『フランス音楽に関する手紙』

(1753)

これらは言葉、音であって、それ以上のなにものでもない

緒言

昨年オペラ座でおきた論争の行き着いたところは、かたや大変な才気をもって、またかたや大変な憎しみをもって発せられた中傷合戦でしかなかったので、私はそのどちらにも与したくはなかった。というのはこの種の争いはいかなる意味においても私にはふさわしくなかったし、また道理だけ言っていればいいような時期でもないということがはっきりと感じられていたからである。しかしブッファたちがお払い箱になったか、あるいは今にもそうなろうとしている今となっては、またもはや陰謀など問題にならない今となっては、思い切って私の意見を表明してもいいと思うし、私のいつもの率直さでそれを述べても、そのことでだれも傷つける恐れはないだろう。こんな主題ではどんな注意も読者諸氏には侮辱となるだろうとさえ思える。というのは、はっきり言って、もし歌謡を愚かなくらい重要視し、哲学者よりも音楽家の方を大事にし、道徳上のもっとも重要な問題を論じるときよりも、音楽を論じるときの方が慎重さを必要とするような国民があったとしたら、私はそんな国民にたいしてひどく否定的な意見を持つだろう。
この手紙は、ごくわずかの箇所をのぞいて、一年以上も前にかかれたが、この手紙が扱っている主題に関わることのすべては、はっきり言って私は度が過ぎるくらいの熱意でもって気に入っていたのだが、それらすべてを私の書類入れと私の目から遠ざけるためにほったらかしにしておいたのである。
音楽とオペラの審判者である流行の紳士淑女諸君よ、私はあなた方と永遠におさらばし、私の楽しみによって二度もあなた方をうんざりさせたいという誘惑にうち勝ったことを生涯毎日自賛することになろう。今こそ、まじめに詩と音楽をあきらめ、私に残された余暇を、公衆のためではないにしても、少なくとも私自身のためにもっと有用で、もっと満足のいく仕事に使うべき時である。

『フランス音楽に関する手紙』

ド・フォントネル氏が触れておられるところによると、金の歯をもって生まれてきたというシレジアの子どもの話をあなたは覚えておいででしょうか?  ドイツの学者はだれも、まず最初に、どのようにしたら金の歯をもって生まれることがあり得るのかを知るために、博学な論文を書いて精魂を枯らしたのですが、最後に思いついたことは、その事実を確かめることでした。そしてその歯は金でできてはいなかったのです。同じような不都合を避けるには、わが国の音楽の優秀性を問題にする前に、わが国に音楽が存在するのかどうかを確かめること、すなわちまず最初に、わが国の音楽が黄金製であるかどうかではなくて、はたして私たちが音楽というものをもっているのかどうかを検討することが望ましいでしょう。
ドイツ人、スペイン人、イギリス人は自分たちの国語にふさわしい音楽を持っているとずっと主張してきました。実際、彼らは心から称賛している国民的オペラを持っており、たとえ自国民以外の人々の耳には耐えられないような傑作であっても、それらがなくなるのに手をこまねいているかどうかには彼らの栄光がかかっているということが彼らにはよく分かっていたのです。ついに彼らのもとでは喜びが虚栄心にうち勝ったのです。少なくとも言い換えれば、彼らはもっと納得のいく虚栄心をわがものとしたのです。その虚栄心というのは、しばしば諸国民を愚かにすることがある偏見を犠牲にして、彼らが音楽に結びつける名誉心そのものによって趣味と理性のほうを優先するということなのです。
フランスでは今なお、かつて彼らが自国の音楽について持っていたのと同じ考えを持っています。だからといって、私たちの方が頑固一徹だったから、私たちの強情さの方がしっかりした根拠があると、いったいだれが私たちに保証してくれるでしょうか? これについてきちんと判断するためには、一度フランス音楽を理性の試練にかけてみて、フランス音楽がそれに耐えられるかどうか見てみるのが適切なことではないでしょうか?
私はここでこの検討を掘り下げて見るつもりはありません。それは書簡のようなもののすべきことではありませんし、たぶん私の手紙のすべきことでもないでしょう。私がしてみたいと思うのは、ただいくつかの原理を確立するよう努めることです。そういうものがあれば、もっと優れた原理が見つかると期待して、この芸術の巨匠や、あるいはむしろ哲学者たちがその原理をもとにして彼らの探求を進めることができるでしょうから。哲学者たちがと言ったのは、かつてある賢人が言ったのですが、詩を作るのは詩人の仕事、音楽を作るのは音楽家の仕事、だがそのどちらについても上手に論ずるのは哲学者にしかできない仕事だからです。
どんな音楽も次の三つのものからしか構成されることはできません。つまり、旋律あるいは歌、和声あるいは伴奏、テンポあるいは拍子がそれです。
   歌はその主な性格を拍子から引き出すにも関わらず、和声から直接生じるものであるし、つねに伴奏を自分の歩みに従わせるものなので、私はこれら二つの部分を一つの項目にまとめ、その後拍子について別に論じるつもりです。
和声はその原理を自然の中に持っているので、すべての国民にとって同じものです。あるいはもし若干の違いがあるとしても、そのような違いは旋律の違いによってもたらされます。ですから、国民音楽の特殊な性格を引き出すべきは、旋律からだけということになるのです。それにそのような性格というものはおもに言語によって与えられるので、本来の意味での歌というものがそのもっとも大きな影響を受けるはずですから、それだけいっそうそういうことになるのです。
さまざまな国語のなかで、音楽によりふさわしい国語というものを考えてみることができます。またまったくふさわしくない国語も考えられます。もしそのような国語があるとすれば、それは混成語、無音の音節、無声の音節、あるいは鼻にかかった音節によって構成され、響きのいい母音はほとんどなく、たくさんの子音と分節からできており、私が拍子の項目で述べるつもりにしているような他の本質的な条件にも欠けるような国語でしょう。こんな国語に適用した音楽からいったいどんな結果が生じるか、面白そうですから、調べてみましょう。
第一に母音の音に輝きが欠けているので、その代わりに音符の音に輝きを多く与えねばならないでしょう。そして言語は鈍重でしょうから、音楽は叫ぶようなものになるでしょう。第二に、子音の堅さと頻繁な使用のためにたくさんの語を断念せざるを得ず、他の語の上でも基本的な抑揚によってしか前進できないでしょう。ですからその音楽は無味乾燥で単調なものとなるでしょう。その進行は同じ理由からゆっくりとして退屈でしょうし、テンポを少し速めようとしても、その速さは堅くて角張った物体が舗石の上をころがるときのそれに似たものとなるでしょう。
このような音楽は快適な旋律をまったく奪われているので、人工的で、自然のものでない美によってそれを補おうとすることでしょう。頻繁で規則的だけれども、冷たく、魅力もなければ、表現力もない転調を詰め込むことになるでしょう。フルドン、カダンス、ポール・ド・ヴォワ、その他よけいな装飾音を考案して、歌の中でふんだんに使うことになるでしょうが、そのために歌は平板でなくなるどころか、もっと滑稽なものになるほかないでしょう。このようなうっとうしい粉飾を持った音楽はあいかわらず活気がなく、表現力もなく、力と力強さに欠けるそのイメージは多くの音符を使いながら、ほとんど対象を描くことがなく、ちょうど装飾やら飾りのついた文字で満たされた線を持つゴチックの書体が二つか三つの単語しか含んでおらず、たくさんの場所をとりながらその中にごくわずかの意味しか含んでいないのと同じなのです。
快い歌を作り出すことができないので、作曲家たちはその関心をすべて和声の方に向けざるを得なくなるでしょうし、現実的な美が欠けているので、彼らは困難を克服したという利点以外には何の利点もない約束事の美を持ち込むことになるでしょう。優れた音楽の代わりに、彼らは凝った音楽を考えつくでしょう。歌の代わりを補うために、彼らは伴奏の数を増やすでしょう。彼らには、たくさんの下手な声部を次々と積み重ねるほうが、一つの優れた声部をつくることより、たやすいことなのです。無味乾燥でなくするために、彼らは混乱を増やします。それで音楽を作っていると思いこんでいるのですが、騒音しか作ってはいないのです。
旋律の欠如から出てくる別の結果は、音楽家たちが旋律について間違った考えしかもっていないために、いつでも彼ら流の勝手なやり方で旋律を見てしまうということです。真の旋律を持っていないので、歌の声部を増やすことは彼らにとっては何の苦労もいりません。なぜなら彼らは旋律ではないものにまでその名称を大胆にも与えるからです。したがって通奏低音にさえ旋律の名称を与えるのです。彼らは、声楽パートの旋律とはなんの関係もない旋律なるもの、実は一種の伴奏が全体を覆ってしまうことになるのに、芸のないことに、この通奏低音のユニゾンでバス=ターユを歌わせるのです。音符のあるところすべて、かれらは歌があると思っているのです。実際、彼らの歌は音符に他ならないのですから。「これらは音であって、それ以上のなにものでもない」。
さて拍子に話を移しましょう。歌の美しさと表現力の大部分がこの拍子の感覚の中にあるのです。拍子と旋律の関係は、統辞法と説話の関係とほぼ同じです。単語のつながりを作り、文章を区別し、全体に一つの意味、一つの連結を与えるのが統辞法なのです。もし演奏者のせいで、拍子が感じられないような音楽はどれも、一種の暗号文に似てしまい、その意味を解読するためにはその鍵を見つけだすことがどうしても必要になります。しかし、実際にその音楽にはっきりとした拍子がない場合には、それは適当に置かれ、何の脈絡もなく書かれた単語の混乱した集まりにすぎないものになり、そんな文には作者が意味をまったく置かなかったのですから、読者もいかなる意味も見いだすことがないのです。
どんな国民音楽もその主要な性格をそれに固有の国語から引き出すと私は言いましたが、これに付け加えて、この性格を作り上げているのはおもに言語の韻律法であると言わなければなりません。声楽は器楽よりも遙か以前からあるので、器楽は声楽からその歌の特徴や拍子を受け取ってきたのですし、声楽の拍子の多様さが生まれてきたのは、説話を区切ってはっきり発音したり、相対的に見た場合に短いとか長いとか言える音節を配列する際の方法の多様さからに他ならないのです。このことはギリシャ音楽では非常に明白なことで、ギリシャ音楽の拍子というのはすべて、言語と詩が受容できる長短の音節と脚の組み合わせから作り出されたリズムの定式化に他ならなかったのです。その結果、音楽的リズムの中には、韻律法の拍子、韻文の拍子、歌の拍子がはっきりと区別できるにもかかわらず、もっとも心地よい音楽、あるいは少なくとももっともリズムのはっきりした音楽は、これら三つの拍子ができるだけ完璧に協力し合っている音楽であるということは疑いようのないことなのです。
以上のことを明らかにした後で、私の仮説に戻り、次のように仮定してみます。私が上で論じたばかりのと同じような言語はほとんどメリハリがなく、正確さも明確さもない、劣悪な韻律法をもっている。長音節と短音節は相互に、長さの点でも数の点でも、リズムを快適で正確で規則正しいものにするのにふさわしい単純な関係をもっていない。そのような言語は相対的に見て他のものより長かったり短かったりする長音節、同じように相対的に見た短音節、要するに短くもなければ長くもない音節をもっている。そして、長音節・短音節の違いは確定できず、ほとんど共通のものに還元することが不可能である。そうなれば次のことは明白でしょう。国民音楽があるとすれば、それは韻律法のもつ不規則性をその拍子の中に受け入れざるを得ないので、それは非常に曖昧で、不均等で、ほとんど感じられない拍子しかもたないこと。レシタティフにはとくにこのような不規則性が感じられること。音符の長さと音節の長さをどうやって一致させていいのかほとんどだれにも分からないこと。絶えず拍子を変えざるを得ないこと、正確で律動的なリズムを韻文に決して与えられないこと。リズム付きのアリアでさえもテンポはほとんど自然でなく明確でもないこと。この欠陥にほんのわずかでもテンポの遅さが付け加われば、均等な拍という観念が歌手と聴き手の精神から完全に消えてしまうこと。結局は、拍子は感じられなくなり、その繰り返しも均等でなくなり、拍子は、絶えず自分の好きなように拍子を速めたり遅くしたりすることができる音楽家の気まぐれに従属することになり、その結果、コンサートでは誰かが、自分一人の気まぐれか都合で、すべての人に拍子を示してやらなければならないということ。
このようにして、作曲家が拍子をはっきりしたものにすることができたような作品でも、歌手たちは、わざと拍子を変えているのが分かるくらいに、拍子を奴隷のようにあつかう習慣をつけることでしょう。拍子をきちんと取ることは、作曲にたいする過ちであり、拍子に従うのは歌の趣味にたいする過ちということになるでしょう。欠陥は美と見なされ、悪徳が規則として確立され、この国民の趣味にあった音楽を作るためには、他の国民のすべてが嫌っているものを後生大事にしていればいいということになるでしょう。
こんな音楽は、その欠陥をどんなに巧みに明らかにしようとしたところで、それをいつも耳にしている国に生まれ育った人々以外の耳には決して気に入られることはできないでしょう。彼らは、本当の音楽をもっとふさわしい言語で聴けば、彼らの音楽もそれに近づけようとするでしょうが、結局彼らがすることは、真の音楽からその性格を奪い、言語と、この言語にあわせて作られていた真の音楽のあいだにあった適合性を奪ってしまうことになるだけでしょう。もし彼らがその歌の性質を変えようとしても、歌を堅く、歪んだ、ほとんど歌えないようなものにすることでしょう。もしこの歌にふさわしい伴奏以外の伴奏でそれを飾るだけで我慢しようとしても、避けがたい対比によってその平板さをもっとくっきりと浮き彫りにするだけのことです。彼らはその音楽のすべてのパートから、それを一つにまとめ上げていた性格の画一性を奪うことによって、その音楽が受け入れることができる唯一の美を奪うことになるでしょうし、歌を軽蔑して器楽合奏しか聞かないように耳を慣れさせることで、彼らはついには声を伴奏パートのための伴奏の役目にしか使わないようになってしまうでしょう。
以上が、どのようにしてこのような国民の音楽が声楽と器楽とに分かれてしまうのか、またこれら二種類の音楽に異なった性格を与えることによって、どうしてそこから怪物のような一つの全体ができあがるのかということについての説明です。器楽合奏は拍子どうりに進もうとしますが、歌の方はいかなる煩わしさにも耐えられないので、しばしば同一の曲の中で歌手の曲とオーケストラの曲が対立し、お互いに邪魔をしあうことになります。このような不安定な状態と二つの曲の性格の混ざり合いのために、伴奏の仕方に冷淡さと気力のなさが持ち込まれ、それが習慣になってしまうので、器楽奏者たちは優れた音楽を演奏しているときでさえも、勢いや力強さを与えることができなくなってしまうのです。優れた音楽でも彼らの音楽と同じように演奏することで、それを完全に無気力なものにしていまいます。彼らは「弱く」を強く演奏し、「強く」を弱く演奏するので、これら二つの語のニュアンスが一つも分からないでしょう。「リンフォルザルド」、「ドルチェ」*、「リソルート」、「コン・グスト」、「スピリトーソ」、「ソステヌート」、「コン・ブリオ」といった他の語は彼らの言語には同意語さえないでしょうし、「表現」という語は何の意味ももたないでしょう。彼らは力強い打弦のかわりに活気がなくうっとうしい細々した装飾音を数え切れないくらいもってくるでしょう。オーケストラの人数がどれだけ多くても、オーケストラは何の効果も出さないでしょうし、または非常に不快な効果しか上げることがないでしょう。演奏はいつもだらけていて、器楽奏者たちは拍子どおりに演奏するよりも、装飾音をきちんと付けて演奏したがりますから、彼らの演奏は決して揃うことがありません。つまり、彼らはきれいに合った、音程の正しい音を出すことも、曲の性格どおりに演奏することもできませんから、外国人は、世界で第一と自慢しているオーケストラが酒場の大道芝居程度のものであることにまったくびっくりするでしょう。このような音楽家たちなら、彼らの恥をさらしてしまう音楽を憎むようになるのは当然のことで、やがて悪趣味に悪意が加わって、彼らはあらかじめ計画を練って滑稽な演奏することになるでしょうが、その下手さ加減は彼ら自身が当てにすることができるでしょう。
*ピアノとドルチェの違いを知っているフランスの器楽奏者は四人といません。だから彼らがそれを知っていたとしてもまったく役立たずなのです。というのは彼らの中のいったいだれがその違いを示せるでしょうか?
私が説明した仮定と反対の仮定によれば、感動させ、模倣し、快を与え、和声と歌のもっとも甘美な印象を心にまでもたらすために作られた真の音楽の特徴をすべて引き出すことが容易にできるでしょう。しかしそんなことをしてもここでの主題と私たちがよく知っているイメージからあまりにかけ離れてしまうことになるでしょうから、私たちの音楽をよりよく判断する助けになってくれるイタリア音楽について若干考察をするだけでよしとしたいと思うのです。 もしすべての言語の中でどの言語がもっとも優れた文法をもっているかと尋ねられたら、私はもっとも見事に推論する民族の言語だと答えるでしょう。そしてすべての民族の中でもっとも優れた音楽をもっているのはどの民族かと尋ねられたら、音楽にもっともふさわしい言語をもっている民族だと私は言うでしょう。これこそ私が前の部分ですでに述べたことですし、この手紙でも後ほど確認する機会があるでしょう。ところでヨーロッパで音楽にふさわしい言語があるとすれば、それがイタリア語であることは確かです。というのは、この言語は他のどの言語よりも甘美で、響きがよく、階調的であるからですし、この四つの特質こそまさに歌にもっともふさわしいものだからです。
イタリア語は甘美ですが、その理由は、イタリア語では分節が複合的なものがほとんどないし、子音の連続がまれで、しかも堅さがないですし、大多数の音節は母音で構成されているので、母音字省略が頻繁となり、そのために発音がずっとなめらかになっているからです。イタリア語は響きが豊かなのですが、その理由は、母音の大部分がよく響き、複合二重母音がなく、美母音がほとんどないか、または全くありませんし、分節が少ない上に簡単なので、音節の音がより区別しやすくなり、その結果音節の音がより明確で充溢したものとなるからです。階調というのは、音次第であるのと同じくらい、韻と韻律法にかかっているのですが、これに関しては、イタリア語の優位は明白です。というのは、言語を階調的で、真に精細に富んだものにするかどうかは、その言語がもっている言葉の実際の力よりも、その言語が用いる音の間の弱い音と強い音の違いであり、描かなければならない情景のためにそれらの音の中からどんな選択が可能化であるかにかかっているという点に注目しなければならないからです。このように考えるならば、イタリア語というのは甘美さと優しさの言語にすぎないと考えている方々には、タッソーの次の二つの詩節をご面倒でも比較していただきたいものです。

やさしいさげすみと穏やかで静かな
否みと優しい愛撫と楽しい安らぎ、
楽しげな言葉の交わし合い、甘い
涙のしずくととぎれとぎれの溜息、そしてやわらかなくちづけ。
それがなべて溶け合い、そして一体となり、
ゆるやかにゆらぐ松明の火に静まる。
それはあのみごとな帯を作り出し、
それをかの人は美わしい体に巻きつける。
久遠の闇の国の住人を招くは、
冥界のらっぱの嗄れた響き。
広大な暗黒の洞穴は震え、
盲いた大気はその大音響に共鳴する。
それは軋る音も立てず、天上の
神の領国から稲妻が襲い、
それはけっして衝撃も受けず、大地は震えおののく、
薄もやを地中深く閉じこめるとき。
[白水社版『ルソー全集』第12巻所収、海老沢訳]
もしこの人たちが最初の詩節の甘美な階調をフランス語で出すことには絶望して、もう一方の詩節の嗄れた堅さを表現してみようと試みるとしても、それを判断するにはこの言語を理解する必要はありません。耳と誠意さえあれば十分なのです。それに、後者の詩節の堅さははっきりしないものではなくて非常に響きのいいものであり、耳に取ってだけ堅いのであって、発音にはそうではないということに、お気づきになるでしょう。というのは、イタリア語では、最初の詩節を非常になめらかにしている《 l 》に劣らず、この詩節の堅さを作っている頻繁な《 r 》を簡単に音にできるからです。反対に、私たちの言語の階調に堅さを与えようとすればそのたびに、私たちはあらゆる種類の子音を積み重ねざるを得なくなるのですが、これらの子音は発音しにくくて荒っぽい音を形成し、その結果歌の進行を遅らせ、まさに歌詞の意味が最高の速さを要求しているときに、しばしば音楽に遅く進むことを余儀なくするのです.
もしこの点についてさらに私の考えを述べようとしたら、私はたぶん、イタリア語における倒置は、教室で教えられてきたフランス語の順序よりも、ずっと優れた旋律に都合がいいということ、音楽のフレーズというのは、話の意味がしばらく宙ぶらりの状態になって、終止とともに動詞の上で解決する方が、それが徐々に展開することで、聴く人の精神の欲求が徐々に弱められたり満たされたりするが、その一方で耳の欲求の方はそれと逆比例してフレーズの最後に向けて増大するという場合よりも、快適で興味深い展開の仕方をすることになるということです。さらに私は次のことも証明してみせるでしょう。イタリア語の幸運な仕組みのおかげでイタリア音楽にはあれほど一般的になっている中断状態の技法や語をとぎれとぎれにする技法はわがフランス語ではまったく知られていませんし、その不足を埋めるのに、決して歌とは言えない休符以外の方法を私たちはもっていないのですが、そのような機会にこれを使うと、それは音楽家の能力よりもむしろフランス音楽の貧困さを示すことになってしまうでしょう。
アクセントについても述べなければならないのでしょうが、この重要な点は非常に深い議論を必要とするので、もっと優れた人の手に残しておいた方がいいでしょう。ですから私は私の目的にもっと本質的なことに移り、わが国の音楽そのものについて検討してみようと思います。
イタリア人はわがフランスの旋律は平板で歌がないと主張しますが、この点についてはすべての中立的な国民*も一致してイタリア人の判断を確認しています。私たちの方では、イタリア人の旋律を奇妙だとか形が崩れていると非難しています。私としては、学問とすべての芸術がこれほど高度な段階に到達した国々で、音楽だけがまだ誕生していないと言わざるを得ないよりも、彼らのどちらかが間違っていると考える方がいいのですが。
*シャフツベリ卿は次のように言った。「フランス語を話す習慣が私たちの間でフランス音楽をはやらせた時代があった。しかしまもなくもっと詳しく自然を私たちに見せてくれるイタリア音楽がフランス音楽を私たちに嫌悪させ、実際と同じくフランス音楽が重たく、平板で、陰気であることに気づかせた。」
私たちの間でもっとも偏見を持たない人たち**は、イタリア音楽もフランス音楽も、それぞれのジャンルで、それぞれにふさわしい言語にたいして、両方とも優れていると言うだけで満足でしょう。しかし、他の国民たちはこんな一致を認めていないだけでなく、二つの言語のどちらがそれ自体で最良の音楽ジャンルを持つことができるかを知ることが相変わらず残っていることになりましょう。この問題はフランスで多いに議論を呼んだものですが、他のところでは決して問題にならないでしょう。この問題は、完全に中立的な耳によってしか決することができませんし、その結果、この問題が持ち出されている唯一の国では解決することが日々困難の度を増しているのです。以下はこの点について行った若干の実験なのですが、だれもが自由に確かめることができますし、ほとんどすべての議論の唯一の集約点である旋律に関しては、すくなくともこの問題の解決に役立つことができると私には思われるものです。
**若干の人たちは音楽の愛好家たちがためらいもなくフランス音楽を完全に排除していることを非難しています。このような穏健な調停者たちは、あたかも優れたものを愛すれば悪しきものも味わえるものだとでもいうかのように、排他的な趣味を望んでいないのです。
私は両国の音楽の中から同じようにそれぞれのジャンルで評価されているエールをとりだし、その一方からはしつこく繰り返されるポール・ド・ヴォワやトリルを取り去り、他方からは作曲家があえて書き込んでいないので、歌手のセンスにゆだねられている暗黙の音符*を取り去り、それらのエールをいかなる装飾音も付けず、フレーズの意味や連結にたいして私自身のものを何ら追加することなく、まさに音符だけにもとづいて音階名によって歌ってみました。この比較の結果が私の頭の中でどんなものだったかは言わないでおきましょう。というのは、私があなたに提示する権利があるのは私の論証であって、私の権威ではないからです。私があなたに説明するのは、私が自分の態度を決定するために用いた方法についてだけです。そうすれば、あなたがそれをいいと考えれば、今度はあなたがその方法を使ってみることができるでしょうから。ただ私があなたにご注意申し上げておかなければならないことは、この実験には見た目以上に慎重さが必要とされるということです。なかでも第一の、そしてもっとも難しい留意点は、誠実であるということであり、選択においても判断においても等しく公平でいることです。第二の留意点は、この実験を試みるには、両方の様式に等しく精通していることがどうしても必要だということです。もしそうでなかったら、より親しんでいる方の様式が絶えず頭に浮かび、他方の様式に不利に働くからです。そしてこの第二の条件は第一の条件と同様に簡単なものではありません。というのはどちらの音楽もよく知っている人々の中にはバランスのとれた選択をする人は一人もいないからです。そしてイタリア音楽の攻撃に首を突っ込んだ人たちの滑稽ななぐり書きによって、彼らがイタリア音楽や音楽一般についてどの程度の知識を持っているかが分かったのです。
* このようなやり方をするのは、フランス音楽に完全な特別待遇を与えることになります。というのは、イタリア音楽におけるこれらの暗黙の音符は、紙の上に書かれた音符に劣らず旋律の本質部分だからなのです。大事なのは、何が書かれているかよりも、何が歌われるべきかということなのです。そしてこのような記譜の仕方はたんなる省略の一種にすぎませんが、それに対してフランス語の歌のトリルやポール・ド・ヴォワはいわば趣味によって要請されているのであって、まったく旋律を構成していませんし、旋律の本質部分でもないのです。それは、フランス語の旋律にとって、その醜さを覆うけれども壊すことがないので、感じやすい耳の持ち主にはそれをもっと滑稽にするだけの一種の白粉なのです。
きちんと正確に拍子に合わせて進むことも大事だということを付け加えておかなければならないのですが、ただ私は、このような警告はフランス以外の国では余計なものだから、まったく無駄になるだろうと予想します。そして拍子に合わせて進むということが欠けるだけで、必ずや的確な判断ができなくなるのです。
以上のような注意をすべてやっておけば、まもなくどんなジャンルでもその性格が現れてきますから、そうなればフレーズをそれにふさわしい想念でもって飾ることは簡単なことですし、実際の歌ではフレーズに付けずにいられる歌い回しや装飾音を、少なくとも頭の中では付けないでいることはできないでしょう。またたった一回の実験で満足してもいけません。というのは、あるエールが他のエールよりも人の気に入るものだったからと言って、必ずしもそのジャンルの善し悪しを決定することにはならないからです。納得のいく判断というのは、多くの実験を行った後に、はじめて下せるものです。それに歌詞に対する知識がなかったら、旋律の中の最も重要な部分についての知識がないのと同じことです。それこそが表現なのですから。このような方法で確定できるのは、転調が優れているかどうか、歌が自然らしさと美しさをもっているかどうかということです。これらのことは、先入観というものにたいして十分に用心することがいかに難しいか、趣味の問題を健全に判断することができるようになるには、理性に働きがいかに必要であるかということを、われわれに教えてくれるのです。
私はこれとは別の実験もしてみました。こちらの方は先の実験に比べて慎重さを要求されない実験なのですが、たぶんあなたにはこちらの方が決定的だと思われるでしょう。私は、リュリのもっとも美しいエールを複数のイタリア人に歌わせ、フランスの音楽家にはレオとペルゴレージのアリアを歌わせてみました。そして私は次のことに気がつきました。フランス人の音楽家たちはこれらの楽曲の真の様式をまったくとらえ損なったのですが、それでも曲の旋律を感じて、そこから彼らなりに歌うような、心地よい、律動感に溢れたフレーズを引き出したのです。ところが、イタリア人の方はもっとも情念的なわが国のエールの音を非常に正確に取ることができたのですが、決してフレーズや旋律の区切りを見分けることができなかったのです。これは彼らにとっては何らかの意味をもった音楽ではなく、たんに手当たり次第に、行き当たりばったりに音符を並べたものにすぎなかったのです。彼らは正確に歌いましたが、ちょうどあなたがフランス語の文字で書かれたアラビア語の単語を読むような感じでした*。
*わが国の音楽家たちはこのような相違からは一つの大きな利点を引き出すことができると主張しています。彼らはいつもの誇りに満ちた態度で次のように言っています。「われわれはイタリア音楽を演奏しているが、イタリア人にはわが国の音楽を演奏できない。したがって、わが国の音楽は彼らの音楽よりも優れている。」 彼らは本当ならまったく正反対の結論を引き出して、「したがって、イタリア人は旋律をもっており、われわれはもっていない」と言わなければならないということが分かっていないのです。
第三の実験。私はヴェネチアで、才人なのですが、それまで音楽を一度も聴いたことがないという一人のアルメニア人に出会いました。彼は、一回の音楽会で、
聖なる殿堂、安らかなすみか
という詩句で始まるフランス語のモノローグと
  そなたは望みもなく窶れ
という詩句で始まるガルッピのアリアの演奏に立ち会ったのです。
lどちらも、フランス音楽だけに慣れ親しみ、当時はとくにラモー氏の音楽に大変熱狂していた一人の男によって歌われたのですが、フランス語のモノローグの方は平凡な歌いかたで、イタリア語のアリアの方は下手でした。私は、このアルメニア人の中に、フランス語の歌を聴いているあいだは喜びよりも驚きの方が多いのに気づきました。ところが、だれもが見て取ったことですが、イタリア語のアリアの最初の数小節目から、彼の顔つきと目が穏やかになったのです。彼はうっとりとして、魂をその曲の印象にゆだねていました。彼はイタリア語がほとんど分からなかったにもかかわらず、音だけでだれにも分かるくらいの恍惚状態を引き起こしていたのです。この瞬間から、もはや彼にフランス語のエールを聴かせることはできなくなりました。
しかし他のところに実例を探すまでもなく、私たちのまわりには、わが国のオペラしか知らないために、自分には歌に対するセンスがないのだと、善意から思いこんでいたが、イタリア語の幕間劇によってはじめて迷いを覚まされたという人がたくさんいるのではないでしょうか? 彼らが自分は音楽が好きではないと思いこんでいたのは、まさに彼らが真の音楽しか愛していなかったからです。
はっきり申し上げて、これほど多くの事実から、私はわが国には旋律というものがあるのだろうかと疑うようになっておりますし、旋律があると言っても、せいぜい転調のついた単旋律聖歌のようなものにすぎず、それ自体では心地よいものは何もなく、勝手気ままな装飾音の助けを借りて、しかもそういったものを美しいと見なすという取り決めをした人たちだけに気に入られるものではないのかと、思うようになったのです。ですから、わが国の音楽を引き立たせるための技巧をもちあわせていない凡庸な声によって歌われると、このような音楽ほとんど私たち自身の耳にさえも耐え難いのです。フランス音楽を歌うにはフェル嬢やジェリオットのような歌手が必要です。ところがイタリア音楽にはどんな声でもうまく行くのです。というのはイタリア語の歌の美しさは音楽そのものの中にあるからですが、それに対してフランス語の歌の美しさは、もしそんなものがあるとして、歌手の技巧の中にしかないのです*。
*それに、一般的に言ってイタリアの歌手の方がフランスの歌手よりも声量が少ないと考えるのは間違いです。イタリアの巨大な劇場で、イタリア音楽が求めるままに、たえず声音を整えながら、聴かせることができるためには、反対にイタリアの歌手の方が強くて、階調のある音色をもっていなければならないのです。フランスの歌が要求するのは、肺の努力、声の音域だけです。もっと強く、音をふくらませなさい、口を開きなさい、声をすべて出しなさい、とフランスの先生は言います。イタリアの先生は、もっと優しく、決して無理をしないで、遠慮なく歌いなさい、音を柔らかで、しなやかで、よどみなく流れるように出しなさい、驚きを与え、胸をかきむしらせねばならないような稀でつかの間の時のために輝かしい音は取っておくのです、とと言います。ところで、聴いてもらう必要があるのですから、フランス語の歌は、叫ばなくてもすむような声をもっと持つべきだと私には思えるのですが。
イタリアの旋律に非の打ち所がないのは、三つのことが協力しているからだと思われます。第一のものは、言語の甘美さですが、これのおかげでどんな抑揚でも容易になるので、より洗練された抑揚を選択したり、さらに組み合わせを多様にしたり、歌手ごとに特別な節回しを与えて、どんな人にもその人固有の仕草とか声の調子があって、他の人から区別できるのと同様のことをするといった自由な選択が、音楽家の趣味任されることになるのです.
第二のものは、転調の大胆さです。これはわが国の音楽に比べると規則どおりに準備されないことが多いのですが、より明確な転調をすることで心地よいものになっていますし、歌に堅さを与えないで、表現に生き生きとした力強さを加えています。この大胆な転調によってこそ、音楽家は、ある調や旋法から別の調や旋法に突然移ったり、必要とあらば、中間の些末な推移部を省略することによって、激しい情熱の言語であるためらい、中断、寸断話法を表現させるのですが、これこそ輝かしいメタスタージオが非常によく用いたものですし、ポルポラ、ガルッピ、コッキ、ペレス、テラデリアスといった人たちがうまく表現することを知っていたのにたいして、わが国のオペラ詩人たちは音楽家同様ほとんど知らないものなのです。
第三の、そして旋律にその最大の効果を与えている利点は、もっとも遅いテンポやもっとも速いテンポでさえも感じられるこの上ない拍子の正確さです。この正確さこそが、歌を生き生きと面白いものにし、伴奏を活発で律動感のあるものにしているのですし、同じ音の組み合わせから、それに拍子を付けて歌う歌い方の違いの数と同じだけの旋律を作り出すことによって、歌の数を実際に増やしているものですし、心情にはすべての感情を、精神にはすべての情景を与え、音楽家には、私たちが考えもつかないようなものも含めて*、想像しうるどんな歌詞の性格でもエールの中に盛り込む手段を与えてくれるものですし、すべての性格を表現するのにふさわしいすべてのテンポ**でも、あるいは作曲家の好み次第で性格を目立たせたり、変更したりするのにふさわしいたった一つのテンポでも表現するものなのです。
*パリで唯一知られている喜劇のジャンルからでないでおくとすれば、次のようなアリアを参照願いたい。「契約解除の折りにゃ」、「私なり蜂の巣が」、「あれかこれかにあんたはきめなくちゃ」、「びっくりさせるのが趣味なのよ」、「おこりんぼさん、あたしのおこりんぼさん」、「あたしは小娘」、「先生や博士がいくらいたって」、「お巡りさんたちはもうそれを待っている」、「だから、遺書は」、「ここにいたいなら、私のいうことを聴いてね、ああ、なんとうれいしこと、ああ、なんと楽しいこと!」、こうした性格のアリアはすべてフランス音楽がそのイロハもわきまえておらず、その単語一つでさえも表現する力のないものなのです。
**私はその例をたった一つだけですが、非常の目立つ例を挙げるだけにしておきます。それは『偽の侍女』のアリア「でも不幸な男の」で、非常の速いテンポによる非常の情念のこもったアリアですが、このアリアに欠けているのは、それを歌うための声、それを伴奏するためのオーケストラ、それを聴くための耳、省略すべきではない第二部だけだったのです。
以上が、イタリア語の歌の魅力と力強さのみなもとだと私には思われます。これらに、イタリア語の旋律の利点についての非常に強力な証拠を新たに付け加えることも可能ですが、それは、高音部がもつべき本当の歌を通奏低音にさえも与えることになる和声の頻繁な転回をイタリア語の旋律はがわが国の旋律ほど要求しないという点なのです。フランスの旋律にもこれほど大きな美を見いだされる人たちは、以上の諸点のうちのどれからその美を得ているのか、またはそれに変わる利点があるならそれを私たちに示してくださらなければならないでしょう。
イタリア語の旋律を知り始めると、最初はそこに魅力しか見えず、イタリア語の旋律は快適な感情を表現することにしか合っていないと誰しも思うものです。しかし、ほんの少しでもその情念のこもった悲劇的な性格を調べてみると、作曲家たちの技が大規模な音楽作品においてイタリア語の旋律に与えている力強さにやがては驚かされます。イタリア語の神々しい歌は、まさにあの凝った転調や、あの単純で純粋な和声や、あの生き生きとして輝かしい伴奏の助けを借りて、聴くものの魂を引き裂いたりうっとりさせたりしますし、我を忘れさせ、忘我の状態で思わず叫び声をあげさせるのですが、わが国の安穏なオペラはこんな叫び声は決して頂戴したことがありません。
音楽家はどのようにしてこうした大きな効果を生み出すにいたるのでしょうか? テンポに対比をつけたり、和音や音符や声部の数を増やすことによってでしょうか? 旋律線に旋律線を、楽器に楽器を積み重ねることによってでしょうか? このような大音響は、天賦の才に欠けた悪しき代替物にすぎず、歌に生命を与えるどころか押し殺してしまい、注意を分散することで関心を損なってしまうでしょう。どれもよく歌ういくつかの声部が一緒になってたとえどんな和声を作り出すことができようと、これらの美しい歌の効果は、それらが同時に聴かれるとまもなく消失してしまい、一連の和音の効果しか残らないことになりますし、そんなものは、たとえどう言ってみたところで、旋律によって生命力を与えられない限り、冷たいままなのです。その結果、歌を不自然に積み重ねれば重ねるほど、音楽は不快で、歌わないものになります。というのは、同時に複数の旋律についていくことは耳には不可能ですし、一方の旋律が他方の旋律の効果をうち消してしまうからです。その結果生じるのは、混乱と騒音だけです。ある音楽が人の関心を引くものとなるために、また人の魂に生じさせたいと思っている感情をもたらすために必要なことは、すべての声部が主題の表現を強めるように協力すること、和声は主題をもっと力強いものにすることだけを仕事とすること、伴奏は、主題を覆ったり変形することなく、それを美しくすること、低音は終始一貫した単純な動きによって、歌っている者と聴いている者をいわば導き、どちらからもそうとは気づかれないことである。要するに、全体のアンサンブルが同時に耳には一つの旋律だけを、精神には一つの想念だけをもたらすようにすることが必要なのである。
この旋律の統一性は私には、音楽に必要不可欠で、悲劇における筋の統一性におとらず重要な規則だと思われます。というのは、この統一性は同じ原理にもとづいており、同じ目標を目指しているからです。ですから、イタリアの優れた作曲家はみんな、ときには偏愛に陥るくらいの注意を払ってこれに従っていますし、ほんのわずかでも熟考してみれば、彼らの音楽の主な効果を生みだしているのはこの旋律の統一性であることがやがて分かります。イタリア音楽に見られる頻繁なユニゾンによる伴奏、しかも歌の想念を強めることによって、同時に音をもっと柔らかに、もっと甘美に、声にとってもっと楽なものにしているこのような伴奏の原因は、この偉大な規則のなかにこそ求められるべきでしょう。このようなユニゾンは、そのためにわざわざ選ばれ、変更を加えられたある種の性格をもったエールの場合以外には、わが国の音楽ではまったく使われていません。フランス語の激しい情念のエールは、こんなやり方で伴奏されたら、まったく我慢のならないものになるでしょうが、その理由は、わが国では声楽と器楽がそれぞれ異なった性格をもつので、旋律と趣味を台無しにすることなしには、声楽と器楽のどちらにも適った表現法を用いることは不可能だからです。その上、拍子はつねに曖昧で確定せず、とくにテンポの遅いエールでは楽器と声とが決して一致することがなく、十分に協調して進むことがないので、両者で快適な効果を生み出すことがまったくできないでしょう。さらにこのようなユニゾンからもたらされる美というのは、ある場合にはあるパッセージで突然楽器を強く弾かせたり、また別の場合には、声には表現できないけれども、オーケストラが上手に強調してやれば聴衆はうまくだまされて歌手が歌っているように思ってしまうような力強くて目立つ歌い回しを楽器に割り振ることで、旋律にもっと敏感な表現力を与えることなのです。ここからさらに、器楽部分のみごとな歌い回しのすべては、歌の方が展開させたものにほかならないという器楽部分と歌のあの完璧な対応関係が生まれるのです。その結果、伴奏がもつ美しさのすべての源は、いつでも声楽パートの中に探さなければならないということになるのです。このような伴奏は歌と非常にぴったり一体となり、非常に正確に歌詞と結びついているので、しばしば伴奏の方が演奏を決定づけ、役者がしなければならない身ぶりを彼に指示してやっているように見えるのです。そして歌詞だけではうまく役を演じることができないような人でも、音楽がついていれば、音楽がプロンプトの役をしてくれるので、非常にうまく演じるでしょう。
 *今年上演された幕間劇にはそのような例が頻繁に見られますが、なかでも『音楽の先生』のアリア「びっくりさせるのが趣味なのよ」、『高慢な女』のアリア「ご主人が」、『トラコッロ』のアリア「元気よ」、『ジプシー女』のアリア「あんたは思ってもいないのね、ね、あんた」、そして演技が必要とされるほとんどすべてのアリアがそうです。
それに、イタリア式の伴奏はいつも声のユニゾンで演奏されるどころではありません。音楽家が伴奏を声のユニゾンから引き離すかなり頻繁なケースが二つあります。その一つは、和声音上を軽やかに動き回っている声が聴くものの注意を強く自分の方へ惹きつけてしまって、伴奏にはその注意を共有することができない場合で、この場合伴奏はかなり単純なものにされるので、快い和音だけを聞いている耳は注意の妨げになるような歌を伴奏に感じることがないのです。もう一つのケースはそれを理解していただくにはもう少し丁寧な説明が必要です。
『聾唖者に関する手紙』の著者は次のように言っています。「音楽家がその技を習得すれば、伴奏諸声部は、あるいは歌唱声部の表現力を強化するのに協力したり、またあるいは主題が要求しているけれども、歌唱声部には表現できない新しい想念を付け加えるのに協力することになるでしょう。」 この一節は非常に有用な教訓を含んでいるように思われますので、これをどのように理解すべきかについて私の考えていることを以下に述べてみます。
もし歌というものがもともとから若干の付加物、あるいはわが国の古い音楽家たちが言っていたような《ディミニュシオン》を必要とするようなものであるとしましょう。このような付加物は、それ自体では旋律の統一性を壊すことなしに表現力や魅力を強めるものなので、耳は、この付加物が声によって作られれば、たぶん非難するでしょうが、伴奏の中にある付加物は認めますし、それによって甘美な心持ちになるのですが、だからといって歌の方に注意を向けることをやめるわけではありません。ですから、もしそうだとするならば、巧みな音楽家なら、これらの付加物を適切に取り扱い、趣味をもって用いることで、主題を飾ったり、表現力豊かなものにするのですが、主題をばらばらなものにすることはありません。それに伴奏は歌唱声部と厳密に同じというわけではないのですが、両者がたったひとつの歌、たった一つの旋律しか作らないのです。もし歌詞の意味が、歌では表現できないような付属的な想念を含んでいる場合には、音楽家はそのような想念を歌唱声部が休んでいたり、長く引き延ばされた音の上にあるときに、伴奏諸声部に表現させるでしょう。そうすれば、音楽家はその想念を聴き手に提示することができる上に、歌の想念からも聴き手をそらさずにすむのです。もしこのような付随的な想念がバッソ・オスティナートや通奏低音などの伴奏によって表現されることができれば、このような伴奏は、小川のせせらぎや鳥のさえずりのように、本当の意味での歌というよりもむしろ軽やかな音を出すものですから、利点はさらにもっと大きなものになります。というのは、このような場合には作曲家は完全に伴奏を歌から引き離すことができますから、伴奏にはこの付随的想念を表現するという役目だけを与えておきつつ、オーケストラも頻繁に目立たせるようにして、歌を自由に操りますが、器楽部分がつねに歌唱声部に支配されている状態は注意深く維持しておくでしょう。これは、楽器の演奏の巧みさよりも、作曲家の技術にかかっているものですが、旋律が二重になってしまうことを避けるには老練な経験が要求されます。
*『百科全書』の第4巻の《ディミニュシオン》を参照願いたい。
以上が、歌を飾ったり、もっと表現力を持たせるために、主要な主題を美しく見せたり、主要主題に従属した別の主題を付け加えたりすることによって、旋律の統一性の規則が音楽家の好みにたいして許容するすべてです。ところが、一方にはバイオリンが、他方にはフルートやバスーンがあって、そのそれぞれに個別の旋律を、相互にほとんど関係なく歌わせ、そしてこの混沌を音楽と呼ぶということは、聴き手の耳と判断とをともに侮辱することです。
このような声部の数を増やすことに劣らず、私が確立したばかりの規則に反しているもう一つ別のことは、フーガ、模倣、複主題、その他恣意的で、純粋に約束事の美の濫用、あるいは使用ですが、こういったことは困難を克服したという以外の長所はほとんどありませんし、この芸術が誕生した頃に、天才が出現するのを待つあいだに、知識をひけらかすために考え出されたものです。主題が移動するのに合わせて、声部から声部へ聴き手の関心を巧みに導くことで、フーガにおいても旋律の統一性を保持することがまったく不可能だとは、私は申しません。しかし、この仕事は大変労多くて益の少ないものですから、ほとんど誰も成功したことがありませんし、成功してもそれだけの仕事をした苦労の償いにはほとんどならないのです。こういったものはすべて、あれほど称賛されているわが国の合唱曲*のほとんどと同じく、天才のペンを汚すだけの価値もなければ、趣味の人の注意を引くだけの価値もありません。逆行フーガ、二重フーガ、転回フーガ、バッソ・オスティナントなどの耳には耐え難く、理性的にも正当化し得ないものに関しては、それらは明らかに野蛮と悪趣味の残骸であって、それらが残っているのは、わが国のゴシック式教会の正面口と同じで、それらを辛抱強く作った人々の恥をさらすためだけなのです。
*イタリア自身もこの野蛮な偏見から完全に立ち戻ったわけではないのです。彼らはまだ騒々しい音楽をその教会にもっていることにいらだっています。しばしば、それぞれの声部が異なった旋律をもつ四声部合唱のミサ曲やモテットがあります。しかし巨匠たちはこのがらくたの山を笑いものするだけです。テッラデリヤスがたいそう念入りに作った合唱曲を入れた彼の何曲かのモテットのことを私に話して、こんな美しいものを作ったことを恥ずかしがり、若気の至りと恐縮していたのを私は覚えています。「かつては、私も騒々しいものを作っていましたが、今では音楽を作ろうと努力しています」と彼は言っていました。
イタリアが野蛮だった時代があり、他の諸芸術ではルネッサンスが起きて、ヨーロッパにすべてを提供することになった後でさえも、それが遅れた音楽では、今日ではイタリアで輝いている趣味の純粋さが容易には自分のものにならなかったのです。そして長い間フランスとイタリアには同じ音楽しかなく**、両国の音楽家たちは互いに親しく交流していたけれども、劣等感と切り離せないあの嫉妬心の芽が我が国の音楽家たちの中にあることがすでに分かっていたかもしれないということに注目するならば、当時のイタリア音楽がどんなものであったかということについて、これ以上悪いイメージを与えることはできないでしょう。リュリさえもコレッリの到着におびえ、急いで彼をフランスから追放させようとしました。これは、コレッリの方が偉大で、その結果人に取り入ろうとするところが少ない人であっただけに、いっそう容易だったのです。音楽がやっと誕生したばかりのこの時代には、イタリアでは音楽はまだ和声学というあの滑稽で大げさな言葉やあの衒学的な学説をもっていましたが、こういったものはわが国ではいまだに大事にされていますし、今日ではこの学説を参照すれば、体系的で、きちんとした形をもっているが、才能も、創意も、趣味もない例の音楽を見分けられるのです。この手の音楽はパリでは特別に「書き音楽」と呼ばれ、実際、せいぜい書き記すには立派だが、とても演奏には向かないものなのです。
**デュボス師は音楽の革新についてオランダをたたえようと苦労していますが、もし連続して和音を埋め尽くすことに音楽という名称を与えるのだったら、それは認められるでしょう。しかし、和声というものが共通の低音でしかなく、旋律だけが性格を作るのだとすれば、近代音楽はイタリアで生まれただけでなく、今日の生きた諸言語の中で、イタリア音楽だけが現実に存在しうる唯一の音楽であるのです。オルランドやグディメルの時代には和声と諸音が作られていましたが、リュリはそれに若干のカダンスを付け加えたのです。コレッリ、ブオノンチーニ、ヴィンチそしてペルゴレージが音楽というものを作った最初の人たちなのです。
イタリア人が和声をより純粋でより単純なものにして、彼らの関心のすべてを旋律の完成に向けるようになってからも、フーガやゴチック風の楽想とか、ときには二重旋律や三重旋律の痕跡がわずかではありますが、まだ残っていることを私は否定いたしません。これについては、私たちが知っている幕間劇の中からいくつかの例を挙げることもできますし、なかでも『高慢な女』の最後にあるできの悪い四重唱がそうです。しかしこれらのものは既存の性格から生じたものですし、悲劇にはこれと似たものはまったくありませんし、イタリアオペラをこうした笑劇で判断することは、フランスの演劇を『田園の即興劇』とか『下賤男爵』で判断するのと同様に正当なことではないのですが、そういったことだけではなく、これらの作曲家たちがこれらの幕間劇の中で詩人が仕掛けていた罠をしばしば避け、規則にそむかざるを得ないように思える状況をも逆に規則に有利になるように変えてしまった技巧を認める必要があります。
音楽のすべての部門の中で、旋律の統一性からはずれることなく扱うのがもっとも難しいのは、二重唱です。この問題はしばらく足を止めてみる価値があります。『オンファルに関する手紙』の作者は二重唱が自然からはずれたものだとすでに指摘しています。というのは、二人の人物が、たとえ同じことを言うためであれ、あるいは言い争うためであれ、相手のことを聞きもせず、相手に返事もしないで、相当な時間ずっと同時に喋っているのを見ること以上に不自然なことはないからです。そしてこのような仮定がある種の場合には認められることができるとしても、悲劇においては決して認められないであろうことは確かです。なぜなら悲劇では、このような不作法は登場させている人物の尊厳にも、これらの人物に想定される教育にもふさわしくないからです。ところで、このようなちぐはぐさを救う最良の手段は、できるだけ二重唱を対話の形で扱うことですが、この第一の配慮は詩人に関わるものです。音楽家に関わるものは、主題にふさわしく、うまく配列された歌を見いだすことです。そうすれば、対話者のそれぞれが交互に喋りながらも、対話の全体が一つの旋律しか形成しないので、主題は変わらないし、あるいは少なくともテンポは変らないで、旋律は対話の進行の中で一方の声部からもう一方の声部に移りながらも、絶えず一つのままで、決してまたがったりすることはないのです。二つの声部が結合されるというようなことは滅多にあってはなりませんし、長く続くべきでもありませんが、そういうことが行われた場合には、三度または六度による進行が可能な歌を作る必要があります。そのような歌でなら、第二の声部は第一の声部の歌も聴かせつつ、その効果を作り出すことになります。錯乱と忘我の瞬間、すなわち我を忘れたように見える俳優が感じやすい聴衆の魂にその錯乱を持ち込み、簡素に作られた和声の力を感じさせる瞬間のために、不協和音の堅さ、突き刺すような強い音、オーケストラのフェルティッシモを残しておく必要があります。しかしこうした瞬間は稀であり、巧みに導かれなければなりません。耳と心がこうした激しい揺さぶりに応じるためには、甘美で愛情のこもった音楽でもって、そのどちらもが感動するようにあらかじめ準備ができていなければなりませんし、そのような揺さぶりは私たちの弱さに合わせて急速に過ぎ去る必要があります。というのは、心の動揺というものは、強すぎると長続きできないものですし、なんでも自然を超えてしまえばもはや感動を与えることはありません。
私は二重唱がどうあるべきかを述べることで、まさにイタリアオペラにおける二重唱の姿を述べたのです。もしだれかがイタリアの劇場で、真のオーケストラの伴奏のもとに二人の優れた俳優が歌う悲劇的な二重唱を何の感動もなしに聴くことができたら、またマンダーネとアルバーチェの別れの場面を見て涙を流さずにいられたら、私はそういう人こそリビーとエパファスの別れの場面で涙を流すのにふさわしい人だと見なします。
パリでは誰もイメージできないような音楽の種類である悲劇的な二重唱に固執しなければ、パリで誰もが知っている喜劇的な二重唱なら私にも挙げることができますし、わたしはこれを歌、旋律の統一性、対話、趣味のモデルとしてすぐにでも挙げましょう。私の考えでは、これがうまく演奏されるなら、それを聴くことができる聴衆の他は何も足りないものはないでしょう。それは『奥様女中』の第一幕の二重唱「あの目配せで彼のことを理解した」です。はっきり申しますが、その美を感じることができるフランスの音楽家はほとんどいません。キケロがホメロスについて、彼の著作を読むのが楽しいということは、それだけですでにこの技芸において大変な進歩だと言ったように、私もペルゴレージについて自らすすんで同じことを申しましょう。
この問題が新しく、かつその主題が重要であるために、この問題が長くなったことをお許し下ることと思います。旋律の統一性くらいに本質的な規則については、若干でも私の考えを披瀝すべきだと考えたからです。この規則は、私の知る限り今日までいかなる理論家も論じたことがありませんし、イタリアの作曲家たちだけが感得し、実践をしてきたのですが、たぶん彼らはその存在に気づいていなかったでしょう。そして歌の甘美さ、表現力の力強さ、そして優れた音楽のもつほとんどすべての魅力は、この規則にかかっているのです。この主題から離れる前に、私は和声を犠牲にして、旋律に利点のすべてを認めてきたように見えるかもしれませんが、この規則から和声そのものに対する新たな利点が生じてくるということを、あなたに証明しなければなりませんし、歌の表現力というものは作曲家に和音を大事にさせることで、和音の表現力も生み出すものなのだということを証明することが残っているのです。
今年ここで上演された幕間劇の中でときどき、イタリアの興行主の息子で、せいぜい10才の子がオペラ座で伴奏するのを来たことがあるのを覚えていらっしゃるでしょうか? その小さな指によるクラヴサンの伴奏が生み出す効果に、私たちは初日からびっくりさせられたものでした。そして全聴衆は彼の正確で輝かしい演奏を聴いて、この子は凡庸な伴奏者ではないということに気づいたのです。私はすぐにこの違いの理由を考えてみました。というのはノブレ氏が優れた和声家で、非常に正確な伴奏をすることを疑ってもいなかったからです。しかし、この小さなこの指を観察して、彼がほとんど一度も全部の和音を鳴らしていないこと、たくさんの音を省略し、非常にしばしば二本の指しか使っておらず、しかもその一本はほとんどつねに低音のオクターヴ音を鳴らしていることが分かったときの私の驚きと言ったら、想像つきますでしょうか? 何だって!と私は心の中で思いました。完全な和声の方が穴だらけの和声よりも効果が弱いし、わが国の伴奏家たちはすべての和音をもれなく鳴らすことで、混乱した騒音しか作り出していないのにたいして、この子はもっと少ない音でより多くの和声を作り出しているし、あるいは少なくとも伴奏をもっとはっきりとして快適なものにしているとは! これは私にとって不安な問題となりました。そして私がこの問題の重要性をもっとよく理解するようになったのは、他のことも調べた後で、イタリア人はみんなこの小さなバンビーニと同じ伴奏の仕方をすること、その結果、彼らが伴奏でこんな風に音を省略するのは彼らが総譜で好んで行う省略と同じ原理に結びついているに違いないということが分かってからなのです。
低音は和声全体の土台なので、他の部分をつねに支配していなければならないこと、他の声部が低音を抑えつけたり、覆いつくすことがあると、結果として和声をもっとわけの分からないものにするような混乱が生じることは、私にはよく分かっていました。ですから、イタリア人が伴奏においてはあれほど右手で音をあまり出さないのに、左手では低音のオクターヴ音を重ねるのが普通である理由や、彼らがオーケストラにあれほど多くのコントラバスを置く理由や、そしてフランス人は決してこんなことはしないのですが、彼らがビオラ*に低音とは別の声部を与えないで、非常にしばしば低音と同じ動きをさせる理由も私には分かっていました。しかし、これでは和音の明確さは説明できても、その力強さの説明にはなっていませんでしたが、まもなく私は、イタリアの和声の単純さに認められる表現力には、もっと隠された、もっと繊細な原理が何かあるに違いないということが分かったのですが、その一方で、それにしてはわが国の和声は非常に複雑で、冷たく、活気がないように思えました。
*オペラ座のオーケストラでは、イタリア音楽の場合にはビオラはその声部が低音のオクターヴにあるときにはほとんどその声部を弾かないことが分かるだろう。たぶんこのような場合には、それを写譜することさえしていないのだろう。オーケストラを指揮する人たちは低音と高音のこの連結部が欠けていると和声が無味乾燥になってしまうということを知らないのだろうか?
   私はそのときラモー氏のどれかの著作の中で、どの協和音にもそれ固有の性格、すなわち魂の固有の動かし方があるということ、三度の効果は五度の効果と同じではないし、四度の効果も六度のそれと同じではないということを読んだことを思い出しました。同様に、短三度と短六度は長三度と長六度が生み出す感情とは別の感情を生じさせるはずなのです。そしてこれらの事実がいったん認められるならば、当然ながら、不協和音やすべての音程もまた同じことになるでしょう。これは、比率が異なれば、そのたびに、印象も同じではあり得ないのですから、理性によって確認される経験なのです。
ところで、と私はそのような仮定にしたがって推論しながら心の中で思いました。二つの協和音は、たとえそれが和声の規則に従っていても、互いに不適切に加えられると、和声を増やすことになっても、その効果を互いに弱め、押しつぶしたり分散してしまうことになるということが、私にははっきりと分かる。もし私の必要とする表現のために五度の効果が必要だとしても、私は第三音でこの表現を弱める危険がある。というのは、この音はこの五度を二つの異なった音程に分割することで、五度の効果を二つの三度の効果によって必然的に変えてしまうことになるからだ。それにこれらの三度もそれ自体では、全体としては非常に優れた和声を作るけれども、種類が異なっているので、互いにそれぞれの印象を台無しにする可能性がある。同様に、もし私に五度と二つの三度が同時に作り出す印象が必要だったとしたら、この和音を形成している三つの音のうちの一つを削除すれば、この印象を弱めたり、不適切に変質させてしまうことになる。以上の推論は、不協和音に応用すれば、もっとはっきりとするでしょう。三全音の堅さ、あるいは減五度の平板さが私に必要だと仮定しましょう。この対照は、ついでに言えば、いかに和音のさまざまな転回が和音の効果を変えてしまうかを証明しれくれます。このような状況で、もし私が、不協和音を形成している二つの音だけを耳にもたらすようにしないで、それにふさわしいすべての音でこの和音を埋め尽くそうとしたら、この場合で言えば、三全音に二度と六度を追加し、減五度に六度と三度を追加することになり、つまりこれらの和音のそれぞれに新たに不協和音を導入することで、同時に三つの協和音をもちこむことになり、それらが必然的にこの和音の効果を和らげたり、弱めたりすることになる、つまりこれらの和音の一つは平板さが少なく、もう一方は堅さが少なくなるでしょう。したがって、和声が細心の注意を払って満たされている音楽、すべての和音が完全に揃っている伴奏、こういったものはすべて大変騒々しいけれども、表現力はほんのわずかしか持っていないというのが、自然にもとづいた確かな原理なのです。そしてこれこそがフランス音楽の性格そのものなのです。和音や諸声部を取り扱う場合に、選択が難しく、つねに適切な選択を行うにはたいへんな経験と鑑識眼が必要とされるというのは、確かにその通りなのですが、このような場合に、作曲家がうまく振る舞うための助けとなるような規則がもしあるとすれば、それこそ私が確立しようと努力してきた旋律の統一性という規則なのです。イタリア音楽の性格に関係していて、それを支配している歌の甘美さと表現力の強さを説明してくれるものこそこれなのです。
以上のことから言えることは、音楽家は和声の基本的な原理を勉強したからといって、何の考えもなしに焦って和声を浪費するべきではないし、和音を埋めることができるから、自分はもう作曲ができるんだなどと思わないようにすべきだということです。そうではなくて、作品に着手する前に、協和音や不協和音などのすべての和音が感じやすい耳に生み出すさまざまな印象の研究というさらにずっと時間のかかる困難な研究に専念し、作曲家の偉大な技術というのは、使うべき音を識別することに劣らず、必要な場合には削除すべき音を見極めることができるかどうかにかかっているということを自分自身に言い聞かせなければならないのです。たとえ自然が作曲家にその必要性を感じるに十分な天賦の才と鑑識眼を与えていても、イタリアの傑作を絶えず研究したり繙いたりすることによってしか、彼はこの洗練された選択の仕方を身につけることはないでしょう。というのは、この技術の困難さはそれを克服するために作られた人にしか分からないからですし、こういう人は総譜のなかにどれだけ何も書かれていない五線譜があるかを数え上ることに気を取られることなどなく、生徒だったらそれを埋めることなど簡単だと思うような箇所に、人を惑わすような単純さにひっかかりを感じて、その理由を探求し、このような単純さは見かけはいい加減に見えても、そこには驚嘆すべきものが隠されており、「技術は手の内を見せることなく、すべてをなす」だけに、それだけ賛嘆すべきものだということを見いだすでしょう。
以上が、私の思うところでは、イタリア音楽の和声が生み出す驚くべき効果の原因ですが、そのような効果をほとんど持たないわが国の和声よりずっと音が少ないのに、こうなのです。このことは決して和声は音でいっぱいにしてはならないという意味ではなく、選択眼と鑑識眼をもってそうすべきだということを意味しているのです。さらにこれは、その選択のために音楽家は以上のような推論をすべてしなければならないということを意味しているのではなく、その結果を感じなければならないということなのです。作曲家は効果的なものを見いだすための天賦の才と鑑識力をもっていなければなりませんが、その原因を探求し、なぜそれが効果的なものであるのかを説明するのは理論家の役目です。
もしわが国の近代の作品に目を向けるなら、そしてそれらに耳を傾けてみるなら、わが国の音楽家たちは以上のようなことをすべてまったく間違って理解しているので、同じ目的に達しようと努めながら、彼らは正反対の道をまっしぐらにたどってきたということがまもなく分かるでしょう。そして私の考えをありのままにあなたに申し上げることが許されるなら、わが国の音楽は表面上は完成しているように見えれば見えるほど、実際には堕落していると私には思えるのです。知らず知らずのうちに私たちの耳が習慣の偏見を投げ捨て、乳母たちが子守歌がわりに歌ってきた曲とは別の曲を味わうことに慣れるようにするためには、私たちの音楽が現に今ある状態にまで達することが必要だったのです。しかし、わが国の音楽が受け入れることができる程度のまったく凡庸なレベルにまでもって行くには、おそかれはやかれ、リュリが作った音楽のレベルにまで、下りるというか、上がるというか、とにかくそのようなレベルにまでもっていくことから始める必要があるだろうと、私は予想しているのです。次のことは認めましょう。この有名な音楽家の和声は今よりも純粋で、転回形の少ないものでしたし、彼の低音はもっと自然で、きびきびと動いていましたし、彼の歌はもっと理解しやすく、音のもっと少ない彼の伴奏は主題からもっと自然に生まれ、あまり主題からそれることがありませんでしたし、彼のレシタティフは凝ったところがずっと少なく、その結果今日のレシタティフよりもずっと優れたものだったのです。以上のことは演奏の様式感によって確かめられることです。というのは当時の古いレシタティフは今日私たちがやっているのとはまったく異なった仕方で俳優たちによって表現されていたからです。
*このことは、リュリのオペラをかつて見たことのあるすべての人たちの一致した報告から、当時よりも今日の方がリュリのオペラの上演時間がずっと長くなっているから証明されることです。ですから、彼のオペラが再演されるたびに、相当の削除を行わざるを得なくなっています。
エールとレシタティフが問題になっているのですから、この問題の解決にとって有用な解明となるような考察でもって私がこの手紙を終わることをお望みでしょう。
オペラの構成についてわが国の音楽家たちがどんな考えをもっているかということは、彼らの述語の奇妙さから判断がつきます。魂を奪うイタリア音楽の大がかりな曲、涙を流させ、もっとも心を打つ絵図を見せ、もっとも生き生きとした状況を描き、表現されている情念のすべてを魂にもたらすあの天才の傑作、それらがフランスではアリエットと呼ばれているのです。彼らはオペラの舞台に挿入するあの味気もない小唄にエールという名称を与え、だらだらして退屈な悲嘆の歌に特別にモノローグという名称を取っておくのですが、この歌を聴いてだれもうとうとと居眠りしないのは、歌手の音程がはずれているし、叫ぶように歌うからです。
イタリアオペラでは、すべてのアリアは場面に組み込まれ、場面の一部となっています。あるときには、不正から死なせてしまった息子の亡霊が現れ、自分の残酷さをなじるのを見たと思いこんでいる父親の絶望であったり、またあるときには、厳しさの手本を示さざるを得なくなり、自分から支配権を奪い取るか、もっと鈍感な心を与えてくれるように神々に求めているお人好しの君主だったりするのです。死んだと思っていた息子に再会して涙を流す優しい母親がいたり、愛の言葉は、あの味気なく子供じみたわけの分からぬ炎だとか鎖といった言葉で詰まっているのではなく、悲劇的で、生き生きとして、燃えたぎるようで、とぎれとぎれで、激しい熱情にふさわしいものなのです。このような歌詞の上でこそ、力強さと表現力に満ちた音楽の豊かさをすべて展開し、そして和声と歌の力によって詩の力強さをもっと強めるのにふさわしいことなのです。反対に、つねに主題から引き離された内容をもつわが国のアリエットの歌詞は、惨めでうるさいでたらめにすぎず、理解できない方がいいというようなものなのです。それはフランス語が提供できるごくわずかの響きのいい単語を適当に集めたものにすぎず、それらをあらゆるやり方でひねくり回したものですが、それらに意味を与えるような方法だけは使われていないのです。こういうわけの分からない言葉の上で、わが国の音楽家たちは趣味を知識を使い果たし、俳優たちは身振りと肺を使い果たすのです。こんな常軌を逸した曲にわが国のご婦人方はうっとりして気絶してしまうのですが、フランス音楽がなにも描くことができなければ、なにも語りかけることができないということのもっともはっきりした証拠は、フランス音楽が、ただでさえごくわずかな美しかもっていないのに、なにも意味していない歌詞の上でしかその美をくりひろげられないということなのです。ところが、フランス人が音楽について論じているのを聞くと、彼らのオペラでは音楽が優れた絵図や偉大な情念を描いているけれども、イタリアオペラでは、アリエットという名称そのものも、それが表す滑稽なものも、ともに知られていないのに、イタリアオペラにはアリエットしかないのかと思ってしまうでしょう。こうした偏見のひどさに驚いてはいけません。イタリア音楽は、私たちの間でさえ、なにも知らない人々以外には敵をもっていないのです。原因が分かっていながら、イタリア音楽を批判しようとする目的だけでそれを勉強しようと試みたフランス人はすべて、まもなくイタリア音楽のもっとも熱烈な讃美者になったのです*。
*フランス音楽を一番軽蔑する人々はまさにそれをもっともよく知っている人たちだという事実は、フランス音楽にとって不利な偏見です。というのは、フランス音楽は演奏しても滑稽ですし、それと同じくらい、聞いても我慢できないからです。
パリで現代趣味の勝利を引き起こしたアリエットの後には,わが国の古いオペラでは絶賛を受けている有名なモノローグが来ます.これについては,わが国のもっとも美しいエールはつねにモノローグの中に組み込まれており,けっして場面の中ではないということに注意する必要があります.その結果,わが国の俳優たちは無言で何か演技をするということはしませんし,音楽の方はいかなる身振りも指示せず,いかなる状況も描き出さないので,沈黙している俳優は別の俳優が歌っているあいだ何をしたらいいのか分からないのです.
フランス語の引きずるような性格,私たちの声の柔軟性のなさ,そしてわが国のオペラをたえず覆っている惨めな調子のために,フランス語のモノローグはほとんどどれもゆっくりしたテンポに作られていますし,拍子が歌にも低音にも伴奏にも感じられないので,誰もがあくびをしながら聴いているあの美しいモノローグ以上に,引きずるようで,だらけた,活気のないものはありません.フランス語のモノローグはもの悲しいものになろうと欲しながら,その実,退屈なものでしかないのです.それらは心を感動させたいと欲しながら,その実,耳を苦しめているだけなのです.
   イタリア人は彼らのアダージョではもっと巧妙です.というのは,拍子の感覚を弱めてしまうのが心配なくらいに歌のテンポが遅い場合には,彼らは低音を均等な音符で進ませるので,それがテンポを刻むことになりますし,伴奏ももっと短い音符によってテンポを刻みますから,その結果声と耳に拍子が保たれ,その正確さによって歌はより快適で,とりわけより力強くなるほかないのです.しかしフランス語の歌の本性が,わが国の作曲家にはこのようなやり方を禁じているのです.というのは,俳優は拍子どおりに進むことを強制されると,もう彼は声も演技も思い切ってやることができませんし,歌を引き延ばすことも,声を膨らましたり,引き延ばすことも,声量一杯に叫ぶこともできず,その結果この俳優はもはや拍手されることはないでしょう.
しかし,イタリアの悲歌劇が単調さや退屈さに陥らないようにしているもっと有効なものはと言えば,作曲家の好きな拍子とテンポでどんな感情でも表現できるし,どんな性格でも描き出せるという利点です.わが国の旋律はそれ自体ではなにも意味していないので,その表現力のすべてをテンポから引き出しているのです.テンポを遅くすれば,旋律はもの悲しいものになり,速くすれば怒り狂っているか,陽気なものになり,控えめにすれば荘重なものになります.そこでは歌は何の役目も果たしておらず,拍子だけが,あるいはもっと適切に言うなら,速さの程度だけが性格を決定しているのです.ところが,イタリアの旋律はいかなるテンポにあってもどんな性格の表現ももつことができますし,どんな対象だって描けるのです.イタリアの旋律は,音楽家のお好み次第で,速いテンポでももの悲しくなり,遅いテンポでも陽気になりますし,すでに申し上げたように,同じテンポにありながら,作曲家の意のままに,性格を変えるのです.このおかげでイタリアの旋律には容易に対照を作り出すことができので,この点で詩人に従属することもなければ,詩人を旋律と詩のちぐはぐさに晒すこともないのです.
   以上が,イタリアの偉大な巨匠たちが,自然から遊離することなく,彼らのオペラの中で繰り広げることができる驚嘆すべき多様性の源なのです.この多様性があればこそ単調さ,活気のなさ,退屈が妨げられているのですが,フランスの音楽家には真似のできないものなのです.というのは,フランスの音楽家のテンポは歌詞の意味によって与えられるからですし,滑稽な意味のちぐはぐに陥りたくなければ,それにしがみつかざるを得ないからです.
レシタティフについての話がまだ残っているのですが,これについて正しく判断するためには,レシタティフとは何かを一度正確に知っておく必要があるだろうと思われます.というのは,今までレシタティフについて論争したすべての人の中でレシタティフを定義しようと考えた人がいるとは思えないからです.あなたがこの語についてどんなイメージを持っておられるのか私には分かりませんが,私に関して言えば,私は階調に富んだ朗唱,すなわち和声的な音程で作られた抑揚をもつ朗唱をレシタティフと呼びます.そこから,どの言語にもそれ固有の朗唱があるので,どの言語もそれ独自のレシタティフをもっているということになるわけです.だからといってそれは,ある言語のレシタティフと別の言語のレシタティフを比較して,どちらが優れているかとか,どちらがその対象にもっともよく関係づけられているかを知ろうとすることの妨げになるものではありません.
レシタティフが音楽劇において必要であるのは,1.筋の進行をつなぎ,芝居を一貫したものにするためです.2.エールが連続すればとても我慢できないものになるので,エールを目立たせるためです.3.歌うような,そしてリズム感のある音楽によっては表現できないし,または表現すべきでないような多数のことを表現するためです.たんなる朗唱は音楽劇ではこういったことにふさわしいものとはなりえませんでした.なぜなら,言葉から歌への移行,とくに歌から言葉への移行には耳がどうしても受け付けない堅さがあって,滑稽な対立感が生じ,それがあらゆる幻想をぶちこわしにし,その結果聴き手の関心さえも失わせてしまうからです.というのは,全体が少なくとも仮説的な言語と見なされることができるくらいに,説話を一貫したものにすることで,維持すべき一種の真実らしさがオペラにだってあるからです.以上のことに付け加えていただきたいのは,和音を付けてやることで階調に富んだ朗唱の力強さが増し,それが抑揚の中にもっている少なくとも自然なものがいい方向に埋め合わせられるということです.
こうした考え方からすれば,言語には必要な条件というものがあるとしても,どんな言語であれ,もっとも優れたレシタティフというのは,話し言葉にもっとも近いレシタティフだということは明白です.それにふさわしい和声を保持しながらも,耳や精神が勘違いをしてしまうことがあるくらいに話し言葉に近いレシタティフがもし存在するとしたら,それはいかなるレシタティフももちえないような完璧さに達したものであると大胆にも言わねばならないでしょう.
今度は,フランスでレシタティフと呼ばれているものをこの規則にもとづいて検討してみましょう.どうかおっしゃってください.このレシタティフとわが国の朗唱とのあいだにどんな関係が見いだせますか? これほど画一的で,単純で,控えめで,まったく歌わないアクセントをもつフランス語がこのレシタティフの騒々しくて叫ぶような抑揚によってうまく表現されるとか,話し言葉の甘美な抑揚と引き延ばされふくらまされた音,あるいはむしろエールよりもずっとわが国の音楽のこの部門の土台となっているあの限りない叫び声のあいだに,なんからの関係があるなどと,どうしてあなたに想像がつくでしょうか? たとえば,朗読のできる誰かに,名高いイフィジェニーの告白の最初の四行を朗読させてみてください.生き生きとしたところも,情熱的なところも全くなく,朗読をしている女性に声を高めたり低めたりするように誘うところが何もないような落ち着いた朗読の中に,あなたはかろうじてかすかな不均等,わずかな声の抑揚を認められるでしょう.次に,わが国の女優の一人に,これと同じ詩行を音楽家の音譜に載せて朗読させてご覧なさい.そしてあなたにそれができるものなら,この度を超えた叫び声を我慢する努力をしてみてください.なぜなら,この叫び声はたえず低音から高音,高音から低音へと移動し,声域の端から端へ主題もなく駆けめぐり,なにも意味していないし,意味の上ではいかなる休止も形成していない音節上で,美しい音を紡ぎ出すために場違いなところで独唱を中断してしまうのです.
これらに,たえず繰り返されるフルドン,カダンス,ポール・ド・ヴォワを付け加えてみてください.そして歌詞とこうしたうっとうしい飾りもののあいだに,また朗唱とこのような自称レシタティフのあいだにいったいどんな類似が存在しうるのか私に言ってほしいですし,その発明がリュリの功績となっているフランスのあの素晴らしいレシタティフを少なくともどの点でなら道理をもって褒めそやすことが可能なのか私に教えてほしいものです.
フランス音楽の信奉者たちがフランス語の性格を盾に取り,彼らの偶像の欠点を非難する勇気がないものだから,フランス語にそれをなすりつけているのを見るのは,かなり滑稽なものですが,それに対して,フランス語にふさわしい最良のレシタティフはほとんどすべての点で実際に作られているものとは正反対であるに違いないということはまったく明白です.つまり,それはごく小さな音程のあいだを行き来すべきで,声をそんなに高くすることも低くする必要もなく,保持音はわずかで,けっして輝かしいところはないけれども,叫び声もずっと少なく,とくに歌に似たところは何もなく,音の長さあるいは音価にも音度にも不均等さがほとんどないものであるべきです.要するに,フランス語の真のレシタティフは,もしそのようなものがありうるとしても,リュリや彼の後継者たちのレシタティフの正反対の方向でしかないでしょう.そのような新しい道は,間違った知識をあれほど自慢し,その結果本物を感じたり愛したりすることからあれほどかけ離れているフランスの作曲家たちは,しばらくは探求してみようと思いつきもしないだろうし,たぶんけっして見つけることはないでしょう.
ここでは,イタリア語のレシタティフの例を取り上げて,次のことをあなたにお見せすべきでしょう.つまり,このレシタティフの中には実際に私が優れたレシタティフの条件として仮定したものがすべて含まれています.イタリア語のレシタティフは朗唱の敏捷さと和声の力強さを同時に備えることができます.話し言葉と同じくらいに素早く進行し,本当の歌と同じくらいに旋律的であることができます.歌い手の声を無理強いせず,聴き手の耳を聾することがなくても,もっとも激越な情念が説話を活気づけるときの抑揚をすべて示すことができます.また私は次のようなことだってあなたにお見せすることができるでしょう.つまり,レシタティフに固有の基本進行を利用して,どんな風にしてそれ特有の方法でレシタティフの転調の数を増やすことができるかということです.この特有の方法は,旋律の魅力を保持するために転調をもっと控えめにしなければならないエールから,レシタティフの基本進行を区別するのに役立っているのです.さらに,とくに情念にそのあらゆる動きを展開する時間を与えたいような場合に,俳優が朗唱しかできないことを,巧みに作られた器楽部分の助けを借りて,いかにしてオーケストラに情念に満ちた多様な歌によって表現させるかということです.これこそ音楽家の技の傑作であって,音楽家は管弦楽伴奏付きのレシタティフ*のなかで,もっとも感動的な旋律を,朗唱の激越さに結びつけて,なおかつ両者をけっして混同させないでいることができるのです.私はこの称賛すべきレシタティフの美しさをいくらでもあなたに繰り広げてもいいのですが,フランスでは,まるでだれでもレシタティフについて口を挟むことができるかのように,このレシタティフにふさわしい言語についてあまり知りもしないのに,首を突っ込んできて差しはさむ判断がばかげているのと同じように,このレシタティフについて多くのばかげた作り話ができているのです.しかしこういった細かなことに入ろうとすれば,いわば新しい辞書を作って,たえず用語を考案して,フランス人の読者のあいだでは知られていない観念を彼らに提供し,彼らにはちんぷんかんぷんに思えるかもしれないような話をしなければならないことになるでしょう.要するに,彼らに理解されるには,彼らに理解できる言葉,すなわち音楽だけを別とした,あらゆるジャンルの学問と芸術の言葉を使わなければならなくなるでしょう.ですから,この問題では,読者の教育のためには何の役にも立たないような見せかけだけの細部に入ることはありません.そんなことをしたところで,彼らは私がこの部門での彼らの無知を利用して私に証明の力があるかのように見せかけているだけだと思うに違いありませんから.
*私は,自称音楽通たちに彼らがずいぶん以前から考えていることを一度分からせるために,カッファレッリ氏が,コンセール・スピリチュエルで,大規模なレシタティフと情念の激しい歌による曲を私たちに与えてくれるものと期待していたのですが,何もしないことについての彼の理由から,彼が聴衆の力量を私よりもよく知っていることが分かりました.
同じ理由から,私は,この冬,『小予言者』とその敵たちに向けて書かれた著作の中で曲名を挙げて提案されていたイタリアとフランスの二曲の比較についても試みるつもりはありません.このイタリア語の場面はイタリアでは無数にある同等あるいはそれ以上の傑作と混同されて,パリではほとんど知られていないので,この比較についてこれる人はほとんどいません.そして結局のところ,ごく少数の人々だけを相手にすることになってしまうでしょうし,そういう人々は,私の言わねばならないことはすでに分かっている人たちなのです.しかしフランス語の場面に関しては,私はその分析を喜んでみずからスケッチしてみるつもりですが,この楽曲は国民の中で満場一致の賛同を得て認められているので,これを選んだことで偏向しているとか,ほとんど知られていない主題を使うことで自分の判断を読者諸氏の判断に晒さないようにしたなどと非難されることを怖れる必要がいらないだけに,いっそう喜んでできるでしょう.
それに,少なくとも仮定の上では,ジャンルを問題にしないでこの楽曲を検討することはできないので,このことは,理性的な立場から言って,この手紙のなかで私がフランス音楽から奪わざるを得なかった利点をそれに返すことになります.つまり,フランス音楽自身の規則にもとづいてフランス音楽を判断することになります.その結果,もしこの場面が一般に主張されているのと同じように完璧なものであるとすれば,それはよくできたフランス音楽であるという結論以外の結論を出すことはできないでしょうが,しかしそうは言っても,ジャンルの劣悪さが証明されたのだから,これこそまさにできの悪い音楽だということであっても,いいわけです.
そのために私は,手短に,あの名高いアルミッドのモノローグ,「ついに,あの方は私の意のままに」の分析をやってみようと思いますが,このモノローグは朗唱の傑作と見なされて,大家たちが真のフランス語のレシタティフのもっとも完璧なモデルとして挙げているものです.
ラモー氏がもっともなことながら,これを正確で非常につながりいい転調の例として挙げていたことをまず私は指摘しておきます.しかし,いま問題になっている楽曲にこのような称賛を向けることは,本当の風刺になってしまいますし,ラモー氏自身だって同じような場合に似たような称賛を向けられることのないように気を付けていたでしょう.というのは,激昂,愛情,それに相反する情念の対照が女優と観衆をもっとも激しく動揺させている場面で,こんな教条的な几帳面さ以上にできの悪いものが思いつけるものでしょうか? 怒り狂うアルミッドは敵を短剣で刺し殺そうとやってきます.彼女は敵の姿を見て躊躇します.彼女は思わず心を動かされ,短剣が彼女の手から落ちてしまいます.彼女は復讐の計画を完全に忘れてしまいますが,自分の転調のことは一瞬たりとも忘れません.詩人が音楽家に提供した言外の意味,中断,頭の中を駆けめぐる様々な思いは音楽家によってたったの一度も理解されていません.女主人公は初めには喉を掻き切ろうと思っていた人物を,最後には熱愛することになります.音楽家は《ホ》の音で初め,同じ音で終わりますが,主要調に一番類似した和弦から一瞬も離れようとせず,女優の魂の動揺を示すような常軌を逸した抑揚をほんのわずかでもその朗唱の中に入れることがたったの一度もありませんでしたし,和声にそのための表現をほんのわずかでも与えることがありませんでした.そして,アルミッドの心の中に起こった驚くべき変化を観衆が判断することを可能にするようなはっきりとした違いをこの場面の最初と最後とのあいだに,たとえ調であれ,旋律であれ,朗唱であれ,伴奏であれ,そういうものの中に音楽だけで割り振ることがいったいだれにできるでしょうか.
この通奏低音を観察してみてください.なんとたくさんの八分音符でしょう! 和声の連続を追いかけるのになんとたくさんの細かな経過音がいることでしょう! 優れたレシタティフの低音はこんな動きをするものでしょうか? 優れたレシタティフでは,長い音符が間隔をおいて,できるだけまばらに,しかも朗唱者の声と観衆の耳が音程を見失うことがないようにするためだけに聞こえればいいのではないでしょうか?
しかし,実際に詩の傑作と見なされているこのモノローグの美しい詩行がどんな風に表現されているかを見ていきましょう.
「ついに,あの方は私の意のままに」
トリルがありますし,それにもっと悪いことに,意味は第二詩行でしか完結していないのに,最初の詩行からすでに完全終止があります.はっきり申しますが,おそらくこの詩人はこの第二詩行を削除し,女優の魂の中にその意味を読む喜びを観衆に残してやるほうがよかったでしょう.しかし詩人がこの詩行を使ったのですから,それを表現するのは音楽家の役目です.
*イタリア人がこう呼んでいる喉の振動を表現するためにこの語をフランス語化せざるを得ない.というのは,たえずカダンスという語を別の意味で使う必要性の中に置かれているので,たえざる曖昧さを避けることが不可能だからである.
「この宿命の敵,この尊大な征服者よ!」
もしこの音楽家が必要な場合には調を変えるつもりだったら,第二の詩行を第一の詩行とは別の調にしたことについて,私は彼を許すことでしょう.
「まどろみの魔力が私の復讐にこの方をゆだねる」
charmeとsommeilという語はこの音楽家にとっては避けがたい罠となってしまいました.というのは彼はアルミッドの怒りを忘れてしまい,ここでちょっと一眠りしてしまったからです.そしてpercerという語で目を覚ますことになります.もしあなたが,彼が最初の半句で甘美な音を使ったのが偶然のことだとお考えなら,低音を聞いてご覧になりさえすればいいでしょう.リュリは訳もなくこのようなシャープ記号を使うような人ではありませんでした.
「私はこの方の負けたことのない心の臓をえぐろうとしている」
これほど激しい動揺の中で,この最後の終止はなんと滑稽でしょうか!このトリルはなんて冷たく,不適切なものでしょうか!飛ぶように進まなければならないレシタティフの中で,また激しい熱狂のただ中でこのトリルが短音節に置いてあるとは,なんて場違いなことでしょう!
「この方の手で,私の捕虜はみな束縛から逃れた.
私の激しい怒りを感じるがいい.」
ここには詩人が巧妙に言外の意味を伝えようとしていることが分かります.アルミッドは,まさにこれからルノーの胸を突き刺そうとしていると言った後で,自分の心に憐れみ情,あるいはむしろ愛情の動きをはじめて感じているのです.彼女は自分の意志を固めるための理由をいろいろさがしており,このような頭の中を駆けめぐる様々な思いがこの二つの詩行を導くことになったのです.そうでなかったら,この二つの詩行はその前の詩行とうまくつながらないでしょうし,女優も聴衆もよく知っていることをまったく余計に繰り返すことになってしまうでしょう.
では今度は,このようなアルミッドの心の密かな動きを音楽家がどのように表現したかを見てみましょう.この二つの詩行とそれに先行する詩行のあいだに間をおく必要があることは彼にはよく分かっていましたし,実際彼は,アルミッドが多くのことを感じており,それゆえにオーケストラが多くのことを表現してやるべき時に,休止符をおいて,空白にしたのです.この休止符の後で,休止にはいるときとまったく同じ調,同じ和音,同じ音符で再開し,一小節のあいだこの和音のすべての音を順次通り,最後に,これほど不適切にも経巡ってきたばかりの調をやっとのことで離れるのです.
「何という不安が私をとらえるのだろう? 何が私を躊躇させるのだろう?」
別の休止符があり,そしてそれですべてです.この詩行は先の詩行と同じ調で,ほとんど同じ和音です.アルミッドの魂や言葉の中に生じている激しい変化を指示することができるような変化音は一つもありません.主音は確かに,低音の動きによって属音になります.いやはや! あらゆる和声連結が中断されるべき瞬間,すべてが混乱と動揺を描かねばならない瞬間に主音だとか属音だとかが問題になっているのです.それに,低音だけにあるちょっとした変化音は,声の抑揚にいっそうの勢いを与えることができますが,それの代わりになることはできません.この詩行では,アルミッドの心情,眼,顔,身振り,これらすべてが変化するのに,声だけは別で,低くはなりますが,同じ調を守っているのです.
「この方にたいする憐れみの気持ちはいったいどういうことなのだろうか?
さあ,刺そう.」
この詩行は二つの異なった意味に取ることが可能なので,私だったら選んだであろう方の意味をリュリが好まなかったからと言って言いがかりを付ける気はありません.しかしながら,私の選んだ意味のほうが,比較しようのないほど生き生きとして,活気があり,後に続くものをより引き立たせます.アルミッドは,リュリが語らせているように,みずからその原因を自問しつつ,情にほだされ続けているのです.
「この方にたいする憐れみの気持ちはいったいどういうことなのだろうか?」
次に突然彼女は次の一言で自分の激しい怒りに立ち返ります.
「さあ,刺そう.」
私が考えているように,アルミッドはためらった後,急いで無駄な憐れみの情を投げ捨て,短刀を振りかざしながら,勢いよく,一気にこれを発音するのです.
「この方にたいする憐れみの気持ちはいったいどういうことなのだろうか?
さあ,刺そう.」
たぶんリュリ自身がこの詩行をこんなふうに理解したのでしょう.ただ彼は別の表現の仕方をしていますが.というのは,彼の音符は朗唱をほとんど決定づけていないので,好きな意味を与えても何の危険もないくらいだからです.
ああ! 私をやめさせることが,いったい誰にできよう!
やってしまおう...身震いがする! 恨みを晴らすのよ...溜息が出てしまう.
ここが,たしかに場面全体でもっとも激しい瞬間です.アルミッドの心の中でもっともすざまじい戦いがなされているのがここです.それなのに,この音楽家はこのような動揺状態をそれまでと同じ調のままにし,頭の中を駆けめぐる様々な思いをほんの少しも表現せず,ほんのわずかの和声上の逸脱もないままにしておいたなどと,いったい誰が信じれるでしょうか.しかもそのやり方が非常に無味乾燥で,旋律にはまったく特徴がありませんし,まったく考えられないくらい不器用なので,詩人は最後の詩行で,
やってしまおう,身震いがする.恨みを晴らすのよ,溜息が出てしまう.
と言っているのに,音楽家は,次のように言っているようなものです.
   やってしまおう,やってしまおう.恨みを晴らすのよ,恨みを晴らすのよ.
   トリルはこのような歌詞の上ではとくに素晴らしい効果を発揮しますし,溜息が出てしまうという語の上の完全終止とはまったくうまい思いつきです!
今日恨みを晴らすのに,こんなことをしなければならないのだろうか?
この方に近づくと,私の怒りは消えてしまう.
この二つの詩行は,その間にもっと音程の開きがあり,二つ目の詩行が完全終止で終わっていなければ,立派な朗唱になることでしょう.これらの完全終止はいつも表現を殺してしまいます.完全終止が重々しい終わり方をするフランス語のレシタティフではとくにそうです.
この方を見れば見るほど,私の復讐が無駄になってくる.
この詩行の真の朗唱を感じる人ならだれでも,後半の半句は逆の意味になっていると判断されよう.したがって,声は「私の復讐」で上がって,「無駄になってくる」で穏やかに下りてこなければならない.
私の振るえる腕は私の憎しみを認めようとしない.
できの悪い完全終止です! この完全終止にはトリルが付いているだけに,よけいそうです.
ああ! この方から陽の光を奪うなんて,なんとむごいことでしょう!
この詩行をデュメニル嬢に朗唱させてご覧なさい.そうすれば「むごい」という語がもっとも高くなり,声はその後詩行の最後まで徐々に下がることが分かるでしょう.しかし「陽の光」を現させないでおくことなどできるわけがありません! 私はここでこの音楽家がどういう音楽家である寡欲分かるのです.
ありふれた反意語法や絶え間のないトリル以上には関心を引くものの,注目すべきものもないこの場面の残りの部分は省略して先に進み,この場面を締めくくる次の詩行でおしまいにします.
できることなら,この方を私が憎みますように.
「できることなら」というこの挿入句はこの音楽家の才能をはかる十分な試金石だと思えます.この挿入句が「この方を私が憎みますように」と同じ調,同じ音符にある場合には,リュリが雇っていたこの偉人の歌詞に音楽を付ける能力が,彼にいかにないかを感じないわけにはいかないでしょう.
このモノローグの最後にある酒場の小唄に関しては,これについてはなにも言わないでおくことに賛成ですし,もしフランス音楽の支持者の中にフランス音楽との比較対照のために持ち出されたあのイタリア語の場面や,とりわけこの場面の最後にある激烈で,情念の激しい,悲劇的なアリアのことを知っている人がいれば,彼らはおそらく私がなにも言わなかったことで感謝してくれるでしょう.
この名高いモノローグについての私の考えを手短に要約するならば,これを歌と見なすならば,そこには拍子も性格も旋律もないと私は申しましょう.もしこれがレシタティフであることをお望みなら,そこには自然らしさも表現も見あたりません.これにどんな名称を与えたいと思っても,このモノローグは長々と引き延ばされた音,トリル,そしてその他の歌の装飾音で一杯なのです.これらはフランス音楽では通常でも滑稽なのですが,このような状況ではそれ以上に滑稽なのです.転調は規則どおりなのですが,まさにそのために幼稚で,型にはまっていて,力強さもなければ,はっきりとした感情を動かすこともありません.伴奏は,音楽の全ての力が展開されるべき状況でも通奏低音に限られていて,しかもこの低音はむしろレッスンの時に生徒に弾かせるような低音です.生き生きとしたオペラの場面の伴奏なら,朗唱をもっと感じやすくし,表現をもっと生き生きとしたものにするために,和声が繊細な識別力をもって選択され応用されなければなりません.要するに,もし試しに,この場面の音楽を歌詞も付けず,叫ぶことも,身振りを付けることもなしに演奏したら,この場面が描こうとしている状況や表現しようとしている感情に類似したものは何一つ持ち込むことはできないでしょうし,すべてがただただ音を持続させるためだけに偶然に動かされている退屈な音の連続にすぎないものに思えることでしょう.
しかしながら,このモノローグは劇場でいつも大きな効果を上げてきましたし,これは私も疑っていないのですが,現在でもそうなのです.なぜかというと,その詩行が優れており,状況が生き生きとして興味深いものだからです.しかし,もし女優の身振りや演技がなかったら,誰一人このレシタティフに耐えられるものはいないだろうと確信していますし,たしかにこのような音楽には眼の助けを借りて耳に我慢をしてもらうことが大いに必要なのです.
私は次のことを明らかにしたと思います.フランス語が拍子も旋律も受け入れないので,フランス音楽には拍子も旋律もないということ.フランス語の歌は,先入観のない耳には耐えられない叫び声の連続でしかないということ.その和声は粗雑で,表現力もなく,ただ生徒の作った埋め草を思わせること,フランス語のエールはエールではないこと.フランス語のレシタティフはレシタティフではないこと.以上のことから私は,フランス人は音楽をもっておらず,もつこともできないということ,あるいはもし音楽をもつようなことがあれば,それは彼らにとって仕方がないということになると結論します.
*別の言語の音楽を借用して,それを自分たちの言語に応用しようとすることを,私は音楽をもつと呼びませんし,もっと滑稽にもイタリア語の旋律をフランス語に結びつけるよりは,自分たちの鬱陶しく滑稽な歌を持ち続けるほうがいいと思います.このような嫌悪すべき寄せ木細工はたぶん今後わが国の音楽家たちの研究対象となるでしょうが,それらは認めるにはあまりにも怪物じみたものになるでしょうし,わが国の言語の性格はそれにはけっして向かないでしょう.せいぜい,器楽部分に免じて見逃される喜劇作品がいくつかできるくらいでしょう.しかし悲劇のジャンルでは同じ試みはなされないだろうと,大胆ですが私は予言しておきます.今年の夏,オペラ・コミック座で,才能ある人の作品が拍手喝采を受けましたが,この人は優れた耳を持ち,優れた音楽を聴いてきたと思われ,喜劇のジャンルをできるだけ子細にフランス語に翻訳したのです.彼の伴奏はそのまま写したのではないのですが,上手に模倣されていますし,彼がぜんぜん歌を作らなかったのは,そうすることができないからです.才能を感じている若き音楽家たちよ,人前ではイタリア音楽を軽蔑し続けなさい.君たちの現在の興味がそれを要求しているのはよく分かる.しかし,もしいま君たちが先生にたいして感じている軽蔑を,いつの日か君たちの仲間にたいして向けることができるようになりたいのなら,この言語と音楽をとくに急いで研究しなさい.

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