『同僚たちへのオペラ座管弦楽団員の手紙』(1752)


わが親愛なる同僚諸君、ついに私たちは勝利をおさめました。道化芝居の役者たちは追い払われたのです。私たちは再びド・リュリ氏の器楽曲で光彩を放つことになりましょうし、もはやオペラ座で怒りにカッカすることもないでしょうし、オーケストラ席にいてもそれほど疲れることもないでしょう。諸君よ、拍子が情け容赦もなく進み、私たちがついていけるように決して待ってはくれなかったあのひどい音楽を演奏する仕事はまさに骨の折れるものだったと認めてください。私はといえば、あの王妃側のいやな常連たちの誰かに観察されているのを感じたときや、遠慮の気持ちが残っていたために私のパートの音符をほとんどそのまま弾いてしまう羽目に陥ったとき、私は最高にどぎまぎしてしまい、一・二行弾いた後でどこを弾いているのか分からなくなり、休止を数えているふりをしたり、小用をたしに行くために座をはずして、難局を切り抜けたものです。
これほどテンポの速い音楽が私たちにどんなにミスをさせたかも、識者を自認する人たちが私たちに与えている無知という評判がすでにいったいどこまで広がっているかも、あなた達には信じられないでしょう。最悪の学童でさえ、40スーを自分で払ったのだから、私たちが演奏を間違ったときにはぶつぶつ文句を言う権利があると信じ込んでいるのです。それで非常に頻繁に観客の注意がそがれていたものです。哲学者とか呼ばれるものたちでさえ、王立アカデミーに対する敬意をこれっぽっちももっておらず、無礼にも私たちのような人物をこっぴどく批判したのです。ついに、私たちの昔からの重要な特権を臆面もなく踏みにじってでも、国王の任官たる私たちに、音楽を心得ることと、給与の目的である楽器を本気で弾くことが強制される時がきたことが私には分かりました。
ああ! 私たちの栄光の幸運な時代はどうなったのでしょうか? 会計院の長老たちやサン・ドニ街の最高に立派な市民たちの間で、全員一致の意見で、私たちがヨーロッパ最高のオーケストラであるとみなされていたあの幸せな日々、あの名高い『イジス』の序曲や、あの美しいアルシオーヌの嵐や、『ロラン』のあの才気溢れるロジスティルに恍惚となったあの日々、そして私たちの弦の最初のアタックの騒音が平戸間席の拍手喝采とともに天にまで立ちのぼったあの日々は、どうなったのでしょうか? 今やだれもが私たちの演奏の仕方に手を入れようとして軽はずみにも口を挟んでくるのです。私たちはあまり正確には演奏しませんし、ぴったり合わせて演奏することもほとんどないので、私たちは容赦なく「弦をキーキーこするものたち」呼ばわりされますし、私たち同様宮仕えの身で、それゆえに正直で善良な人たちである見張り番たちが、もし少しでも服従を守ってくれなかったら、私たちはたいていなら芝居から追放されるところでしょう。しかし、わが親愛なる同僚諸君、あなた方の正当な怒りをかき立てるためには、私にはいったい何が必要なのでしょう? 私たちの過去の栄光とそれを私たちから奪った侮辱を思い出させることでしょうか? あの残酷な侮辱はすべて今でもあなた達の記憶にありありと浮かぶでしょう。そしてあなた達はそのおぞましい原因を一生懸命に消し去ろうとすることで、いかにそれがあなた達に耐え難いものであるかを示したのです。そうです、諸君、あの危険な外国音楽こそ、それ自身の魅力以外には何の助けも借りずに、すべてがそれに敵対している国で、あれほどのびのびと演奏された私たちの音楽を危うく壊滅状態にするところだったのです。あの音楽こそ私たちの名誉を失わせたのですから、この音楽に対してこそ、私たちは最後の最後までみんな一致団結していなければならないのです。
『奥様女中』の最初の頃の成功によって危険を知らされ、秘密裏に集まって、この魂を奪われそうな音楽をできるだけ台無しにする方策を協議したときに、私たちの中の一人、この男は後に裏切り者だと分かったのですが、この男がどういう気なのか、半分からかうような調子で、あれこれ考えることなんかない、勇敢に全力でこれを演奏しなければならないんだと言ったのを私は思い出します。粗忽にもこの意見に私たちが従っていたら、いったいどういうことになっていたか考えてみてください。だって、私たちが演奏する作品には必ずそれらが与えうる喜びの美点をすべて与えるようにしている私たちの配慮に私たちの偉大な才能とが一緒になれば、私たちの弓にゆだねられたこのイタリア音楽の美しさを聴衆が感じないようにすることは困難だっただろうからです。そこで私たちはこの上なく態度のはっきりしたオペラ・ブッファ派の人たちでさえも不快にすることができるような前例のない大胆さでもってこの曲をがりがりこするように演奏して、聴衆の耳に不快感を与えたのです。本当にこの企ては大胆なものでしたし、他のところだったらどこでも、私たちの楽団員の半分は牢獄に二十回もつっこまれていたことでしょう。しかし私たちは己の権利はわきまえており、それを行使しているのです。もし不満があるのなら、牢獄に入れられるのは聴衆の方でしょう。
*数日前に、私たちがみんないつもしているように、オペラ座で彼にいたずらをしてやろうとしていた私は、彼のポケットの中に次のようなスキャンダラスな風刺詩が書かれた紙切れを見つけました。
     おお、模倣しがたきペルゴレージよ、
     わが非情な楽団が
     その鈍重なバイオリンでお前をわめかせるとき、
     寓話とは逆に、マルシュアスがアポロンの
     皮をはぐこともあるのを、我は信ず。
オーケストラにはこのようなものが二・三人はいて、私たちの陰謀を非難しようという気を起こし、イタリア音楽に公然と賛意を表明し、団体のことも考えず、義務を果たして善人たらんとする気になる者もいるのです。しかし私たちはまもなく彼らを侮辱して追っ払うつもりですし、私たちと共同戦線を張ってくれる同志たちしか認めたくありません。
これに満足せず、私たちは無知と悪意を陰謀に結びつけたのです。私たちは彼らの音楽について言ったのと同じくらいの悪口を俳優たちについても言うのを忘れなかったのです。彼らが私たちから受けたあしらいのうわさが大変いい効果を及ぼし、バンビーニが何とかして呼ぼうとした立派な人たちはみんな侮辱を受けにパリにやってくることを嫌がっているのです。共通の力強い利益と私たちの弓の栄光の復讐をしたいという欲望によって団結しているので、私たちには、哀れな外国人たちを踏みつぶしてしまうことなど難しいことではありませんでした。なぜなら、彼らは商売の秘訣などわきまえておらず、自分たちの才能以外の保護者を持たず、感じやすく公平な耳以外の支持者を持たず、彼らが努力して聴衆に与えようとしている喜び以外の策も持っていないのですから。お人好しの彼らは、この喜びが逆に彼らの罪を重くし、彼らが受ける罰を速めることになろうとは、思いもよらなかったのです。最後にはその罰を受ける気になったようですが、それでも何のことやら分かっていないのです。というのは彼らが罰をもっと感じるように、彼らが予告もなく支払いもされずに、また彼らが罰せられることなしに聴衆に気に入られることが許されるような安住の地を探すいとまも残さずに、突然解雇されるのを見るだけで、私たちは満足だからです。
私たちは、真の市民やとりわけ私たちの劇場によく出入りしている趣味人の慰めとして、みんなから見放され、侮辱を山ほど受けてきたフランスの俳優たちがまもなく彼らの劇場を閉鎖せざるを得なくなるだろうと期待しています。そうなれば、王妃側というのは、コルネイユ、ラシーヌ、ヴォルテールの笑劇や幕間劇の笑劇を堂々と賛美してる熱烈な支持者から構成されているだけに、いっそう私たちにとって喜びとなるでしょう。こうして愚劣にもフランス演劇とイタリアオペラを求める外国人はみんなパリではイタリア演劇とフランス国民の趣味の貴重な記念物であるフランスオペラしかないので、あれほど熱心にパリに駆けつけようとすることはやめるでしょう。そうなれば、もっと住み易くなるし、家賃ももはやそれほど高くなることもないでしょうから、王国にとっても大きな利益となるでしょう。
私たちがやってきたことはすべてそれなりのものですが、それもでまだ十分ではありません。私は、ある事実を発見したのですが、これについては、この機会にやらなければならないことについてみんなで協議できるように、みんながあらかじめ知っておいた方がいいのです。それはバンビーニ氏が『ジプシー女』の成功に気をよくして、新しい幕間劇を準備しており、それが彼らの出発までに上演される可能性があるようだということなのです。一体全体彼がこれほどの幕間劇をどこで仕入れてくるのか私には分かりません。というのは、私たちはみんなイタリア全体でも三つか四つの幕間劇しかないと高をくくっていたからです。私はといえば、これらの呪われた幕間劇は、私たちをひどく苦しめようと、わざわざ天使たちがすっかり仕上げて、天上から落ちてきたとしか思えません。
諸君、したがって問題なのは、今こそ私たちが団結してこの芝居が上演されないようにじゃまをすること、あるいはこの芝居が優れたものであれば、最低でも華々しく失敗させることなのです。そうすれば、ブッファたちはみんなの憎悪を背負って立ち去るでしょうし、この例からパリ全体が私たちの権威をおそれ、私たちの決定を尊重することを学ぶことでしょう。こういう考えから、私は友情を口実にしてうまくバンビーニ氏の家に潜り込みました。この善人は何も疑っていなかったので、というのは私たちが彼をだましているということが分かるような才気も持っていないからなのですが、彼は私にその幕間劇を何の隠しだてもなく見せてくれたのです。そのタイトルは『イギリスの鳥刺し女』というのですが、音楽の作者はヨメッリとかいう男です。ところで、ご存じのように、このヨメッリというのは、何も知らないくせに、どうしてか分かりませんが、私たちが時には滅茶苦茶にするのに多いに苦労する魅惑的な音楽を書くあの無知なイタリア人の一人なのです。これを台無しにする方策についてじっくり考えるために、私はできるだけ入念にスコアを調べてみました。残念ながら、私は他の人と同様に、楽譜を読むのがあまり得意ではないのですが、私は十分に見ましたので、この器楽曲が私たちの計画にお誂え向きにできていると思われるということが分かりました。この曲は区切りが大変短く、変化に富んでいて、次から次へと演奏に入るさまざまな楽器のちょっとした応答がいっぱいあるのです。要するに、この曲は演奏に格別の正確さが要求されるのです。そんなふりも見せずにまったく自然な様子で、これらすべてをむちゃくちゃにするのがいかに簡単かお分かりでしょう。互いの音を聴かないようにさえすれば、もの凄く滅茶苦茶な曲になるでしょう。これは素敵なことです。以下に、私たちが名高い指揮者たち、なかでもラベ氏やカラフ氏とじっくり練った行動のための指針案を示します。彼らはどんな場合でも私たちの側に大変貢献してくれましたし、優れた曲に大変な損害を与えてきましたから。
  1. 今度は、他の幕間劇の時に使って成功した通常のやり方には従わないようにしよう。この幕間劇の悪口を言う前に、リハーサルでこの作品のことが分かるまで待つのです。音楽がつまらないものだったら、これを話題にして誉めます。私たちはだれもが口をそろえてこの曲を褒めちぎるふりをしますが、そうやってみんなが驚異的な作品を期待し、初演の時にひどく当てが外れるようにするのです。その心配は十分すぎるほどあるのですが、もし不幸にして音楽が素晴らしいものだった場合には、今まで作られたものの中でもっともつまらないものであるとでもいうように、度外れの軽蔑をもって侮辱的に話題にします。私たちの評価は、自分たちが正しかったときにしか引っ込まない馬鹿どもを惹きつけるでしょうし、大多数の人たちは私たちの側につくでしょう。
  2. 指揮者たちには罪はないことを明らかにするためにも、リハーサルでは全力を挙げて演奏しなければなりません。そうしなかったら、すべてがうまく行くまでリハーサル練習をしなかったと彼らが責められることになりますから。だからといって、このリハーサルはたんなる無駄ということにはならないでしょう。というのは、このときこそ、できるだけバラバラの演奏にする方策を私たちの間で打ち合わせすることになるでしょうから。
  3. 和音は、主席バイオリン奏者の耳が遠いので、しきたり通り、彼の考えにもとづいて鳴らされます。
  4. バイオリン奏者たちは三つのグループに分かれます。第一のグループは四分の一全音だけ高い音で弾き、第二のグループは四分の一全音だけ低い音で弾き、第三のグループはできるだけ正確な音程で弾きます。この耳障りな音は演奏の最中に楽器の音をわずかに高くしたり低くしたりすれば簡単にできることです。オーボエ奏者については何も言うことはありません。彼ら自身で思い通りにやるでしょう。
  5. 拍子についてもほとんど音程と同じような手を使います。三分の一のグループが拍子通りにやり、別のグループが拍子より速めに弾き、残りのグループが他の人たちよりも遅れていくのです。とくに曲に入る際には常にバイオリンは揃わないように気をつけますが、次から次へと順番に弾き始めるので、彼らの演奏はフーガか模倣音形のようになり、それが非常に大きな効果をもたらすことになるでしょう。チェロ奏者に関しては、彼らの中の一人がやる模範例を真似するようにという話になっています。このチェリストはイタリアの幕間劇を決して正しい音程で伴奏したことがないということ、そして短調なら長調で、長調なら短調でいつも弾くことをまったく誇らしげに自慢しているのです。
  6. おもに歌の伴奏の場合にはフォルテを弱く弾き、ピアノを強く弾くように大いに気を配ります。トネッリが歌う場合には力一杯にキーキー音を鳴らさなければならないでしょう。というのは、彼女の声が聞こえないようにすることがとくに重要だからです。
  7. 忘れてならない別の注意は、できる限り第二バイオリンの音を強くし、第一バイオリンのほうは弱くして、どこにいても第二バイオリンの旋律しか聞こえないようにすることです。それに、ビオラのパートが低音部のオクターヴ違いの場合にはつねにわざわざビオラのパートを写譜しないように、デュランに約束させなければなりません。そうすれば、低音部と高音部のつなぎの部分がなくなって、和声がより無味乾燥なものになるからです。
  8. 若手の「弦をキーキーこするものたち」に勧めることは、オクターヴを取って、駒上でキーキー音を鳴らすことですが、とくに単純な旋律が弾けないときにはそれに装飾音をつけたり、形を変えたりすることを勧めます。そうやれば彼らの不器用さをごまかし、曲をきたなくし、自分たちが世界中のすべてのオーケストラの掟を超越していることを示すことになるでしょう。
    聴衆はこうした滅茶苦茶な音には最後には我慢できなくなるでしょうから、聴衆が私たちをあまりにもよく観察していることに気がついたら、陰口を予防するためにやり方を変えなければならないでしょう。この場合には、三・四人のバイオリン奏者がきちんと弾いている間、他のものはみなエールの最中に調弦を始め、力一杯にキーキー音を鳴らし、もっとも甘美な箇所で開放弦でもの凄い音を出すようにするのです。このようにして、私たちはどんなに美しい音楽でも何らとがめられることなく台無しにすることができるでしょう。というのはどうしたって調弦は必要なのですから。もしこの点について私たちが咎め立てされるようなことでもあったら、それこそ私たちは自分たちの好きなように間違った演奏をするためのこの上なく立派な口実を手にすることになるでしょう。したがって、私たちは音合わせをすることが許されようと許されまいと、いつだって合わない音を出すやり方は見つかるものです。
  9. 私たちはみなスキャンダルだ涜神行為だと叫び続けます。私たちは神々のすみかが大道芸人によって辱められているとあらかさまに不満を述べるのです。私たちは次のことを証明するように努めます。わが国の歌手はせいぜい歌ったり身振りをしたりはしますが、役を演じることはないので、彼らは他の国のものと違って大道芸人ではないということ。また小柄なトネッリが聡明さや恥ずべき思いやりを表してその役を演ずるために腕を利用するのにたいして、有名なシュヴァリエ嬢がその腕を使うのは自分の肺のがんばりを助けるために他ならず、この方がずっと慎ましやかだということ。その上、掟を破るのは才能あるものだけで、わが国の歌手はいままで掟を破ったことがないということ。王立音楽アカデミーはその称号と特権の虚飾によってのみ維持されるべきであって、それゆえに優れた音楽を必要とするなどその品格にふさわしくないという理由で、イタリア音楽はわが国の劇場の名誉を傷つけているということも、私たちは明らかにするつもりです。
  10. 今度のことで私たちがしなければならない最も重要な用心は、私たちの話し合いを秘密にしておくことです。これほど重要なことは愚かな庶民の目に晒してはなりません。彼らは愚かにも私たちの給料は彼らに奉仕するために支払われていると思いこんでいるのです。聴衆というのはまったく尊大なので、もしこの手紙があなた達の中の誰かの不注意によって流布でもしようものなら、私たちの行動をもっと詳細に観察する権利を得たと信じ込んでしまうでしょうし、そんなことになれば、必ずや不都合が起こるでしょう。というのは、結局のところ、いかに大衆よりも私たちの方が優れているとしても、彼らから悪口を言われることはまったく不愉快ですからね。
諸君、以上があらかじめ私たちが打ち合わせておく方がいいと思われる予備的な項目です。当の作品が上演されるときにすることになる個々の話については、この作品の受け具合によって変更する必要があるので、それについて話し合うのはそのときまでおいておくのが適当でしょう。何人かは別として、私たちはみな今まで共通の利益のために非常に適切に振る舞ってきたので、この点ではだれ一人として仕事の仕上げの時に裏切るような気配はありません。それに私たちが才能に欠けると批判されることがあっても、少なくともそれは見事な陰謀を行う才能のことではないことを望みます。
こうやって、卑劣なやり方であのイタリアの奴らをみんな追放してしまったら、私たちは恐るべき法廷を私たちのために設けることになるでしょう。もうじき、作品が成功するか、少なくとも失敗するかは、私たちだけにかかっているのです。作者たちは当然の恐怖心にとらえられて震えながらやってきて、彼らを不快にするかもしれない弓に敬意を表すでしょうし、今は私たちは哀れな「弦をキーキーこするものたち」とみなされていますが、そんな一団から、いつかはフランスオペラの最高の審判者でシャコンヌやリゴードンの至上の支配者となるでしょう。
親愛なる同僚諸君よ、深甚なる敬意をもって、
                                             敬具

to TOP

ルソー音楽関係著作一覧に戻る

INDEXに戻る inserted by FC2 system