『「「百科全書」における音楽に関する誤謬」という表題の冊子においてラモー氏によって主張された二つの原理の検討』(1755年?)


私がこの著作を書き留めたのは,1755年に,ラモー氏の小冊子が出版されたときのことであり,またそれまで我慢をして耐えてきた大論争について,それ以降は私の論敵たちに反論するつもりがないと公表した後のことであった.ラモー氏の著作についていろいろ考えたことについて覚え書きをまとめただけで満足したので,私はそれらを出版しなかった.それを今になってここに付け加えて出版しようとするのは,ただたんに,それが私の『音楽辞典』のいくつかの項目をもっと分かりやするのに役立つという理由からに他ならない.というのは,『音楽辞典』はその著作の形式上の理由から,あれ以上に長々と議論をすることができなかったからである.
ラモー氏の新しい著作が出版されるのを,私はいつもわくわくして見ている.それらが大衆にどのように受け止められようと,音楽の愛好家のにとっては貴重なものだからであるし,それを役立てようと努めているものの一人であることを,私は誇りに思っているからでもある.この巧妙な芸術家が私の間違いを指摘ししてくれる場合でも,彼は私に多くのことを教えてくれ,そのことで私に栄光を与えてくれるのだから,私は大いに感謝しなければならないのである.私は平穏を乱すものになる論争を断念したからといって,純粋の楽しみになるような論争までみずからに禁じたわけではないのだから,氏のほうから新しい解明がもたらされるのなら,いつも有用なことをしたという確信が持てるので,氏が決めるいくつかの点については機会があれば論争をするつもりである.これはまさに,この偉大な音楽家の見解どおりのことをすることである.なぜなら,この人は自分の主張する命題に誰かが異議を唱えても,結局はその命題をもっと明確にする手だてを彼にもたらすことにしかならないと言っているからである.だから,私も,彼の命題に異議を唱えるのはいいことだと結論しよう.
それに私は『百科全書』の中の私の項目を弁護しようなどとはほとんど考えていない.実際のところ,これらの項目を攻撃しているラモー氏以上にそれらに満足すべき人はいないだろうし,私以上にそれらを不満に思っている人もいないだろう.しかし,それらがどんな時期に書かれたか,私がそれらを書くのにどれだけの時間を使ったかということや,一度仕上げた仕事をもう一度取り上げるのが私には不可能だったということが分かれば,またその上,こうした仕事にたいしてみずから買って出るような自惚れが私にあったわけではなく,いわば,友情から押しつけられた仕事だったということを知ったら,これらの項目をいくらかは大目に見て読んでもらえるだろう.私に与えられた時間内では,これらの項目を書くのが精一杯で,じっくり考える余裕はほとんどなかったし,もし私が時間と私の能力のことだけを判断基準としていたら,決してやろうとはしなかっただろう.
しかしこれは大衆に対するいいわけであり,それには別の場があるだろう.ラモー氏に戻ろう.彼を私は大変誉めたのだが,彼は誉め方が足りなかったと言って,私を非難している.読者が,数字符を付ける和音伴奏といった,彼に攻撃されている項目を一読してくれ,公平たらんとして才能ある人々に控えめに与えられる真の讃辞を,阿りから誰彼となしにあたえられる下劣な諂いから区別してくれれば,そして私に対するラモー氏のやり方から考えて,彼に対して私が与えたいと思っている正当な評価にどんな意義が付け加わるかを読者が知ってくれたら,読者は,彼の諸原理を紹介するときに私が犯したかもしれない間違いを非難しながらも,少なくとも,私がこの著者にたいして与えた讃辞については満足してくれるだろうと,思っている.
見せかけでなくはっきり言って,『音楽に関する誤謬』という著書には,実際のところ誤謬がたくさんあるように思われるし,これ以上にぴったりの表題は他に見あたらない.しかしこれらの誤謬はラモー氏の知識の中にあるのではなくて,その原因は彼の心情の中にしかなく,情念が彼を盲目にすることがなければ,彼はこの芸術の多くの規則について誰よりも正しい判断をするだろう.したがって,私は彼の憎悪とともに消え去ってしまうような無数の細々とした間違いにはこだわるつもりはないし,いわんや,彼から批判された間違いのうち,実際に否定し得ないような間違いをいくつか含んでいるものについては弁護することはしないつもりである.たとえば,彼は私が理解されるように書いていると言って非難している.彼の言うところでは,それは私の無学に由来する欠点だということだが,だからといって私は私の無学をこの欠点から説明しようなどという気はない.私には学識が欠けるので,道理に適ったことだけを言うしかないのだと,喜んではっきり申し上げよう.それに読んでも理解できない著作しか生み出せないような深甚な知識なら,そんなものはなくても,私は誰かを妬むということは全くない.
その上に,私が書いているのは自己弁護のためではなく,それが人のためになると思ってのことである.この芸術の進歩にも,大衆の教育にもまったく利するところのないこのような個人的な言い争いは止めておこう.こんなつまらない揚げ足取りは,すでに名をなした人を犠牲にしてでも自分の名前を売りたいと考え,名をなした人が犯したたった一つの誤謬を口実にして,無数の誤謬を犯すことを怖れない新参者たちにさせておけばいい.しかし,いくら注意を払って検討しても十分と言えないのは,この芸術の原理そのものであり,これについての誤謬はほんのわずかなものが多くの間違いの原因となるので,芸術家がほんの一つの間違いを犯すと,この芸術の完成のためによかれとしてしたことすべてが,逆にこの芸術を完成から遠ざけることにしかならないのである.
私は『音楽に関する誤謬』のなかから,こうした重要な原理のうちの二つを挙げておく.第一は,ラモー氏のすべての著作で,さらにもっと悪いことには,彼のすべての音楽において,彼の指針となったもので,すなわち和声は音楽の唯一の基礎であり,旋律は和声から派生したものであり,音楽の偉大な効果のすべては唯一和声から生じたというものである.
もう一つの原理は,ラモー氏が新しく主張したもので,伴奏についての私の定義にこれを付け加えなかったと言って私を非難しているものである.すなわち,あの「伴奏は音響体を表す」というやつである.私はこの二つの原理を別々に検討してみるつもりである.第一のより重要な原理の方から始めるが,この原理が正しいか間違っているかが証明されれば,いくらかはこの音楽芸術全体にとって基礎として役立つに違いない.
まず指摘しておかねばならないことは,ラモーが和声のすべてを音響体の共鳴から引き出しているということである.たしかに,どんな音にも,付随的あるいは付加的な三つの倍音が伴っており,それらは元の音ともに完全長三度を形成する.この意味で,和声は自然なもので,どんな形のものであれ旋律や歌と切り離すことができない.なぜならどんな音も完全和音を伴っているからである.しかし,どの主要音も,この三つの倍音の他に,その他の音をたくさん与える.ただそれらの音は,倍音ではないので,完全和音の中には入らない.これらは部分音と言って,最初の三つの倍音のどれかのオクターブ違いの音にも該当しない.ところで,このような部分音は無数にあって,私たちの感覚ではとらえきれないのだが,それが共鳴していることは帰納法によって証明されるだけで,実験で確かめることは不可能なのである.音楽はこれらを和声から締め出し,その結果,音楽は自然の規則の代わりにみずからの規則を用い始めたのである.
計算上の単純さしかもっていないにもかかわらず,古代人によって調和的と名付けられた比例の一種を,完全和音を形成するこれら三つの音が相互に形作っているからといって,特権を与えようというのだろうか? この単純さは,諸音の比率の中にあるのであって,それは調和的でも何でもないと,私は言いたい.たとえば,調和的比例にある1, 1/3, 1/5の数字によって表されている三つの音は,協和音を形作るが,別の数字の1/5, 1/6, 1/7によって表された三つの音も同様の比例にあるのに,不協和音にしかならない.調和的分割によって,長三度,短三度,大全音,小全音などを作れるが,こうした分割によって与えられる諸音は決して協和音を形作ることはない.完全和音を構成するためにこれらの三音だけが選ばれたのは,完全和音を形成する諸音だけが主要音とともに共鳴するからでもなければ,それらが一本の弦全体の部分音に反応するからでもなければ,それらが調和的比例にあるからでもなく,ただたんに音程の順番においてこの三つの音がもっとも単純な比率を示しているからにすぎない.ところで,このような比率の単純さは和声にも旋律にも共通する規則であるが,しかしながら旋律の方は場合によっては,どんな和声も使えなくするくらいに,この規則から逸脱することがある.これこそが,旋律は和声からその規則を受け取ったのでもなければ,もともとから和声に従属しているのでもないということの証明である.
私が言及したのは,長調における完全和音だけであった.短調や不協和音の生成と転調の規則を説明しなければならないとすれば,これはいったいどうなるのだろうか? 私はたえず自然を見失い,恣意性がいたるところに入り込み,耳の喜びそのものが習慣の結果ということになる.自然な基礎を自分に与えることができない和声が,いったいどんな権利があって,和声と和音が問題になる二千年も前から驚嘆すべきことを行った旋律の基礎となろうというのだろうか?
根音バスの協和的で規則的な進行が倍音を生み出し,この倍音が全音階的に生じて,相互に一種の歌を形成すること,これは理解できるし,認められ得ることである.この生成は順序を逆にすることもできるだろうし,ラモー氏によれば,どの音もそれより高い約数音だけでなく,それより低い倍数音をも鳴らすだけの力をもっているので,単純な歌でさえも,低音が一種の歌を生み出すように,一種の低音を生み出すことができるということになるし,このような生成は短調の生成と同じくらい自然なものだということになる.しかし,私はラモー氏に二つのことを尋ねたい.第一に,このようにして生成されたこれらの音は,彼が旋律と呼んでいるところのものなのかどうか.そして第二に,彼は旋律をこのようにして見つけだしているのかどうか,それとも誰一人としてこんなやり方で旋律を見つけだしているものはいないと思っているのかどうか,ということである.作曲家がまず最初に美しい根音バスを作ることから始め,そして巧みに不協和音から不協和音へわれわれを導くために,音符ごとに調や旋法を変え,たえず和音の上に和音を積み重ねはするが,単純で,自然で,情熱的な旋律のアクセントのことなどは考えもしないで作った音楽から,われわれの耳を守ってやることができればいいのだが.なぜなら,旋律というものは,表現力を,低音の進行から引き出しているのではなく,感情が声に与える抑揚から引き出すものだからである.
いや,ラモー氏が人に要求していること,いわんやラモー氏自身がしていることは,きっとそんなことではない.彼が理解していることは,ただ,旋律を作るときには和声が芸術家を導いているけれども,芸術家はそんなことは考えもしないということと,芸術家は,美しい歌を作るときにはいつでも,規則正しい和声に従うということだけなのである.確かにこのことは,和声が諸音の進行や歌の規則,音楽的アクセントを支配してきた国々では,この芸術がこれら二つの部門のあいだにつくった関係からみて,真実であるに違いない.というのは,この場合,歌と呼ばれているものがもつ美は約束上のものであり,この美しさは絶対的なものではなくて,和声体系と,その体系の中で歌よりも重視されているものに依存しているからである.
しかし,私たちの和声の連続という長い習慣が訓練された人や職業的な作曲家を導くのはいいとしても,この芸術が作られるずっと以前から自然が教えてきた歌の中に和声など一度も聴いたことのなかったあの無学な人々を導いてきたものは,いったい何だったのだろうか? 彼らは経験以前に存在する和声感情をもっていたのだろうか? そしてもし誰かが,彼らの作った曲の根音バスを彼らに聴かせたとしたら,彼らの中にはそこに導き手を認めて,このバスと曲のあいだにほんのわずかでも関係を見いだすような人がいただろうと,考えられるだろうか?
もっと言おう.ギリシャ人の旋律を,今日まで残っている三つか四つの曲から判断すると,根音バスというものはより自然であればそれだけ規則に適っているものなので,これらの曲に適当な根音バスを付けることが不可能であるということは,彼らが根音バスの感覚にもとづいていたら,これらと同じ曲を思いつくことは不可能だったということになる.だが,これらの曲をのせているこの旋律は彼らの耳には素晴らしいものだったのであり,われわれの旋律では彼らには耐え難い粗野なものに思えただろうということは,疑いようがない.したがって,彼らは旋律というものをわれわれとは違った原理で判断していたということである.
ギリシャ人は,われわれが完全協和音と呼んでいるものしか協和音と認めていなかった.彼らは三度と六度を協和音の中に入れていなかったのである.なぜなのだろうか? 小全音の音程は彼らには知られていなかったか,あるいは少なくとも使用が禁じられていたし,彼らの協和音は平均律化されていなかったので,彼らの長三度はすべて一コンマ分だけ広すぎ,短三度は同じ分だけ狭すぎたから,その結果,彼らの長六度と短六度も同様だったからである.三度と六度を協和音から追放した後に,いったいどんな和声の観念がもてるものか,またどんな和声的な旋法が確立できるものか,考えてみていただきたい.もし彼らが認めていた協和音が真の和声感情によって知られたものだとしたら,彼らはそれを旋律とは別のところで感じたはずだし,それを彼らの歌の下に,いわば,暗黙のうちに聴いていただろう.暗黙の了解による根音進行がつくる協和音が,それらの生み出す全音階的進行に協和音という名称を付けさせていたことだろう.その結果,彼らは,われわれよりも協和音が少ないどころか,もっと多くの協和音をもっていたことだろうし,たとえば,ド ソという暗黙上の低音に気を取られた彼らは,ドからレへの旋律的な音程に協和音の名称を与えていたことだろう.
ラモー氏は,「歌を作曲する人はたとえその歌のもとになった根音を知らなくても,音楽における私たちの所産の唯一の源泉からいっそう多くのものを汲み出してくるのである」と言っている.この学説はきっと非常に多くの知識を要するものなのであろう.というのは,私にはそれが理解できないからである.しかし,できるものなら,それを私なりに説明する努力をしてみよう.
音楽というものを知らず,大きな音を立てることがいかに立派なことかということを学んだことのない大部分の人は,どんな歌でも自分の声の中音域で歌うものだし,その音域は,たとえ根音バスを知っていたとしても,根音バスを声で出せるところまでの広がりはもっていないのが普通である.したがって,このような無学な人がある曲を作曲する場合には,この曲の根音バスについては何の考えももっていないだけでなく,この根音バスを音に出すこともできないし,他の人がそれを音に出していても,それと分からないのである.それでは,彼に歌を示唆したけれども,まったく理解できないし,自分で音に出すこともできないし,記憶の中にもないこの根音バスというものは,いったいどこにあるのだろうか?
ラモー氏は,無学な人でも,たとえばハ調ならレの下のソとかミの下のドのような,もっともはっきりした根音なら普通に音に出すことができるだろうと,主張している.彼はその実験をやってみたというのだから,この点では彼の権威をはねつけることはしたくない.だが,このテストのために彼はどんな被験者を選んだのだろうか? きっと,音楽の知識はないけれども,和声や和音を何十回となく聴いたことがあり,その結果,もっとも頻繁に繰り返されるパッセージのなかの和声的音程や諸声部の対応する進行の印象が耳に残っており,気づかないうちにそれが彼らの声に伝わったのだろう.パリ界隈の人たちに三度と五度を声に出す訓練をするには,酒場の下手な楽士の演奏だけで十分である.私は,もっと田舎の,正確な耳を持った人たちで同じ実験をしたことがある.しかし同じような結果はまったく得られなかった.彼らは私がバスを鳴らしたときにしか気づかなかったし,しばしばそれさえも聞き取れなかった.彼らは異なった音を二つ同時に鳴らすと,それらのあいだの関係をほんのわずかさえも気づかなかった.このように二つの音を同時に鳴らすと,その音程がどんなにぴったり合っていても,いつも彼らを不快にさせた.われわれの耳が不協和音に不快を感じるように,彼らの耳は三度に不快を感じた.もしユニゾンがそこにありさえすれば,偽終止のところでも完全終止とまったく同じように曲が終わったとみなす人たちばかりだったと,私は断言できる.
和声の原理は自然のものであるけれども,その原理が感覚にもたらされるのは,外見上はユニゾンという形でしかないので,それを発展させる感情は,自然のものだとみなされている大部分の原理と同じく,実際には後天的で人工的なものであり,ダランベール氏が非常に上手に述べたように,とりわけ音楽のこの部門でこそ,演奏する技術というものがあるのと同じように,聴く技術というものが必要になってくるのである.はっきり言って,このような考察はたしかに正当なものであるが,パリではこのような実験を困難にしている.というのは,耳が頭ほどにはすばやくついていけないからである.しかしこれは大都市とは切り離せない不都合であって,そこではいつも自然を遠くまで探しに行かなければならないのである.
ラモー氏がすべてを期待しているのだが,私には何の証明にもなっていないと思えるような別の例があるが,それはド ファ・シャープという二音の音程のことである.彼はこの音程の下に,さまざまな和声上の変化を示すさまざまな低音を付けると,そこから多様な情緒作用が生じることから,こうした情緒作用の力は和声に依存しているのであって,歌に依存しているのではないということを示すことができるのだと主張するのである.どうしてラモー氏は,これらの全部異なったパッセージを,見かけは同じ音程だからということで,同一の旋律だとみなすほど,眼によって,先入観によって思い違いをさせられたのだろうか? 彼は,ある音程が同一のものだとみなされるのは,とくに旋律の場合には,その音程が旋法にたいして同一の関係をもっている場合だけだということを考えていないのである.音程が旋法にたいして同一の関係をもつというようなことは,彼が挙げているどのパッセージでも起こっていない.それらは確かに鍵盤上では同じ鍵であるから,それがラモー氏を誤らせたのだが,しかし実際にはそれらは同じ数だけの異なった旋律なのである.というのは,それらはどれも耳に別々のイメージを与えるだけでなく,それらの音程は正確にはほとんどどれも別々なのである.三全音と減五度,減七度と長六度,短三度と増二度は,それらが与える音程が鍵盤上で同じだからという理由で,同じ旋律を作るという言うこの音楽家はいったい何者なのだろうか? まるで耳は旋法内の音程を必ずしも正確に聞き取れず,転調の関係にかんする平均律の間違いを訂正することがないかのようである! 低音はときにはもっと素早く,力強く,調の変化を確定するとはいえ,それでもやはりこうした調の変化が低音なしになされることには変わりないし,私は,伴奏は旋律に無駄だと主張したことは一度もなく,ただたんに伴奏は旋律に従属しているべきだと主張しただけのことである.ド ファ・シャープというこのパッセージはたしかに同一の音程だとしても,さまざまな場所で使われると,つまり同一の旋法のさまざまな弦上で取られたり,想定されたりすれば,また異なった音度で構成されれば,その数だけ異なった歌となるだろう.その多様性は和声から生じているのではなく,たんに音の動きから生じているのであるが,この音の動きは反論の余地なく旋律の一部なのである.
われわれはここで,音の長さが確定していない二つの音符だけについて触れたが,音の長さが確定していない二つの音符は旋法もフレーズも,始めも終わりも示さないのだから,それだけでは歌を構成するのに不十分である.こうしたものをすべて抜きにして,いったい誰が歌を想像できるだろうか? 拍子とか,音の高低,強弱,テンポなどの違いを,旋律の付属物としてわれわれに与えようとするラモー氏はいったい何を考えているのだろうか? 実は,こうしたものはすべて旋律そのものに他ならないし,旋律からそれらを引き離したら,もはや旋律は存在しないだろう.旋律は,話し言葉と同様,一つの言語である.なにも語らない歌は,なんの値打ちもないし,そういう歌だけが和声に依存することができるのである.高い音,低い音は話し言葉のなかの類似したアクセントを表し,短い音,長い音は韻律法における類似した音節の長さを表し,均等で一定の拍子は詩句のリズムや韻律を表し,弱い音,強い音は話し手の抑えた声とか烈しい声を表している.情念のこもったことを言ったり読んだりするのに,決して声を和らげることもなければ強めることもないような冷淡で,感情というものをもたない人がこの世にいるだろうか? ラモー氏は旋律を和声に比較するために,まず旋律からそれに固有なので,和声にはふさわしくないものをすべてはぎ取ることから始める.彼は旋律を歌ではなくて,埋め草とみなしている.そして,この埋め草は和声から生じると言う.確かにその通りだ.
音の長さが確定していない音の連続とは,いったいなんだろうか? それは,共通の効果を持たない,ばらばらの音であり,一つ一つ別々に捉えているように聞こえ,和声的な連続から生み出されているにもかかわらず,耳には一つのまとまりをまったく提供しない音であり,一つのフレーズを形成し,なにかを意味するためには,拍子がそれらにつながりを与えれくれるのを待っているような音である.音価の定まっていないひとかたまりの音符を音楽家に示してご覧なさい.彼はそれらに拍子をつけ,テンポを組み合わせたり変化させたりする方法を様々に変えるだけで,まったく違った旋律を50も作り出すだろう.これこそ,旋律を確定するのは拍子の役目だという動かしがたい証拠である.たとえ,これらの音符に与えることができる和声が多様で,そのために同じように効果に変化をつけることができるとしても,そのような和声の変化が,同一の音程に,旋法の音列のなかのさまざまな位置を与えることで,実際に違った旋律を同じ数だけ作り出しているからである.その結果,私がすでに述べたように,諸音の関係やフレーズの意味が完全に変ってしまうのである.
古代人が純粋に楽器だけの音楽をもたなかった理由は,彼らが拍子のない歌というような観念をもっていなかったし,拍子と言えば詩歌の拍子に他ならなかったからである.さらに,韻文はいつも歌われたが,散文は決して歌われなかった理由は,散文は抑揚にもとづく歌の部門しかなかったのにたいして,韻文は旋律を構成する別の部門,すなわちリズムをもっていたからである.
決してだれも,ラモー氏でさえも,音楽を旋律,和声,拍子に分割したことはなく,和声と旋律に分割したのである.その後で,どちらも音と拍によって考察されるのである.
ラモー氏は音楽の魅力,力強さはすべて和声の中にあると主張し,旋律は音楽では従属的な役割しかもたず,耳に軽くて不毛な楽しみを与えるだけのものだと主張した.彼自身の論証に耳を傾ける必要がある.彼の証拠は,他の人によって使われたら,ひどく価値が下がってしまうことだろう.
彼は次のように書いている.「ゆっくりとしたテンポで,優れた和声の連続をもつ合唱曲ならすべて,まったく構想の助けがなくても,またそれ自体で情緒作用を引き起こすことが可能な旋律の助けがなくても,いつでも楽しみを与えてくれるものである.そしてこの場合の楽しみは,心地よい歌,あるいはただ単に生き生きとして陽気なだけの歌から通常感じられる楽しみとはまったく別の楽しみである.」(テンポの遅い合唱曲と生き生きとして陽気なエールとのこのような比較は,私にはかなり滑稽に思える.)「前者は直接,魂にかかわりを持ち,」(これは四声部の大合唱曲のことを言っているのだということに注意せよ.)「後者は耳管を通り抜けることはない.」(ラモー氏によれば,そういうものが歌なのである.)「すでに一度ならず引用したが,『愛の神が勝ち』をまた例に出してみよう.」(確かにその通り.)「声楽であれ,器楽であれ,エールが引き起こす楽しみと,この曲を聴いて感じられる楽しみを比較していただきたいものだ.」 仰るとおり.私には,生き生きとして陽気なというテンポだけに制限されないで,声の種類もエールの種類も好きなように選択させてほしいものだ.というのは,そういう制限があるのは公平ではないからだ.ラモー氏の方は,彼の合唱曲『愛の神が勝ち』とあの恐ろしく盛大な楽器と声をもって登場していただきたい.彼が自分のために,騒音の力によらなければ心を動かされず,鶯よりも太鼓のほうに感動する審判員たちを選んでも無駄だろう.結局は,彼らだって人間なのだ.魂をもっとも動かすことができる音というのは合唱曲の音ではないということを彼らに感じさせるために,私はそれ以上のことを望まない.
和声は純粋に物理的な原因である.和声が引き起こす印象も,同じ次元のものである.つまり,和音は一時的で不毛な振動を神経に刻印することしかできないということである. それらがなにか与えるとしても,情念よりもむしろ靄のようにはかないものだろう.旋律をもたないゆっくりとしたテンポの合唱曲を聴いて得られる楽しみは,純粋に感覚的なものであり,とくにすべての声部を中声にした場合には,この合唱をごく短くするように気を付けなかったら,やがてこの楽しみが倦怠に変わってしまうだろう.しかし,もし諸声部が緩くて,低ければ,和声の助けを借りずに魂を動かすことができる.というのは,緩くてテンポの遅い声は悲哀の自然な表現だからである.ユニゾンによる合唱曲でも同じ効果を出すことができるだろう.
もっとも美しい和音は,もっとも美しい色彩と同様,感覚に心地よい印象をもたらすことができるが,それ以上のものはなにひとつもたらすことができない.それに対して,声のアクセントは魂にまで達する.というのは,声のアクセントは情念の自然な表現だからであり,情念を描くことによって,情念を喚起するからである.音楽が弁論的で,雄弁で,模倣的になるのは,まさに声のアクセントによってである.それらは一種の言語を形成する.音楽が想像力に対象を描き出すのも,心に感情をもたらすのも,声のアクセントによってである.音楽における旋律は,絵画におけるデッサンと同じであり,和声は色彩の効果しか作らない.音が表現力,熱気,生命をもつのは歌によってであって,和音によってではない.音楽の力強さのもとである精神的効果を音に与えるのは,歌だけである.要するに,この芸術の物理的なものだけでは,無に等しいものになるだけで,和声はそれを超えることはない.
兵士の烈しい志気が軍楽器によってかき立てられるように,和声だけでかき立てられたように見える魂の動きがあるとしても,それは,そこでは,耳から大脳に伝えられる振動だけが大事であり,こうして振動させられた想像力が後のことはやってくれるので,大音響,つまり響きわたるような騒音がそれに合っているからである.それにこのような効果は和声よりも,リズムあるいは拍子のほうに依存しているものであるが,リズムとか拍子は,すでに上で示したように,旋律の構成部分の一つなのである.
ラモー氏がその原理を明らかにするために彼の著作から引用した諸例によって彼の説明についていくつもりはない.はっきり言って,この方法では旋律の劣等性を示すことは彼には難しいことではない.しかし私が問題にしているのは音楽であって,彼の音楽ではない.彼が自分に向けた称賛の言葉を否定するつもりはないが,あれこれの楽曲に関しては私は彼の意見に与しないでいることもできるし,それにこのような特殊な賛否の意見は,この芸術の進歩にとってたいした利点とはならない.
ラモー氏は,すでに見たように,和声は旋律を生みだすという事実,これはわれわれに対しては真であるが,一般的に言えば非常に間違っている事実を確立した後で,彼の論文を次のような言葉で締めくくっている.「したがって、どんな音楽も和声に含まれるので、どんな知識であれ、この和声とだけ比較すべきだと結論すべきなのである。」 はっきり言って,この素晴らしい結論には言うことはなにもない.
私が問題にしなければならないラモー氏のもう一つの原理は,「和声は音響体を表す」というものである.私がこの考えを伴奏の定義の中に付け加えなかったと言って,彼は私を非難している.もし私がそんなことをしていたら,彼はいっそう私を非難しただろうというのは,ありそうなことだ.その方が少なくとも筋が取っている.彼が要求しているこの追加の検討にはいることには,多少とも嫌悪感が伴う.というのは,私が先ほど検討したばかりの原理は,それ自体,この原理と同じく真ではないとはいえ,それが誤謬だとしても,少なくともそれはあまりの学識のために道に迷ってしまった大音楽家の誤謬にすぎないという点で,はっきりと今度のものとは区別しなければならないからである.ところが,今度の場合,私が見いだすのは意味のない空虚な言葉ばかりで,彼が職業としている芸術の原理としてそのような言葉を大衆に与えて平気でいるこの著者の中に,はたして誠実さというものがあるのだろうかと疑いさえ抱くからである.
「和声は音響体を表す!」 この「音響体」という語にはある種の科学的な響きがあり,それを使う人が物理学者であることを示している.しかし音楽ではそれは何を意味しているだろうか? 音楽家は音響体をそれ自体では考察せず,音響体が作用しているときにしか考察しない.ところで作用中の音響体とはいったいなんだろうか? それは音である.和声はしたがって音を表している.だが,和声は音に伴う.したがって音はすでにそこにあるのだから,何かが音の代わりをしてくれる必要はない.このわけの分からぬ話が滑稽に思われても,それはまったく私のせいではない.
しかし,和声が表すのはたぶん旋律的な音ではなくて,それに伴う倍音の集まりである.だがこれらの音は和声そのものに他ならない.和声はしたがって和声を表し,伴奏は伴奏を表す.
もし和声が旋律的な音もその倍音も表さないのだとすれば,いったい和声は何を表すのだろうか? 根音と,旋律的な音を含むその倍音である.根音とその倍音はしたがって,ラモー氏が音響体と呼んでいるものである.まあいいだろう,だがよく考えてみよう.
和声が音響体を表すべきものなら,低音はけっして根音しか含んではならない.というのは,転回をするたびに,音響体が低音の上に与えるのは,もとの根音の転回和声ではなくて,低音にきたために,音響体の中では根音となった転回音から直接作られる和声だからである.ラモー氏はこの異論だけでいいから答えていただきたいのだが,そのかわり明確に答えていただきたい.そうすれば,私は彼の主張を認めよう.
音響体だとみなされている根音もその倍音も,けっして短調の和音は与えることがないし,不協和音も与えることがない.私はラモー氏の体系ではそうなると言っているのだ.ところが,主に実際の彼の音楽では,和声と伴奏はにはこういったものがいっぱい使われている.したがって,和声と伴奏は音響体を表すことはできない.
この著者の論証の仕方と私のそれとのあいだには思いもつかないような相違があるのに違いない.というのは,彼の原理を正しいと前提した上で,私が推論をしていくと,まず次のような結論になるからである.
もし伴奏が音響体を表すとすれば,伴奏は音響体によって与えられた音だけを鳴らすはずである.ところで,音響体によって与えられるこれらの音というのは完全和音しか形成しない.では,なぜ伴奏を不協和音でいっぱいにするのだろうか?
ラモー氏の言うところでは,音響体によって与えられる付随音は,長三度と五度のふたつに限定される.もし伴奏が音響体を表すのなら,伴奏はその二つの音だけに単純化しなければならない.
伴奏に使われる楽器はそれ自体が音響体であり,それが鳴らす音にはどれにも自然な倍音がいつも伴っている.したがって,もし伴奏が音響体を表すなら,ユニゾンしか鳴らしてはいけないということになる.というのは,倍音の倍音は音響体の中には収まらないからである(c).実際,もし私が相手にしているこの原理が私の思いついたもので,しっかりした原理だと分かっていたら,私はラモー氏の学説に反対するためにこれを使っただろうし,それをうち倒せると信じたことだろう.
だが,それが可能なら,彼の考えを明確にしてみよう.そうすればその正しいところや間違っているところがもっとよく感じられるだろう.
彼の原理を把握するためには,音響体は低音と伴奏によって表され,その結果,根音バスは生成音となり,伴奏はその倍音という産物となるということを理解しなければならない.ところで倍音が根音バスによって生み出されるように,根音バスのほうは倍音の協力によって生み出される(h).これは学説上の原理ではなく,ずっと以前からイタリアで知られている経験上の事実である.
したがって,問題は,音響体の倍音による産物を正確に表し,それらの協力によってそれらにふさわしい根音バスを提供するために,伴奏の中にどんな条件が必要とされるかを明らかにすることだけである.
これらの条件の中で第一の,そしてもっとも本質的なものは,どの和音でもたった一つの根音しか作らないということである.というのは,もし根音を二つも作れば,一つの音響体の代わりに,二つの音響体を表すことになり,すでにセール氏によって観察されているように,二重和声をもつことになるからである.
ところで,長三度の完全和音は,一つの根音しか与えない唯一の和音である.他の和音はすべて根音を複数もつ.このことはどの理論家にとっても証明済みのことと見なされているし,用語さえ理解できれば,音楽のことをもっとも知らない読者でさえも,図表や楽譜がなくても理解してもらえるくらいに,単純な例を一つ挙げるだけにしておこうと思う.
先程述べた実験では次のことが分かる.長三度は根音として低い方の音のオクターヴ音を作り出すこと,短三度は長十度を作り出すこと,すなわちド/ミという長三度は根音としてドのオクターヴ音を与えること,ミ/ソという短三度もまた根音として同じドを与えるということである.したがって,ド/ミ/ソというこの和音全体では一つの根音しか与えるない.というのは,五度ド/ソは低い方の音のユニゾンを与えるが,それのオクターヴ音を与えると見なすことが可能だからである.もしくはこのソをオクターヴ音まで下げても,和音は厳密な意味で一つになる.というのは,ソ/ミという長六度の根音は低い方の音の五度音であり,四度ソ/ドの根音もまた低い方の音の五度音だからである.このようにして,和声は見事に整理され,正確に音響体を表す.だが,下に長三度を置き,上に短三度を置くことによって,五度を調和的に分割する代わりに,算術的に分割することでこの順番を置き換えてみよう.そうすると,ド/ミ・フラット/ソという短三度の完全和音がえられるが,もっと便利にするために他の音譜で表せば,同じような和音ラ/ド/ミが得られる.
この場合,十度のラが短三度ラ/ドの根音であり,オクターヴ音のドが短三度ド/ミの根音だということが分かる.したがって,この完全に音の揃った和音を鳴らすと,どうしても同時に二つの根音を生み出すことになるだろう.さらにもっと悪いことがあるが,これら二つの根音はどちらも和音と旋法の本当の基礎ではないので,この基礎を与える三番目の低音ラが必要になるというのがそれである.この場合,伴奏が音響体を表すことができるのは,音符を二つずつ鳴らす場合だけである.そうすれば,五度ラ/ミの下に生成された低音としてラがえられるし,短三度ラ/ドの下にはファが,ド/ミという短三度の下にはドが得られるだろう.ところが三番目の音を追加しようものなら,完全長和音ができてしまったり,二つの根音が鳴ってしまったりして,その結果,音響体の再現など消失してしまうだろう.
ここで私が短調の完全和音について言ったことは,いわんや和音の組立方次第で根音がいくつもできる音の揃ったすべての不協和音についても同じように理解されなければならないし,忘れてはならないことは,以上のことすべてが,正しいものと仮定したラモー氏の原理そのものから引き出されるものだということである.もし伴奏が音響体を表していなければならないものなら,諸音を選んだり,たとえ不協和音が規則どおりできちんと解決されているとしても,そういった不協和音を選ぶさいに,いかに慎重でなければならないことだろう.以上が,正しいものと仮定したこの原理から引き出さねばならない第一の結論なのである.もっとも正確で感じやすい器官をもっているすべての国民の理性,耳,経験,実践,どれをとってもこの結論をラモー氏に思いつかせるはずなのだが.ところが,彼は正反対の結論を引き出し,それを確証するために,自然の権利を要求するのだが,自然という語は,芸術家として,彼は決して口にすべきではないだろう.
伴奏の中の音をときには省略すべきだと言ったということで,彼は私を大いに非難していているが,また場合によっては省略すべき音の中に五度を入れたということでも,それ以上に私を非難している.彼は次のように言っている.「五度は和声の大黒柱であり,それゆえに五度が使われるべき所ではどこでも五度を優先しなければならない」.五度が使われるべきときに優先されるのは,まことに結構なことである.だが,このことは,五度がいつも使われるべきだということの証明にはなっていない.まったく逆である.五度はあまりにも耳に快く,響きすぎるからこそ,とくに主要音から遠すぎる和音では,調の観念が遠くなって消えてしまわないように,不確かな耳が五度をなす二つの音のあいだで注意を分散してしまったり,旋律とは関係がなので一番聞かれなくてもいい音の方に注意を向けてしまったりすることがないように,しばしば五度は省略しなければならないのである.省略法は和声でも文法の場合に劣らずよく使われる.必ずしもつねにすべてを言う必要はなく,十分に理解されることが必要なのだ.書かれた伴奏譜で五度が入っている和音のたびに五度を鳴らそうとする人は,和声を我慢のならないものすることになるし,ラモー氏自身そんな風に五度を使わないようによく注意してきたのである.
クラヴサンに話を戻すなら,長年の習慣によって器官が堕落させられていないすべての人に私は呼びかける.できれば,ラモー氏によって命じられた奇妙で野蛮な伴奏を聴き,それをイタリア人の単純で旋律感のある伴奏と比較してみてほしい,そしてもし理性によって判断することを拒むなら,少なくとも両者を感情によって判断してほしいと.音響体を表すためにどんな和音でもすべての音を鳴らさなければならないとか,使用可能な不協和音はすべて使わなければならないなどと,いったいどうして鑑識眼をもった人が一度でも考えることができただろうか? 鑑識眼のある人なら,伴奏の中に入ることが可能な音のすべてに数字で書き出さなかったと言って,どうしてコレッリを非難することができたのだろうか? 鑑識眼をもった人なら,あの偉大な和声主義者にむかって間違いを犯したと言って非難するたびに,どうして彼の手からペンが落ちなかったことがあろうか? 混乱は心地よいものはなにも生み出さないこと,音の多すぎる和声はあらゆる表現力を殺してしまうこと,そしてまさにこうした理由からこそ,彼の流派からでてきた音楽はすべて効果のない雑音にすぎないということを彼がどうして感じないでいようか? 見ただけで耳が痛くなるような山ほどの数字でフランス式の低音を一杯にしたことで,どうして鑑識眼をもった人が自分自身をとがめだけしないでいようか? ときには彼の音楽に見られる美しい歌の力は,彼がクラヴサンでそれらを台無したときに,どうして生みの親の手から力を奪ってしまわないでいようか?
彼の学説は理論の原理の面で,実践の原理ほどきちんとした根拠のがあるようには,私には思えない.彼の言う和声の生成はすべて完全長和音の進級に限定される.短調や不協和音が問題になると,たちまち彼の学説ではもはやなにも分からなくなる.ピタゴラスの数の力だって,ラモー氏が単純な比率に与えると主張している物理的特性ほどには難解なものではない.
一本の弦が振動すると,部分弦に分割されて,その部分弦を振動させ,さらに部分弦のそれぞれを個別に共鳴させる.その結果,弦のより強い振動は,弦のいくつかの部分により弱い振動を生じることになる*.この現象は理解できるし,何ら矛盾したところはない.しかし,ある部分弦が弦全体を動かして,弦全体にもっと振動数が少なく,それゆえもっと強い振動を与えるとか,ある力がそれよりも三倍の力と五倍の力を生じるというのは,観察が否定し,理性も承認しないことである.もしラモー氏の実験が真実だというのなら,必然的にソヴール氏のそれは偽りだということにならざるをえない.というのは,もしある弦が共鳴して,その三倍の長さの弦と五倍の長さの弦を振動させるとすれば,その結果,ソヴール氏の節は存在することができなかったのだし,一部分の共鳴にもとづいて,弦全体が振動することもできなかったのだし,白紙と赤紙は同時に落ちねばならなかったのだし,この事実に関してアカデミー全体の証言を否定しなければならないことになる.
*なにが振動数を少なくしているかと言えば,弦の材料が重くなればなるほど,弦が静止線から遠ざかれば遠ざかるほど,そうなる.
ラモー氏には,振動するが,共鳴はしない音響弦とはいったいなんなのかわれわれに説明する労を執っていただきたいものだ.きっと新しい物理学があるのに違いない.つまり,音を生み出すのは,もはや音響体の振動ではなく,別の原因を探しさえすればいいのである.
それにここでは私はラモー氏の不誠実を非難するつもりはない.いったいどうして彼が勘違いなんかしたのかと推測しているのだ.第一に,繊細で微妙な実験では,体系を重視する人には,しばしば自分の見たいものが見えてしまうことがよくある.それに,長い弦が均等に部分に分割されると,これらの部分がすべて同時に振動するのが見えるし,それを弦全体の振動と勘違いしたのである.ところが音は聞こえない.これもまた非常に当然のことである.弦全体の音が聞こえるのを期待しているけれども,その代わりに,もっとも小さな部分のユニゾンしか得られないし,それの区別が付かなかったのである.確認しておく必要があり,また他のすべてを左右している重要な事実は,不動の節などというものは存在しないし,ある部分の音しか聞こえていないのに,弦全体が振動しているように見えるが,それは偽りだということである.
この実験が真実であれば,ラモー氏がそこから演繹してきた原因なるものも同様に実在のものではないことになろう.というのは,和声は振動の比率にではなくて,振動の比率の結果生じる音の協力に存している.だから,もしこれらの音が存在しないのであれば,この世の比例関係を全部集めたところで,いったいどうやって,諸音がもっていない実在を諸音に与えるというのだろうか?
もうそろそろやめにする時間だ.以上で,どこまでラモー氏の『誤謬』の検討が和声学にとって重要であるかが分かったと思う.あとは読者にも私自身にも面白いものではない.正当な弁護の権利を盾にとって,私はこの著者の二つの原理と一戦を交えなければならなかった.この原理の一方はできの悪い音楽を多量に生み出し,その流派が長年のあいだ大衆を覆い尽くしている.もう一方の原理は劣悪な伴奏を生み出し,それがまた彼のメソッドによって教えられているのだ.また私は,彼の和声学説が不十分で,きちんと証明されておらず,間違った実験にもとづいているということも示さねばならなかった.私はこのような研究は興味深いものだと思ったし,私は私なりの言い分を述べた.ラモー氏も彼なりの言い分を述べたし,また今後も述べるだろう.だから今度は大衆の皆さんがわれわれの言ったことを判断なさればいい.こんなに早く私がこの著作を終わってしまうのは,材料が不足しているからではない.この芸術の役に立つために,また真実の名誉のために,私は十分なことを述べたし,ラモー氏による中傷に対しては自分の名誉を守る必要があるとは思われないからだ.彼が私を芸術家として攻撃する限りは,彼に答えなければならないし,異論のある点については自ら彼と議論しよう.しかし人間が姿を現し,個人攻撃になったら最後,私は彼に答えるべきことはなにもない.私は彼の中に音楽家しか見ない.

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