『「「オンファルに関する書簡」考」についてグリム氏に寄せる手紙』

(1752)

だれが鵲に私たちの言葉をわざわざ真似ることを教えたのか?

あなたの新しい栄光をお祝い申し上げます.あなたは,ホメロスやプラトンが死後ずいぶんたってからでなければ得ることがなく,ボワローだけが我が国では生前から享受していた栄誉を手中にされたのです.つまり,あなたは注釈者をお持ちなのです.あなたの書簡に関する『考察』には,確かに,注釈というタイトルは付いてはおりません.しかしご存じのように,注釈者というものは本質的な事柄は省略して,注釈など必要としない事柄についてくどくど述べるものですし,彼らは明白なことには何でも熱心に解釈を加えるのですが,彼らの説明はいつも原文よりも難解で,魅力と洗練さは別として,彼らが原著者の中に気づかないような種類の事柄はないのです.
ところで,この『書簡考』は,あなたの書簡の主題であるオンファルについては一言もふれておらず,反対に,あなたの少々長い脱線について延々と述べています.あなたはレシタティフについて論じられたのですが,『書簡考』はそれをもとにしてあなたの言葉を本文とする説教文にしたのです.フランスのレシタティフはゆったりとしている.これが「第一点」です.フランスのレシタティフは単調である.これが「第二点」です.あなたが与えたとされているイタリアのレチタチーヴォについての定義の補足がなされます.その後で,古代人の「レシタティフあるいはメロペー」が定義され,アリエットの定義が続きますが,この調子でいけば,定義されないものなんてあるでしょうか!
あなたがある人たちにペルゴレージ,ブラネッリ,アドルファーティのごとき音楽家たちの曲を聴くことを禁じようとなさることに関しての大変詳しい注釈.オペラ座で聞いたことがないのに,イタリアのレチタチーヴォに反対するような結論はなにもすべきではないとあなたが言ったのは正しいということを,この注解は非常に筋道たてて証明しています.
アリエットについての別の詳しい注釈.アリエットというのは,有名なベルナッキによってボローニャで考案されたが,有名なベルナッキは作曲家ではなく,有名な歌手であったという理由で,ほかの人たちによって利用されたものなのです.
聴く技術についての第二の注釈.この技術を注釈者は耳を開く技術と見なしています.これについては,彼は理解する技術がないがしろにされていると,彼は非常に才気をもって嘆いています.
身振りの乱用についてあなたが述べたことについての注釈.しかしここでは,身振りはリュリの音楽には本質的なものだという理由で,注釈者はあえてあなたとは意見を異にしています.
同じく,芸術にたいするあなたの感受性,およびあらゆる種類の有能な人々に対する感受性についての詳しい注釈.あなたは趣味と人材の神を奉る神殿をお建てになったのです.この注釈者があなたの神は彼の神とは違うと私たちに公言しても,彼の言うことを信じなければなりません.そう言うことで,彼はそれを証明したのですし,このような偶像崇拝について,だれも彼のことを疑ったりはしないだろうという確信があるに違いありません.
次に原文解釈の明晰さに話を移しましょう.注釈者は,あなたが間違って省略してしまったと彼が確信している様々な定義をご親切にも補足してくれているのですが,イタリアのレチタチーヴォについて次のように述べています.「イタリアのレチタチーヴォはその進み具合がしっかりとしていて,どの感情表現の箇所でも,調の移動を容易にする余裕をオーケストラに与えてくれますし,そうすることによって最後の終止形を避けて,レチタチーヴォの最後にならなければ終止形が来ないようにしているのです.オーケストラは山のような和音でもって俳優の朗唱を不明瞭なものにすることはありませんが,表現が変わるごとに,同じ感情でもそれを表すやり方を新しくすることによって俳優にそれを確認してやるのです.」これほど明晰な定義についての私の考えを率直に申し上げるならば,この著者は,リトルネッロや楽句によって寸断されたイタリアのレチタチーヴォをたまたま聴いたことがあるのでしょう.そしてそれを彼は正直にもイタリアのレチタチーヴォの一般的な性格だと思い違いをしたのでしょう.以上のことについてまったくはっきりしていることは,この定義の著者が,いったい何者であれ,音楽というものをまったく知らないということです.
しかし,ほかにも興味深く耳を傾けてみなければならない定義があります.それはアリエットの定義です.そのままそれを転記してみましょう.「有名なベルナッキは二つの長調の間に短調をおき,歌の第一の主要動機を調を様々に変えることによって繰り返し,耳がこの繰り返しによって曲がもつ想念の性格をもっとよくとらえるようにしたのです.」 あなたはお笑いになるが,ご辛抱なさってください.まだ終わっていないのです.!!!お望みとあれば,まだ注解のほこりを払う必要があるのです.!!!「私が短調と言ったものは,しばしば調の相関関係にすぎません.主題に関係し,そして長調にもっともうまく入っていける相関関係を探し出すのは作曲家の腕にかかっているのです.短調あるいは相関関係はつねにテンポを変えます.すなわち,長調が四拍子の場合,短調はゆっくりした四分の三拍子となり,長調ではまた四拍子に戻ります.これこそが描写に陰影を与えるのです.」 著者がこうした戯言をすべてその頭からひねり出したと思っても,決して彼を侮辱してはいけません.私はここにも真理がかいま見られるものと考えています.この一節はなにかイタリア語の古い書物から転記され,それを音楽についてはまったく分からず,イタリア語についても大したことのないだれかがどうにかこうにか訳したものなのでしょう.
『書簡考』が真の注釈であるとあなたがお認めになるということでしたら,この続きは勘弁して差し上げましょう.レキシコクラッススも,ラテン語の名前をもったどんな学者でさえも,これ以上顕著な性格をもった人はいませんでした.これで証明はすんだものと思います.
この注釈者がだれなのかぜんぜん知りませんが,あなたと仲違いをしている人だとは思えません.というのは,私の考えでは,彼があなたの書簡のすばらしい箇所をあれほど抜き出すふりをするときのそのやり方には,若干にせよ繊細さが伴っているからです.これはポリチネッラの警句を鸚鵡返しに繰り返し,彼をからかうふりをしながら,じつは観客に彼の警句をもっとよく分からせようとしている一種のサクラです.あなたがポリチネッラには見えないことは私にもよく分かっていますが,このサクラについては,再度申しますと,私はあなたの友人の一人ではないかとにらんでいます.
ですから,この人には,あなたの書簡に注釈を差しはさむより前に取り上げるべき考えがあったと私は想像するわけで,それを彼に伝えるために,私があなたにこの手紙を差し上げることをお許し願いたいのです.私も感染して『書簡考』について少々長々と述べてしまうかもしれませんので,少なくとも単調になることを避けるために,この著者にいろいろな名称を付けたいと思います.彼があなたの見解に同意してやっているんだぞという理由をご丁寧にも長々と説明している場合には,私は彼を注釈者と呼びましょう.あなたに反論しているふりをして場合には,サクラですし,また彼に道理がある場合にはいつでも,批評家となります.しかしこの最後の名称の使用については少々控えめにならざるを得ないでしょう.
注釈者が晦渋で,冗長で,だらだらしているのは,その職業上の権利というものです.しかしながら,彼が越えてはならない一線というものがあります.だれだって,マタナシウスがアリエットについて次のようなことを引き合いに出すことは許すことはできないでしょう.たとえば,第三句は詩節の中では意味の終わりないし休止の意味をもたなければならないということに最初に気づいたのはメナールであるとか,三単一の模範はトリッシーノの『ソフォニスベ』であるとか,悲劇にこの三単一の規則を最初に導入し,それゆえにこのことをソポクレス,エウリピデス,セネカに教えたのはメレであるとか,あなたも私も,そしてほかのだれも話題になっているのを聞いたことがない有名なベルナッキのことなどです.しかし,こんなことを引き合いに出したからといって,そんなことであなたが驚かれるはずはありません.これと同じように,だれも知らないのに,お互いに讃え合いながら,それ以上は互いに知らないで生涯を送っているこうした有名人がごまんといるのです.いずれにしても,以上が,イタリア語のアリエットが,フランス語のアリエットとは違って,「槍」,「飛ぶ」,「鎖」,「鳥のさえずり」という語のまわりで果てしなく戯れるような羽目には決して陥ることがないはっきりとした理由なのですが,サクラはあなたがこれらの理由を言わなかったといって非難し,ご親切にもあなたの代わりに言ってくれているのです.
サクラは,イタリアではすでに道化芝居が知られているのだから,ラモー氏がフランスにおけるそれの創始者だというのは真実ではないと主張しています.これはまったく愉快です.というのは,もしイタリアに道化芝居が存在していなかったとしたら,ラモー氏が「フランスで」それを創始したと言うのはまったくおかしなことになるからです.私は,道化芝居が本当にフランス音楽に存在するのかどうか検討はいたしません.私が大変よく知っていることは,それは必然的にイタリア音楽の道化芝居とは異なったものであるはずだということです.なぜなら,肥った鵞鳥は燕のようにはとても飛べないからです.あなたが崇高なものと見なした言って批評家が非難している『プラテ』の音楽については,もし彼が気に入ってくれるなら,神的と呼ぶべきでしょう.しかし,これをラモー氏の傑作で,今まで我が国の劇場で聴くことができたもっとも優れた楽曲と見なしたことでは決して後悔なさることはありませんよ.はっきり申し上げて,作品を評価するための手段としては,喝采を叫んだ声の量をはかる以外の方法を持たないような人々の賛同などは当てにすべきではありません.しかし,これについては,あなたはまだはっきりと態度を決めるにいたっていませんね.
私は,わざわざ崇高なるものの境界を設けてくれたこの偉大な人物に,彼なら『アルチュフ』第一場の,とりわけ「さあ,売女め,歩いた,歩いた,云々」という最後の二行や,同じ作品の別の詩行,
参ったわい,善人なんぞみんな御免だ,云々
にどんな形容詞をつけるのかと尋ねてみたいものです.
どうかこの人に,これがはたして崇高なものなのかどうか決めていただきたいものです.『奥様女中』の音楽についても同じことを尋ねてみてもいいでしょう.しかし彼はこの曲のはなしは聞いたことがたぶんないでしょう.
サクラは,失礼を顧みずあなたに向かって,アドルファーティがペルゴレージやブラネッロと一緒に引用されているのは場違いだと言っているのですから,私たちも失礼を顧みずその理由や,少なくとも論証を要求しても,証明済みの命題だけしか他人には伝えたくないという彼のことですから,結構なことだと思うでしょう.彼はこの作家の傑作について何の知識も持っていないかもしれませんが,知らないからと言って,悪口を言ったことのいいわけにはなりませんし,とくにその活躍がまだ始まったばかりの現存の作家を公に非難することが問題になっている場合には,知らないのならただ黙っていなければならないのです.サクラの気に入られるという名誉を得られなかったこのアドルファーティがフランスの音楽家を心底から軽蔑していることは本当ですが,このかわいそうな悪魔は鵞鳥のくちばしを通りぬけたのですから,少しは彼を許してやらなければならないでしょう.
アドルファーティの代わりにどうしてもハッセをもってこなければならなかったのですが,それには反論の余地のない理由が四つあるのです.第一に,ハッセはあなたと同国人です.第二に,彼は48歳でオペラを54曲も書いていました.第三に,彼はイタリア人に演奏される唯一の外国人なのです.
おお,ノートル・ダム・ド・ラ・ガルドの傳育官で,同国人,同時代人であり,あれほど多くの書物をものし,あれほど多くの立派な読者たちを魅了したド・スキュデリ氏を敬うことがなかった意地悪なボワローよ! そしてあえて同国人を賞賛したこの罪深き哲学者は運悪くこのサクラのことを忘れてしまったのでしょうか? ですから,彼は彼の哲学者ではなく,あなたの哲学者になるという名誉を得たのでしょう.そして,あなた方お二人は共通の神も,共通の哲学者ももっておられないのではないかと私は疑ってみたのです.ハッセはイタリア人に音楽を採用された唯一の外国人でしょうか,ですって? サクラはテラデリアスを挙げていますが,彼がスペイン人であることを忘れてのでしょうか? ハッセはイタリア人から賞賛されています.イタリア人はアリオストをたいへん賞賛しているのです*.
*私はここではハッセについて悪口を言うつもりはない.彼は,私の考えでは,ペルゴレージに肩を並べるには遠く及ばないけれども,実際に多くの長所と才能を持ち,非凡なくらい多産である.ただ私は,挙げるべき作家や退けるべき作家をサクラがグリム氏に干渉して命じようとする理由を検討しているだけのことである.ハッセのことをなにも語らない者と,アドルファーティの悪口を言う者と,どちらが非難されるべきだろうか?
四番目の理由はどうなった?とサクラは尋ねることでしょう.それを忘れたと言って彼は憤慨するでしょう.四番目の理由というのは,あなたの名前はGで始まるし,ハッセとヘンデルの名前はHで始まるので,頭文字が近いのだからあなたはこれら二人の作曲家の名前を挙げる義務があったということなのです.あなたを攻撃する口実を与えたことをどうかお許しください.しかし,注釈者にならって,私もときにはサクラになる権利を持っていたいのです.
注釈者はパジャンとその有名な師について長々と賛辞を述べいますので,あなたと私も心から拍手喝采を送りましょう.彼は,これほど崇高な才能の持ち主に対して恩知らずな国民がどれほどまでにこの人を公に辱めたかを,あなたに言ってほしかったのでしょう.「公に卑下する」と言うべきでした.ミダス王はアポロンを決して辱めることはありませんでしたし,白鳥が鵞鳥から嘲罵されても辱められたことにはなりません.
私は公平でいたいと思っていますし,私の疑いを表明することも,それに劣らず『書簡考』の著者が当然受けるべき賛辞を彼に述べることもするつもりでおります.たとえば,あなたはフランスでは芸術に対する趣味が一般的であるとおっしゃいましたが,確かに度を超すくらいです.真の知識を持たぬ自称有識者の間抜けな群が,強欲で軽蔑すべき才能のない芸術家の群を生み出し,天才は愚か者の群のなかで窒息しているのです.あなたは,趣味に関しては,宮廷が国民に流行を示し,哲学者たちが規則を与えているともおっしゃいました.これに対して,サクラは中国の陶器製人形,「壊れやすい磁器の壺」,インディアン・ペーパー,極彩色の版画によってあなたに答えています.彼の言うところでは,これこそ哲学者たちによって与えられた規則なのです.私たちが宮廷からゆずり受ける流行については,彼はまったく触れていません.あなたは,哲学者たちは知らず知らずのうちに,庶民に趣味を,つまり偉大な才能の持ち主を見分ける力や,そうした才能の持ち主を賞賛する気持ちを与えているのだと,おっしゃっています.サクラは,哲学というものは才能の持ち主に霊感を与えることはないと答え,趣味と計算の無味乾燥さを混同してはいけないと重々しくあなたに警告しています.私は心から言うのですが,まったくこのサクラは賞賛すべき人物だと私には思えるのです.
サクラには勝手に言わせておきなさい.私たちを照らし始めているあの心地よい真の知識は,実は哲学者のおかげであるということを疑わないように.そしてもし哲学というものが偉大な芸術家を作らないとしても,銭金が彼らを作ることはずっと少ないと信じてください.幸福なイタリアよ! イタリアの住民たちは,芸術の魅力に彼らを感じやすくするあの洗練された趣味を自然から受け取ったのです! これと同じ趣味を研究と知識によって獲得し,考える技術のおかげでもっと貴重な感じる技術を得たフランスは,もっと幸福です! 私には分かっているのですが,哲学というものは天才を生みだしはしませんが,哲学が諸国民に天才を知り,愛することを教えるなら,天才が自然からゆずり受けるものに劣らぬくらい稀で,有用な新しい存在を天才に与えることになるのです.
彼はフランス国民以上にスペクタクルに関心を寄せている国民はヨーロッパにはいないと確信しており,パリはコルネイユ,ラシーヌ,キノーの鑑定家たちのわめき声を抑止せざるを得ない唯一の都市であるということを認めています.ある箇所で彼は「フランスでは趣味に関しては今日まったく強化されていません」と述べ,他の箇所では「ラモー氏は彼自身の趣味でもって私たちを豊かにしてくれたのです」と述べている.こうした食い違いこそ,まさにこの芸術の微妙なところなのです.ある事柄についてなにも分かっていないのに理屈を述べてみたいときに,真実を欠かさない確実な方法がこれなのです.
あなたは書簡を大変美しい表現で締めくくっておられますが,この表現が触れている人がはたしてこの芸術の力と真実さを感じたことがあるのだろうかと疑うべきではありません.こういう人たちこそ,こういう人たちがいればのことですが,崇高なものを評価するのにふさわしいのです.どうかこの点についてはサクラに簡単でもお礼を言うのを忘れないようにしてください.というのは,この箇所では彼は自分自身を越えているからです.
これはいささか賛辞に値することなのですが,注釈者は巧みな言い回しによってあなたの書簡の主題について一言も触れないでいます.あなたが述べておられるような神秘的な事柄は,彼にとっては封印された文字であり,謎なのです.ですから,彼がそのことについて触れていないのはそれなりの訳があってのことだと思ってください.あなたは私たちみんなにたいして曲の分析の仕方を教えてくださったのです.あなたは詩人の言葉をもじりながら,音楽家の考え,誤り,意味の取り違えを説明する術を見いだされました.あなたは比較のための作品のすばらしい一覧を作られ,音楽を聴き,音楽について考える鑑識眼をもった人として,二重唱,アリエット,レシタティフについて述べられたのです.そしてあなたは,流行の著作の馬鹿のようにうぬぼれた調子やこうかつで悪意のある偽善を避けて,根拠にもとづいてのみ判断するという骨の折れる謙虚さと確信をもって発言される勇気とを発揮されました.私はこうしたことを披露するだけにしておきますが,こうしたことはたぶんだれも誉めてくれることはないでしょうが,きっと多くの人々がこれを役立てることになるでしょう.
有利なことでも不利なことでも私が考えたことをあなたに自由に話し,あなたの著作のためにあなたとの関係が難しくなっているこの私について言えば,第一にあなたにはオンファルとは別のテキストを選んでいただきたかったです.このつまらない寄せ木細工はあなたが取り組むのにふさわしいものではありませんでした.それにあなたには,両国のレシタティフを特徴づけている相違や,イタリア語のレシタティフに優位性を保証している決定的な理由,すなわちフランス語のレシタティフと朗唱の関係よりもイタリア語のレシタティフと朗唱の関係の方が密接だということを分からせるようにしてほしかったです.まさしくフランス人は本当のレシタティフをもっていないのです.彼らがレシタティフと呼んでいるものは叫び声の混ざった歌のようなものに他ならず,彼らのエールの方が今度は歌と叫び声の混ざったレシタティフのようなものに他ならないのです.すべてが混同されているので,本当はどういうものなのかだれにも分からないのです.私は,彼らがレシタティフと呼んでいるものとエールと呼んでいるものを区別するはっきりとした違いをフランス音楽ではだれにも定めることができまいと思っています.というのは,拍子をその根拠として持ち出すことはだれにもできないと思うからです.フランス音楽には拍子がないという証拠は,いつだって誰かが拍子を取らなければならないというところにあります.あの呪われた棒がどれほど多くの外国人をオペラ座から逃げ出させたことでしょうか.
あなたは,イタリア語のアリエットが情念と描写の力強さや多様性によって大変優れていることを上手に強調なさったのですから,たぶん,そこにしばしば見られる奇妙な意味の取り違えを明らかになさるべきでした.というのはそれはアリエットに関してフランスの音楽家たちが忠実に真似している唯一のものだからです.それはどういうものかと言うと,歌詞は通常は対比の形で進行するので,第一の部分が一方を,第二の部分が他方を構成します.そこで音楽家がロンドーに則って第一部で終わるときというのは,文章に正確に句読点が打ってあるのに,コンマのところで終わったときとそっくりな感じを私たちに与えるのです.
しかしかわいそうなサクラに話を戻しましょう.たぶん彼はいらいらして聞きはするでしょうが,理解することはありませんから.
批評家があなたに与えた忠告は利用なさるようにお勧めします.讃辞がこれほど流行している国では,讃辞に関しては控えめでいることです.中傷するか,おべっかを言うか,これが下劣な人間たちの宿命なのです.ただ,いつでも喜んで功績をきちんと評価する心構えでいてください.あなたにはこれで十分でしょうが,これだって凡人には度を超えた注文なのです.決してだれにもお世辞を言わぬように,とはあなたには申し上げません.もし私があなたにそれが可能だと信じていたら,なにも申し上げないのですが.でもそうではないので,心からあなたに申し上げますが,あなたはあまりにも称賛の言葉を軽蔑しすぎておられるけれども,そのためにあなたの評価にふさわしい人たちまで不安にすることは許されないのです.批評家に関しては,『書簡考』を読めば,彼が讃辞から超然としていると言っているのは,自分への讃辞,つまり彼が与える讃辞に値打ちを与えようとするための手品である可能性が十分あると分かりますし,少なくとも必要な場合にはそれをしないでいるような人間ではないということははっきりとしています.
批評家はあなたの作った偉人の殿堂にそれほど満足しているようには私には思えませんが,彼はそれを外からしか見ることができませんから,これには大した不都合はないのです.しかし批評家の方は奇妙なグループを作ったことであなたを非難してします.はっきり申しますが,私は彼と同意見です.彼が不手際と勘違いしたらしいこの奇妙さは,非常の体系だった処置であり,理性的な体系の結果であるということが私にはよく分かっています.ただ私が批判するのはその体系そのものなのです.あなたは才能ある人たちをすべて称賛しておられますが,それは彼らにとっても,またあなたにとっても結構なことです.しかし,あなたは彼らをすべて一様に称賛しておられるところが,私の見逃せない点なのです.あなたは,彼らがみな同じ生まれを持ち,彼らを生みだした天才が彼らを一様に高貴なものにしていると主張しておられます.しかし,天賦の才そのものも,すべて同じだとあなたはおっしゃるつもりでしょうか?ここではこの点について長々とした論究に入るゆとりはありません.私が少なくともあなたに認めていただきたいことは,必要な分野や克服すべき困難においては多くの相違があるのであって,この上なく美しいアダージョの曲を作ることしか脳のないような偏狭な天才は,宇宙を説明しようとするような力強い天才とははるか遠く及ばないということです.
私もおそらくあなたと同じくらい音楽が好きですが,非常に上手に歌うと自分の息子をなじったフィリップの言葉がそれに劣らず好きなのです.彼が息子をとがめたのは,息子がその師と同じくらい知識があったからではないのです.あなたはたぶんフルートを吹く国王のことを引き合いに出されるでしょうが,彼がフルートを吹く権利を自分のものとするには結構苦労があったのだと,私はあなたにお答えしましょう.
趣味と身体器官だけを私に与えてくだされば,私はデュプレのように踊り,ジェリオットのように歌うことでしょう.趣味に,知識と想像力を付与してくだされば,ラモーのようにオペラを作りましょう.まあまあの出来の小説を書くためには,さらに人間の心と愛の常軌を逸した行為についての十分な知識が必要です.弁論の術,これも他のものと同じように一つの才能ですが,優れた悲劇の対話を書くには,これが以上のすべての才能の他に必要です.もしあなたが公正で,高貴で,洞察力があり,瞑想の経験に富んだ精神をもっていらっしゃらないのなら,哲学の書物を書くにはそれでも十分とはいえないでしょう.優れた将軍は,丈夫で,勇気があり,慎重で,自信があり,雄弁で,先見の明があり,辣腕豊かでなければなりません.最後に,こうした特質のすべて,私は例外なしにすべてと申しますが,これらすべての他にさらに,自分の情念を統制できる偉大で崇高な魂,驚くべき優れた徳,これが民衆を支配するものが持っていなければならない才能なのです.したがって,才能はその性質からして均等ではありません.その対象によってずっとばらつきがあるのです.他の才能はすべて,人を楽しませたり,堕落させたり,困らせたりするにはよいものです.この最後の才能だけが人々を幸福にするためのものなのです.これが問題を決定する,私にはそう思われます.
批評家はあなたに偏った態度はとらないようにと注意していますが,彼はそれをラモー氏に関して言っています.あなたのために私が彼に感謝するのは,別の非常に賢明な意見のことでなのです.これは私の手紙の最後の件の主題にもなることでしょう.というのは,私はあなたの注釈者に注釈を加えるのが本当に楽しいからです.
私はまず,理性的で公平な人間がラモー氏の作品にたいして持つはずの考えについて多少ともはっきりさせてみたいと思っています.というのは,賛否はともかく陰謀による中傷に対して私は価値を認めないからです.私について言えば,私には知識が欠けているために間違った判断をするかもしれませんが,私がこれから述べることにたとえ道理がないとしても,公平さは確かに見いだされるでしょうし,いつでもこれがもっとも困難なことをしたということになるでしょう.
ラモー氏の理論的著作は読まれてもいないのに大変な成功を収めたというまったく奇妙なところがあるのですが,ある哲学者がわざわざこの著者の教理の概略を書いてからはそれ以上に読まれなくなるでしょう.このような簡略本があれば原書はいらなくなることは確実で,こんな埋め合わせになるものがあれば,原書がなくてもだれも残念がるいわれはないでしょう.これらの著作には新しいものや有用なものは,根音バスの原理以外には何も含まれていませんが,たとえそれが恣意的なものであっても,原理などないと思われていた芸術に一つの原理を与えたということ,かつては二十年もかかる仕事だった作曲の習得が今や数ヶ月の仕事になるくらいに音楽の規則を簡単にしたということは,何でもないことではありますまい.音楽家たちは軽蔑するふりをしながらも,ラモー氏の発見をむさぼるように手に入れたのです.生徒の数は驚くべき速さで増えてきました.どこを見ても,にわか作りの作曲家ばかりで,彼らの大部分は才能がなく,教師の世話になりながら学者づらをしているのです.ラモー氏が音楽にたいして行った貢献は非常に現実的で,偉大で,強固なものですが,同時にそれは,フランスが劣悪な音楽と下手な音楽家たちで溢れかえってしまうという不都合を招来したのです.それはなぜかというと,だれもこの芸術の基礎を知ったとたん,それの微妙なところがすべて分かったと思いこみ,耳や経験がよい音楽を見分けることを教えてくれる前に,だれもが和声作りに首を突っ込むようになったからです.
*私がここでいわゆる和声の物理的原理について何も触れないのは,失念のためではない.
ラモー氏のオペラについて言えば,まず最初にオペラ座の舞台をポン=ヌフの芝居小屋よりも優れたものにしてくれたのはラモー氏のオペラであったことに恩義を感じなければなりません.彼は偉大なリュリに死後群小の音楽家たちが離れることがなかった非常に卑小な音楽の小さな円を大胆にも飛び越えたのです.その結果,ラモー氏に優れた才能を認めないくらい不当な人の場合でも,少なくとも彼が後に続く音楽家にいわばその道を開いてやったことや,彼らがその才能をいかんなく発揮することができるようにしてやったということについては認めないわけにはいかないでしょう.これは確かに容易な企てではありません.彼は痛い思いをしましたが,それで彼の後継者たちはバラの花を摘むことができるのです.
彼が出来の悪い歌詞ばかり使って仕事をしてきたと非難されているのは,かなり軽率なやり方だと私には思われます.それに,この非難が常識となるには,彼が優れた歌詞も選べる状態にあったということを示すことが必要でしょう.彼がまったく何もしなかった方がよかったのでしょうか?もっと正当な非難は,彼が引き受けた歌詞を必ずしも常に理解していたわけではなかったというものであり,しばしば詩人の想念をとらえ損なったりもっと適当なものを代わりに使わなかったというものであり,頻繁に誤解をしたというものです.彼が出来の悪い歌詞を使って作曲をしたとしてもそれは彼のせいではありませんが,もっと優れた歌詞を有効に利用したのかどうかは疑ってみてもいいでしょう.ラモーは表現の面ではほとんど常にリュリより優れていたのですが,確かに精神や知性の面ではかなり劣っています.リュリがダルダニュスのモノローグを作ったほど上手には,ラモー氏はロランのモノローグ*を作れなかったでしょう.
*第四幕第二場.
ラモー氏の中には,非常にすばらしい才能,豊かな霊感,鳴り渡るような知力,和声的展開やあらゆる効果についての優れた知識を認めねばなりません.さらに,他人の想念を取り込み,変質させ,飾り,美化し,そして自分のものに変えてしまうための技巧は豊かですが,新しい想念を考案する能力はほとんどありません.豊かな創作力よりも器用さに勝り,天賦の才よりは学識が勝っています.しかし,常に力強さと優美さに溢れ,きわめてしばしば美しい歌を認める必要があるでしょう.
彼のレシタティフはリュリのそれに比べて自然さがありませんが,はるかに多様です.彼のレシタティフはごくわずかの場面では称賛に値するものがありますが,他のところではたいてい出来が悪いのですが,それはたぶん彼の責任であるのと同じくらい,曲の種類のせいでしょう.というのは,彼が歌を不細工なものに,歌の展開を堅いものにしたのは,彼がしばしば朗唱に従うことを過度に望んだからです.彼が真のレシタティフとはどんなものかイメージし,この羊の群のような国民にそれを受け入れさせる力を持っていたら,彼はぬきんでることができただろうにと思います.
彼は入念に仕上げられた器楽部分や伴奏部を書いた最初の人ではあるのですが,それが度を超えたのです.彼以前にはオペラ座のオーケストラというのは中風にかかった盲人の一団のようでした.彼は彼らのしびれを多少は治したのです.そこで彼らは今では立派に演奏をやっていると断言しています.しかし,私に言わせれば,この人たちは決して様式感もなければ魂もないのです.そろっているとか,強弱をつけて演奏しているとか,俳優にうまくついて行っているとかは,まだなんでもないのです.優れた様式感あるいは表現が要求するのにしたがって,音をクレッシェンドしたり,ディミニュエンドしたり,強拍をつけたり,急に弱めたりすること,伴奏の精神を理解すること,声を目立たせ,支えること,これらこそわが国のオペラ座のオーケストラをのぞいて,世界中のすべてのオーケストラがもっている技なのです.
はっきり言って,ラモー氏はこんな風だったこのオーケストラを酷使しすぎたのです.彼は伴奏をあまりにも混乱した,あまりにも過重で,あまりにも頻繁なものにしたので,彼のオペラの演奏の間は,様々な楽器の絶え間のない騒音に頭は我慢できないのですが,これらのオペラがもう少し耳を聾することが少なかったら,楽しく聞けるのですが.こういう訳なので,オーケストラは,絶えず演奏していなければならないために,感動を与えることも,心を打つことも決してなく,ほとんど常にその効果を発揮できないでいるのです.レシタティフの場面の後では,思いがけない弦のアタックがどんなにぼんやりした聴衆さえも目を覚まさせ,作者がこれから提示しようとする情景に彼らの注意を向けたり,あるいは彼ら聴衆の中に引き起こしたいと思っている感情にたいして心の準備ができるようにしなければならないのです.これこそ,オーケストラがキーキー音を立ててばかりいたら,まったくできないでしょう.
あまりにも懲りすぎた伴奏に反対するもっと強力な別の理由は,伴奏が本来すべきこととは正反対のことをしてしまうということです.聴衆の関心をより心地よく集中させる代わりに,そのような伴奏は関心を分散させて台無しにしてしまうのです.三つないしは四つの旋律線が三ないしは四種類の楽器によって積み重ねられると美しいものになるということを私に納得させようというのなら,その前に,芝居には三つないしは四つの筋の展開が必要だということを私に証明してくれる必要があります.こうした鮮やかな技巧の繊細さ,こうした模倣,こうした重複した旋律線,こうしたバッソ・オスティナート,こうした反行フーガ,これらはすべて醜い怪物,悪趣味の遺物にすぎず,最後の隠れ家として修道院に追いやらねばなりません.
ラモー氏に戻って,この脱線をしめくくれば,彼以上に細部の精神をとらえ得た人はいませんし,彼以上に対照の技術を知っている人もいないと私は考えます.しかし同時に,彼以上に自分のオペラに,これほど巧みで,これほど望まれた統一性を与えることができなかった人もいません.そして彼はたぶん,大変よくできた美しい曲から優れた作品を一つも作り上げるにいたらなかったこの世で唯一の人でしょう.
         下手な詩人は爪を描写するだろう,
          彼は風そよぐ髪の毛を示すだろう.
         しかし全体としては成功しないだろう,
      全体を作り上げることができないだろうから.
以上が有名なラモー氏の作品について私が考えていることですが,彼のおかげで国民が多くのものを得ていることを彼に認めるなら,多大の敬意を与えなければならないでしょう.このような判断は彼の支持者も彼の敵たちも満足させないだろうということは十分よく分かっているのですが,私が望んだことは,この判断を公正なものにすることだけです.私はこれをあなたの判断の規則としてではなく,教養・礼儀に富んだ人が称賛してはいるけれども,欠点もあると思っている偉大な才能の持ち主について論じるときにもっているべき誠実さの例として,あなたに提案しているのです.
私は天才の刻印を持つすべてのものに対するあなたの鑑識眼を立派なものと思っていますが,もしあなたが,誠実で若干の経験も持った人間の意見を信じてくださるなら,諸芸術の名誉とあなたの楽しみの純粋さのために,作品を称賛するだけにしておいて,決してその作者のことを知ろうなどとお望みにならないようになさい.あなたは徒党や狂信家しかいないような世界に住んでおられるのですが,そのような世界では,これから作られる作品をいいと判断するか悪いと判断するかがどの住人にもすでにはっきりと分かっているのです.このような狂信に対しては,ちょうど,そのうちに心まで汚してしまうことにさえなりかねないような判断力の宿命的な悪徳に対するのと同じように,身を守ってください.あなたの精神があなたの魂と同じように常に自由であってほしいものです.ある詩人の詩句には我を忘れたのに,それ以外のどんな詩人を読んでも冷淡でしかなかったあの俳優にたいするプラトンの正当な嘲笑を思い出してください.たとえどんなに天賦の才があっても,あなたの理性を従属させるに値するような人間はこの世にはいないということをお分かりになってください.現存するすべての人の中でもっとも優れた文章術の巨匠であるヴォルテール氏でさえそうではないのです.要するに,あなたが,『ラ・アンリアッド』に目を通して,あなたの心がときめき,自分自身が感動し,賛嘆の念で茫然となっていることを感じ,涙を流しながら「いや,偉人よ,あなたはまだホメロスのライヴァルではないのだ」と叫ぶのを見てみたいものです.
どうか慎みなく夢中になったことをお許しください.しかしこれは私が読んだあなたの著作の熱意が私に吹き込んでくれたあなたに対する評価が命じたものなのです.大衆はあなたの著作を読み,拍手喝采し,そこに細緻と鑑識眼を持つ人を喜んで認めたのです.私はといえば,それ以上に喜んで,真の哲学者と人間のともを認めたと信じています.ですから,あなたにとって貴重で,あなたが善用なさっている才能を愛し,伸ばし続けてください.しかし時には賢者の一瞥をこれらのことに向けたり,時にはこれらあらゆる児戯を笑い飛ばすのを忘れないでください.
敬具

to TOP

ルソー音楽関係著作一覧に戻る

INDEXに戻る inserted by FC2 system