符に音の長さと音の高さの関係で複雑な形を導入しなければならなかったのである。その結果、通常の楽譜にさえなかった不便が生じたので、これらの方式のどれも不評を買ったのは当然のことである。しかしもっと大きな欠点と比べられたところで、この技芸の欠点は相変わらず存続している。だからもっと劣悪な方式が幾千と刊行されるとしても、同じ問題が解決できずにいることには変わりがないし、それらが今日使われている方式をもっと完全なものにすることもないだろう。
音楽をある程度習得するのにそのための勉強に必要となる甚だしい手間について、音楽家は別として、誰もがたえず不平をこぼしている。しかし、音楽から得られる喜びがものを考えるのに必要な冷静さを損なうせいか、あるいは音楽を実践している人々が通常はあまりものを考える人々ではないせいか、音楽というのはあまり考察の対象になってこなかった学問の一つであるので、 今まで音楽のこのような難点の真の原因を究明しようと誰もしなかったし、芸術家が持ち込んだ欠点でもってこの技芸そのものを不当にも非難してきたのである。
実際のところ、これほど多量の五線、音部記号、移調、嬰記号、変記号、本位記号、単純および複合拍子、全音符、二分音符、四分音符、八分音符、十六分音符、三十二分音符、全休符、二分休符、四分休符、八分休符、十六分休符などは多数の記号や組み合わせをもたらし、そこから多くの面倒や不都合が生じる。だがいったいこれらの不都合とはなんなのだろうか?それらは音楽そのものから直接生じるのか、それとも音楽の表し方が悪いからなのだろうか?それらは訂正を受け入れるものなのだろうか?もし可能だとしたらそれにもたらし得る適切な手直しとはどんな物なのだろうか?そこまで検討を押し進めることは稀なことである。そしてまるまる数年も我慢して、頭は音のことで、記憶は無駄話で一杯にした後、そうしたことを何も理解していないことにびっくりし、音楽も音楽家も嫌になってしまい、あれほどほめそやされた音楽の魅力よりも、この技芸のうんざりさせられる難解さのほうに納得して、音楽も音楽家も見捨ててしまうということがしばしば起こるのである。
私が企てているのは、音楽が非難を受けている過誤がいわれなきものであることを証明し、通常の方法よりも、もっと短く簡単な道を通って、もっと完全にもっと理解をして音楽が習得できるということを証明することである。そうなれば、たとえ一般大衆が通常の方式にあくまでも執着しようとしても、そこに見出す難点は少なくとも彼らだけの責任ということになるだろう。
ここでは既存の方式の欠点のすべての詳細に立ち入ろうとは思わないが、それでも最も重大な欠点については論じる機会があるだろうし、これらの不都合はこの方式の土台そのものの必然的結果なのだから、私が提案しているような全体的な改造以外には、こうした不都合を訂正することは絶対に不可能であるということを指摘しておくほうがいいだろう。残るは、私の方式が実際に新たにおなじだけの欠点を持ち込むことなしに、これらの欠点を手直しできるのかどうかを検討することである。そしてこの検討こそ、この小著の目的なのである。
一般的には、通常の楽譜の欠点はすべて、三つの主要な種類にまとめることができる。第一の欠点は、記号とそれらの組み合わせの多さで、そのために初心者の精神と記憶にいたずらに負担を掛けており、そのためにずっと以前から耳は形成され、器官は必要な柔軟さを獲得しているのに、いつまでたっても初見で歌えず、その結果、規則を遵守することにすべて問題があるのであって、歌を歌うことにあるのではないということが分かるのである。第二の欠点は、同一の音部記号上で、あるいは異なった音部記号上で表される音程の種類に明確さが欠けているということである。この欠点は非常に大きな影響力をもっているので、生徒たちの進歩の遅いことの主要な原因となっているだけでなく、熟練した音楽家でも演奏に際して時に不便を感じないような人はいないのである。第三の欠点は、記号が極端に散らばっており、あまりにも多くのスペースを占領することである。このことは線を引くのが非常に面倒な五線や譜表と結びついてまた別の面倒の種となっている。たぶんこんな題目は多くの読者諸兄にはそれほど大事なことではないと思われるだろう。しかし、どんな種類のものであれ、とくに音楽の記号を完璧にするには何が必要かを諸兄がお考えになられたら、それは本質的にわずかのスペースで多くのことを表現するということにあり、制度的な事柄にしても一般的な事柄にしても、長所の最も少ないのが、けっして小さな欠点ではないということを感じることになるだろう。
これらの不都合を一度に全部手直しすることができるような方式を見つけ出すことはまずかなり難しいと思われる。記号の数を増やさずに、記号にいっそうの明晰さを与えるにはどうしたらいいのか? 一方では記号の習得にこれ以上時間がかからないように、これ以上理解しにくくならないようにして、他方ではスペースがこれ以上かさばらないようにして、記号の数を増やすにはどうしたらいいのか?
しかしながら、事態を詳細に考えてみると、こうした欠点はすべて同一の根から発生しているものだということがまもなく分かる。それはすなわち、記号の制定のまずさとその量である。最初に記号に与えられた限られた、しかも理解しにくい表し方の不十分さを補うためにこれらを確立する必要があったのである。同じような記号でももっと単純で数が少ないものが考案されればすぐにでも、そうした記号はより明確で、同じだけのことをもっと少ないスペースで表すことができるだろうということは、説得力がある。
それに、これらの記号が注意を分散しないためにはすでによく知られたものであり、また楽譜をもっと便利なものにするためには書き易いものであれば、都合がいいだろう。(p.174) 以上が、私が読者に提示する方法について考えつつ目論んだ見解である。生徒に教授される私の方式についての詳細は別の著作を予定しているので、ここでは一般的なプランだけにしておくが、それだけでも現在音楽を研究している人々に私の方式を完全に理解してもらうには十分だろうし、ここでの私のプランの提示が簡潔だからといって私の原理の単純さが難解さや曖昧さの原因になることはないと期待している。
まず、音楽においては二つの主要な対象を別々に考察しなければならない。第一の対象とは考え得る全ての楽音をいかに表現するかということであり、第二は楽音およびそれに対応する休符をさまざまな長さのすべてをいかに表現するかということである。これにはテンポの違いも含まれる。
音楽というのは、すべて同時に聴かれるか、連続して聴かれるかの違いはあるにせよ、諸音のつながりに過ぎないので、基礎音がはっきりと表され、関係が認識し易ければ、どの楽音もそれぞれが自然な基礎音あるいは恣意的な基礎音にたいしてどのような位置を占めているかを指示してやるような相対的な表し方を持つだけで充分なのである。これは、基礎音が特別はっきりしているわけでもなく、音符の全ての関係が長期間の勉強を必要とするような通常の楽譜にはまったくない利点である。
だが、できるかぎり最も都合よくこの基礎音を確定するためにはどんな方法を取るべきだろうか? これが先ず検討に大いに値する問題である。聴くたびにそれだと特定することを可能にするようななんらかのよく知られた特殊な特性を持つような音は自然には存在しないということはすでに分かっていることである。たった一つの音だけ聞いて、それがラやレではなくドであると誰も決定することはできないし、その音だけを聞いているかぎり、ある特定の名前をその音に付ける決心をさせるようなものは何も見出し得ない。このことはすでにド・メラン氏が指摘したことである。彼は言う。自然の中にはそれ自体で五度とか四度であるようなドもソも存在しない。なぜならド、ソ、あるいはレは予め決められた基礎音との関係において仮説的にしか存在しないからである。それぞれのピッチがあたえる感じ方の違いは、あるピッチが総音域のなかで占める位置に固有なものはそれ自体では何もなく、別々に聴くと他のピッチからあるピッチを区別するものは何もない。オペラ座のレは礼拝堂楽団のドであるかもしれないし、その反対もありうる。ある音を構成している振動の速さと周波数が、お望みとあれば、別の音を構成することもありうる。それらが感覚において異なるのは、八振動は九振動とは違うように、こっちのほうが高いとか、こっちのほうが低いという質にすぎないのであって、感覚の特定の差によるものではない。
したがって、すべての音は音を産出する振動によって感覚を生じさせるという能力に単純化されるし、それらの音のそれぞれの特性は一定時間内の特定の振動数に単純化される。ところで、これらの振動数を数えることは、少なくとも直接的な方法では不可能なので、その結果、諸音を別々に識別することを可能にするような特性はこれらの音の中には見出せないし、いわんや他の音から特に区別され、それらが相互に持つ関係の基礎となるのに値するような音は一つもないということが、明らかなことと言えるだろう。
ソヴール氏が通常の音階のすべての音の基礎となるような固定音を確定する方法を提案したことがあったのは事実である(n.2)。しかし彼の論証そのものが自然の中には固定音が存在しないことを証明しているし、彼が任意の音を見出すために考え付いた非常に巧みであるが実践不可能な策略は、これもまた、仮説、あるいはこう言った方がよければ、思索の真理と実際の単純な規則とのあいだがいかに隔たっているかを証明している。
しかしながら、自然をもっと詳細に探ることによって、他のすべての楽音と結び付けて比較の原理として使えるような一つないしは複数の基礎音を確立するために、この技芸に頼ることなしに済ますことはできないのかどうか考えてみよう。
まず、私たちは実践のためにのみ仕事をしているので、楽音の探求においては、一般的に採用されている平均律化された体系を構成する音だけを論じることにしよう。そして私たちの音楽の実践に関わってこない音は無と見なし、平均律から生じる和音はすべて例外なしに正しいものと見なそう。そうすれば、通常の音楽で認められているのと同じこのような前提をしたからといって、平均律化された体系がさまざまな転調の結果として導入する多様性はまったく失われることはないということが分かるだろう。
したがって、オルガンやクラヴサンで使われている鍵盤のすべての音を採用すると、経験から分かることは、16フィートの長さのパイプで、スウェル・ボックスを開いて生じる音で、ドという名称を与えられた音は、主要な音以外にも、それよりは弱いけれどもかなりはっきりと、長三度と五度*の音を鳴らすということである。このふたつの音にはミとソという名称が与えられた。私はこれら三つの音を別々に書いておき、ソと名付けたばかりの音あるいはそのオクターヴ音を出すパイプを五度音のところに探し、10フィート8インチの長さのパイプを見つけ出す。このパイプは、その主要な音ソ以外に、二つの音を鳴らすが、それはもっと弱い音である。私はそれらをシとレと名づけ、このふたつの音はソにたいして、ソとミがドにたいしてもっているのと同じ関係をもっていることを見出す。私はこのふたつの音を先ほどの後に書くが、ソを再度書くのは無駄なので、省略する。五度のレと同音の三本目のパイプを探し、それが主要音のレ以外にさらに二つの音を鳴らし、それらが先ほどの比率と同じ比率をもっていることを見出す。私はそれらをファとラと名づけ**、先ほどのものに続けて書き記す。ラの上で同様のことをすれば、さらに二つの別の音が見出せるだろうが、五度は最初のドの三度をなすミと同じものだということが分かるので、私の実験を無用なかたちで繰返さないために、ここで終わりにする。こうして最初のドと二つずつ見出した他の六音に対応する以下の七つの名称が得られるのである。
ド、ミ、ソ、シ、レ、ファ、ラ
* すなわち五度の複合音程である十二度と長三度の三重音程である十七度である。オクターヴと複数のオクターヴもかなりはっきりと聞こえるし、耳が主要音と混同しなければ、もっとよく聞こえるだろう。
** レの長三度をなすファは、その結果この進級内ではシャープ音になる。はっきり言って、この調の第四度音と考えられるファ・ナチュラルの起源を展開するのは簡単なことではない。それをしようと思えば、この著作の本題から外れるほどとおくまで考察を進めなければならなくなるだろう。それに、ファ・ナチュラルはハ調では不協和音あるいは不協和音の準備としてしか扱われないことを証明することができるだけに、それだけいっそうこのどうでもいい例外にはあまり関わる必要はない。
つぎにこれらの音をすべてオクターヴ移動させて最も小さな音程内に近づけると、以下のような順序になる。
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ
そしてこのように並べられた七音は、まさに自然自体によって長調に割り当てられた全音階的進行を示している。ところで、最初の音ドは他のすべての音に原理と基礎の役割を果たしているので、私たちはこのドを探し求めていた基礎音と見なすことにする。なぜならこの音は実際にこれに続くすべての音を発した本源であり、原点だからである。このようにしてこの基礎音から出発して基礎音で終わり、つねに後から生成された音よりも先に生成された音の方を優先することによって、この音階のすべての音を一巡すること、これがハ長調で音を動かすということであり、これこそが他のどの音階よりも自然音階と呼ぶにふさわしく、すべての実践可能な調の基本的な音を適合させるさいの比較の準則となる基本音階である。それに、他のどのパイプによって鳴らされる音を基礎音ドと見なせば、他の音を使ってまったく同じ進級が得られるし、したがってこの選択は、経度を確定するのにこれこれの子午線を選ぶというのとまったく同じような恣意的な純然たる約束事にすぎないということも明らかである。
その結果、ドを私たちの操作の基礎と見なして行なったのとまったく同じことを、今度はそれに続く六音のどれかを選んで始めれば可能であるし、この新しい基礎音をドと呼べば、先ほどと同じ進級に到達するだろう。そして新たに
ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ
が得られるだろう。
唯一の違いといえば、レ以降の音はそれらの基礎音ドにたいして、以前のケースと同じように置かれるが、この基礎音と前のケースの基礎音は別々のパイプ上に鳴らされるのだから、それらの対応する音は別々のパイプによって鳴らされるし、例えば最初のドは二つ目のドと同じではないし、同様に最初のレは二つ目のレとは同じではないということになる.
さしあたって、これら二つの調のうちの一方が自然音階と見なされているので、もしもう一方の調のさまざまな音が最初の調に対してどのような関係にあるかを知りたければ、最初の調の自然音が第二の調の基礎音とどのような関係にあるかを調べさえすればいい。対応するオクターヴ内ではそれぞれの調の同じ名称を持つ音のあいだではつねに同じ関係が存続している。例えば、第二の調のドは自然音階のソ、すなわち自然音階のドの五度に当たるし、第二の調のレは確実に自然音階のラ、すなわち自然音階のレの五度であり、ミはシ、ファはドといった具合である。そしてこの場合、ト長調にいることになり、すなわち自然音階のソを別の長調の基礎音にするために使ったと言えるだろう。
しかし、どのパイプからも三つの音が鳴らされるという実験においてラのところで止めてしまわないで、この五度進級を続けて、出発点となった最初のドあるいはこれのオクターヴ違いの音(n.2)に戻るまで続けたとしたら、先の音の半音違いの音を五つ通ることになるが、それらは先の音ともにオクターヴの音域に合計で十二の異なった音を形成することになり、全体で半音階的音階組織の十二音と呼ばれるものを作ることになる。
これら十二音は、さまざまなオクターヴで反復されて、普通の音階の全音域を形成するが、少なくとも平均律化された音階組織では他の音はまったく現われてこない。というのは、パイプが鳴らすすべての音を五度ずつ一巡したあとでは、出発点となった最初の音のオクターヴ違いの音にたどり着き、その結果、同じ操作を続けても、先の諸音のオクターヴ違いの音しか得られないからである。
音楽で用いられているすべての音の生成を見出すために自然が指示し、私が従った方法が私に教えてくれるは、したがって第一に、どこにも存在しない本来の意味での基礎音を見つけ出すことではなく、約束によって確立された音から、それが実際に基礎音だった場合に持ち得るのと同じ利点を引き出すこと、すなわちこの音を実際に現在使われているそれ以外のすべての音の原点であり生成源にすることである。というのは、これらの音は、ちょうど鍵盤のキーがハ調に対して持つのと同じように、この音ともつ確定した関係の結果としてしか存在し得ないからである。
この方法が第二に私に教えてくれるのは、これらの音のそれぞれと基礎音との関係を確定したあとでは、今度はそれぞれの音を基礎音と見なすことができるということである。というのは、その音を鳴らすパイプは基礎音と同時にその長三度と五度を鳴らすのだから、この音を生成源として出発すれば、進級に関しては最初にできあがった音階と何ら変わらない音階が見出されるからである。つまり要するに、鍵盤のどのキーもまったく異なった二つの意味で考えられることができるし、考えられるべきだということである。第一の意味からは、このキーはハ調の音階に関係する音を表し、この意味ではこのキーが自然音階の二つのドのあいだにはさまれるオクターヴの第二度音か第三度音か第五度音かによって、レとかミとかソなどと呼ばれる。第二の意味では、このキーはある長調の基礎音となり、この場合にはたえずドという名称を持たなければならない。そしてこれ以外のキーはすべてこの基礎音とどのような関係を持つかによってのみ考察されるべきであるので、それらが占める音度にしたがってそれらが持つべき名称を決定するのはこの関係である。オクターヴには十二の音が含まれるので、選ばれた音を示す必要があり、ナチュラルなラあるいはレだったりするが、それが音を決定する。しかしこれを基礎音とし、調を決定しなければならない場合には、それがつねにドとなり、それが進行を決定するのである。
以上の説明から、オクターヴ内の十二音のいずれも使い方によって基礎音になったり相対音になったりすることができるということが分かる。違いは、各調の音階中の自然音階のドの位置は当然この音を基礎音にするが、基礎音として選ばれる他の音にたいしては常に相対的だということである。これにたいして、もちろんドの音に対して相対的な他の音が基礎音となるのはそれぞれ個々別々な決め方によってでしかない。それに、諸音の中に基礎音と相対音の区別をさせるのは自然自体であるということは明白である。つまり、どの音もその倍音、すなわちそれが基礎音になった調の基本和音である長三度と五度を鳴らすのだからもともと基礎音となり得るし、どの音も他の基礎音の倍音あるいは基本和音の一つとならないようなものはないのだから、もともと相対音となり得る。なぜ私がこのような考察にこだわったのかがこの後分かるだろう。
したがって私たちは音楽で実際に使われている十二の長調の基礎音または主音となる十二の音をもっていることになるが、これら十二の音は基礎音としてはそこから派生する変化に関してはどれも完全に同じである。短調に関しては、短調は自然によって与えられるものではないし(n.1)、短調の倍音を聞かせる音はまったくないので、短調には絶対的な基礎音というものは存在せず、短調を生成した長調(これを説明することは簡単である*)との関係によってしか存在してないと考えることができよう。
* ラモー氏の『理論的音楽の新体系』の21ページ、『和声論』の12ページと13ページを見よ(n.2)。 したがって、私たちの新しい記号の制定において私たちが目論むべき最初の目標は、先ずどんな場合でも確立しようと考えている基礎音とこの基礎音が比較の基礎音つまり自然音階のドとのあいだにもつ関係を明確に示す記号を考えつくことである。
この記号がすでに決まったと仮定しよう。基礎音は確定しているので、他の諸音が基礎音ともつ関係によってそれらを表すことが問題になる。というのは、これらの諸音の進行と変化を決めるのはこの基礎音だけだからである。ところが実際には通常の楽譜ではこんなことはしない。というのは通常の楽譜では、諸音は調にもそれを確定している基礎音にも関係なく、たえず楽器のキーと自然音階とに直接関係をもっている固定した名称によって表されるからである。しかしいま問題になっているのは現在何が行われているかではなくて、どうするのが最もいいかということであるので、私が既存のものにとって変えようとしているものが選ばれるに値することを明らかにするならば、もっと便利で手短な道を示してくれる別の手引きのために悪しき手引きを捨てる権利のほうが、悪しき実践を拒む権利より大きいだろう。それに、もし悪しき手引きが自分にずっと従うことをあなたに強制しても、長い間あなたはそれに迷わせられたというだけの理由から、それを馬鹿にしはしないだろうか?
このように考えると、私たちは楽音を表すためには数字を選択すべきだという考えに真っ直ぐ向かうことになる。というのは数字は関係しか示さないし、音を表すということはそれらが相互にもっている関係を表すということに他ならないからである。すでに指摘したように、ギリシャ人が彼らのアルファベット文字を楽譜用に使っていたのは、彼らの文字は同時に算数のための数字であったからである。ところがそれにたいして、私たちのアルファベット文字は数の観念も関係の観念も普通はもたないので、それらを表すのにとてもそんなに適しているものではないのである。
そういうわけで、音符に変えて数字を用いるという試みが非常にしばしば行なわれてきたとしても驚くべきことではない。これを企てた人たちが普遍的な方式をその全体にわたって把握するのに必要な忍耐心と知識をもっていたとしたら、これはこの技芸にもたらし得た最も重要な貢献であったであろうことは確かである。この点について無数の試みが為されてきたということは、ずいぶん以前から既存の記号の欠点を人々は感じていたということが明らかである。しかしそれだけでなくそれを訂正するよりも気づくほうがずっと簡単であるということも明らかである。そこから事は不可能だと結論しなければならないだろうか?
したがって、記号の選択についてはすでに決まっているのだから、いま問題なのは記号を用いるさいの最良の方法について考えることである。これには若干の配慮が必要となることは確かである。というのは、すべての音を同じ数の数字で表すことしか問題にならないのなら、たいした困難は生じないだろうからである。だがそれにはたいしたメリットも同様にないだろう。楽譜に音符の位置から生じる混乱よりもっと悪い混乱をもたらすことだろう。
通常の方式の考え方からできるだけ離れないようにするために、私がまず注意するのは、自然音階の鍵盤、すなわちオルガンやクラヴサンの黒鍵[今日の白鍵]である。そして、それ以外のキーには通常使われている記号に似た変化記号を残しておく。あるいはむしろ、もっと普遍的な考え方にしっかり立つために、私は、私の記号の規則にかなった適用によって、私の原理の豊かさだけでどんなことにも充分であると確信しているので、ここでは転調や調の変化については捨象して、長調に割り当てられた音の進行と関係だけを考察することにする。
その上、鍵盤の全領域はいくつかのオクターヴが連続して繰返されたものに過ぎないので、その一つを取り出して考察するだけでよしとし、このオクターヴの音に私が割り当てることになる記号と同じものを他のすべてのオクターヴにも順次適用する方法を求めることにする。そこから、私は異なったオクターヴ同士のあいだでそれぞれに対応している音符に同じ名称を与えるやり方にも、また同時にそうした対応している音を同じと感じてしまう耳にも、それらを表す数字のあいだには同じ関係しかないことを私に分からせる理性にも慣れるだろうし、最後には異なったオクターヴのあいだにつねに見出されるはずの類似と相似を悪しき配列の仕方によって無効にしてしまうという、通常の楽譜がもつ大きな欠点の一つを訂正することになるだろう。
諸音とそれらが相互にもつ関係を考察するには二つの方法がある。その一つは、それらの生成による方法、すなわち諸音を鳴らす弦あるいはパイプのさまざまな長さによる方法である。もう一つは、諸音を低音から見て隔てている音程による方法である。
最初の方法に関しては、それは私たちの記号の確立にさいしてまったく重要性をもたないだろう。その理由としては、それを表すにはあまりのも多数の記号が必要になるだろうからだし、これほど数が多いと、ここでの私たちの重要な対象となるべき音の出し方を容易にするということに関して、何の利点もないからである。
反対に、音を音程によって考察するという二つ目の方法は、無限の有用さを含んでいる。現在使われているような位置による方式が依拠しているのがこれである。この方式によれば、音符はそれらを隔てる空間のなかに音程の種類を明確に教えるようなものをそれ自体では何ももたないので、それを最初の一目で識別するために必要な習慣を獲得するまでには計り知れないほどの時間が必要だということを予告しておかなければならないことは確かである。しかしこの欠点はただ記号の選択のまずさから来ているだけなので、その記号の土台となっている原理を否定するような結論は何も下せないのである。そして反対にこの原理から音の出し方が習得するにも実践するにも容易になるようなあらゆる利点がどのようにして引き出されるかが、やがて分かるだろう。
ドを他のすべての音が関係をもつべき基礎音と見なし、それを数字の1で表すと、それに続いて、自然音階の七音ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シを七つの数字1、2、3、4、5、6、7で表せることになる。そこで、歌がこの七音の範囲で歌われるかぎり、すべての音を明確に書き表すには、それぞれの音をそれに対応する数字で記譜するだけで充分である。
この記譜法が位置による方式の非常に吹聴された利点を充分に保持していることは明らかである。というのは、ある音が他の音よりも高いか低いかがこの上ないほど明確に目で分かるからである。1から5に行くには上行しなければならないこと、4から2に行くには下降しなければならないことが完璧に分かる。これにはいささかの反論の余地もない。
しかし、この問題をここで詳述することはせず、二つの方式の比較から生じる主要な考察についてこの著作の最後で触れるだけにしておくつもりである。なぜかというと、私の新案に注意して従ってくれれば、そうした考察はたえず自ずと見えてくるだろうから、私としては私が最後にどういうかを予想する喜びを読者諸氏に残すことによって、読者諸氏と同じように考えたという栄光を得たいものだと願っているからである。
最初の七つの数字はこのように配置されると、それらの音程の度数のほかに、それぞれの音が基礎音ドにたいして占める度数も指し示すことになり、その結果、数字によって表すことによって、音程を構成する二音のあいだの関係とそれらの音と基礎音のあいだの関係という二重の関係を示してやれないような音程はまったく存在しないのである。
したがって、数字の1はつねにドと呼ばれ、2はつねにレ、3はつねにミ、などと呼ばれるが、これは次の順序に従っている。
1 2 3 4 5 6 7
ド レ ミ ファ ソ ラ シ
しかし、他のオクターヴに移行するためにこの音域から出なければならなくなると、新たな難点が生じる。というのは、必然的に数字を増やすか、さもなければどのオクターヴにいるかを確定する新たな記号によってそれを補わなければならないからである。そうしなかったら、高いドも低いドも同じように1で記されるので、音楽家の混同を避けることはできず、曖昧さがどうしても生じてしまうことだろう。
これは、音の高低の位置を表すという方法が、通常の楽譜の不便さや困難さは残さないで、その利点だけをすべてそのまま残していると認められるケースである。横線を一本引き、その上に同じオクターヴに含まれるすべての音、すなわち下のドから上のドの一つ前のシまでを並べてみよう。上のドから始まるオクターヴに移る必要があれば、線の上に数字を置くだろう。反対に、線上に置かれたドに続くシによって下降しながら始まる下のオクターヴに移りたければ、この線の下にそれらを置くだろう。つまり、通常の楽譜ではそれぞれの音度ごとに買えなければならない位置を私の楽譜ではオクターヴごとで変えればいいことになり、その結果、組み合わせは六分の一に減ることになる(表、第一例参照)。
この最初のドのあと、下のオクターヴのソに下がる。ふたたび、元のドに上がり、同じオクターヴのミとソのあとで、上のド、すなわち上のオクターヴを開始するドに移り、つぎに下のソに移り、最後に最初のドに戻る。
これらの例(表、第一例および第二例参照)から、数字が同じオクターヴ内にあるときには数字の異なった値によって、あるいはオクターヴが異なる場合には数字の位置の違いによって、声の進行がいかにいつでも目に示されているかが分かるだろう。
この仕組みは非常に単純なので、一目で理解されるし、それを実際にやってみることはまったく簡単なことである。たった一本の線で、三オクターヴの音域の音を動かすことができるし、それにもし、これは慎みのある曲ではほとんど起こらないことだが、さらにそれを超えようと思うことがあれば、通常の楽譜の場合と同様に、上にも下にも臨時線をいつでも自由に追加することができる。両者の違いは、通常の楽譜では三オクターヴのためには十一本の線を必要とするが、私の楽譜では一本の線しか要らないということである。そして私のほうは、たったの三本の線だけで、大音域よりももっと広い五オクターヴ、六オクターヴ、それに七オクターヴに近い音域を表すことができる。
私の方式が採用している位置と、通常の楽譜で使われている位置とを混同してはいけない。その原理はまったく異なっているのだから。通常の楽譜がねらっているのは音程を指示することと、音符が見かけ上離れているかそうでないかによって、器官をいくぶんか準備させることだけであって、音程の種類や隔たりの音度の知識を習慣からでなく与えることによって、それらをしっかりと区別することができるようにすることなど考慮してはいない。反対に、音楽家の知識の基礎をなしている音程についての認識は私には非常に重要な点に思えたので、これを私の方式の本質的な対象としなければならないと考えた。次の説明は、私の記号によって、しかも一度説明を読むだけの苦労で、いかにそれらの音程の種類と名称から考え得るすべての音程を確定することができるようになるかを示すものである。
先ず私たちは音程を正音程と逆音程に、さらにそのいずれをも単音程と複音程に区別する。
これらの音程のそれぞれを私の方式で考察して定義しよう。
正音程は、数字が進行と一致するような二音間に含まれる音程である。つまり高い音はまた大きな数字を、低い音は小さな数字をもつはずである。(表、第三例参照)
逆音程は、その進行が数字とは逆になるもので、つまり音程が上がると二番目の数字が小さく、音程が下がると二番目の数字が大きくなるものである。(表、第四例参照)
単音程は、一オクターヴの音域を超えないもの。(表、第五例参照)
複音程は、一オクターヴの音域を超えるもの。これは常に単音程のオクターヴ違いである。(表、第六例参照)
あるオクターヴから次のオクターヴに入るとき、つまりそのオクターヴの上か下に線を越えるか、あるいはその逆のとき、音程は逆の場合には単音程だが、正音程なら、それはつねに複音程となるだろう。
これだけの簡単な説明だけでも、考え得るすべての音程の種類を徹底して知るには充分である。今度はその名称を直ちに学ぶ必要がある。
すべての音程は、二度、三度、四度という小さいほうから最初の三つの単音程によって形成されると考えることができる。それらのそれぞれのオクターヴにたいする補足音程は七度、六度、五度である。これらとオクターヴとで、例外なく、すべての単音程ということになる。
したがって、正の単音程の名称を見つけるには、それを表す二つの数字の差に1を足すだけでよい。例えば、1、5の音程を例に取ると、二つの数字の差は4であり、これに1を加えると5となり、つまりこの音程の名称は五度である。2、6または7、3などでも、同じことになる。別の音程4、5を例に取ると、差は1で、これに1を加えると2で、この音程の名称は二度である。この規則は全部に通じる。
正音程が複音程の場合、上のようにやった後で、オクターヴ一つにつき、7を加えなければならない。そうすればきわめて正確にその音程の名称が得られる。例えば、1、3が複音程の三度なのはお分かりだろうが、そこで3に7を加えれば10となり、つまりこの音程の名称としては十度が得られる。
音程が逆の場合、正音程の補足音程をとれば、それがその音程の名称になる。したがって、六度は三度の補足音程で、1、3の音程は逆三度であるから、これは六度だということが分かる。さらに複音程の場合、それにオクターヴの数だけ7を加えなさい。こんなわずかな規則で、どんな場合でも、どんな音程が提示されても、諸氏は直ちに、しかもいささかの困惑もなく音程の名称を言うことができる。
そこで、私が提唱する方法による音階名唱法においてどの点まで私たちが進んだのかを、私がたった今説明したことにもとづいて見ることにしよう。

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