フランス・オペラの台本作家と作曲家


台本作家

ペラン Pierre Perrin (1620-1675)

詩人で、フランス・オペラの理論家でもある。1659年上演の『イシーのパストラル』(音楽はカンベール)は本来の意味での最初のフランス・オペラとみなされる。つまり最初から最後まで音楽がついており、歌詞がつねに音楽伴奏との関係を考慮して書かれているという意味においてである。
『イシーのパストラル』の成功のあと、1669年に財務長官のコルベールから「オペラ・アカデミー」設立の特許を得る。そのこけら落しが『ポモーヌ』(1671年、音楽はランベール)であった。二人の共同経営者スルデアック侯爵とシャンプロンの裏切りのせいで、負債を抱え、一年間投獄された。1672年3月にはその特許をリュリに譲渡することになる。

キノー Philippe Quinault (1635-1688)

10代からすでにプレシユーたちのサロンに出入りしており、1653年の『ライバルたち』で大成功をしたのを皮切りに、次々と喜劇や悲喜劇でヒットを飛ばした。1660年に結婚した金持ちの未亡人の持参金で侍従の職を買ったことでルイ14世に近づくことができるようになった。演劇作家としては1665年の『アストラート』と『コケットな母親』でその頂点に達し、1671年の『ベレロフォン』で終わった。
その後は、1660年代からすでに関わっていた王室のディヴェルティスマンのための仕事に軸足を移した。多くのバレエのために詩を書いており、その一つが1671年の『プシシェ』である。いずれにしてもこのバレエの作詩の仕事を通して、リュリとの交流ができたことは間違いない。
1672年の『愛の神とバッキュスの祝祭』からリュリの公式の協力者となり、それ以降ほぼ毎年一作の音楽悲劇を書いた。1677年の『イシス』では国王の浮気に絡んで第一愛妾のモンテスパン夫人の激怒をかって詩人から降ろされる。二年間のブランクの後、モンテスパン夫人の毒殺疑惑問題などもあって、返り咲く。1686年の『アルミード』まで毎年一作の音楽悲劇を書いて、成功させた。そのあいだに二作のバレエも書いている。1681年の『愛の神の勝利』と1685年の『平和の神殿』がそれである。1686年にリュリが亡くなり、時を経ずして、キノーも亡くなった。
当時は詩に音楽をつけることにたいする否定的考えが主流であった。たとえばマザランからフランス語による音楽劇を最初に依頼されたピエール・コルネイユは、『アンドロメード』を書いたときに、詩に音楽をつけると詩が聞こえにくくなり、意味が取れなくなるから、通常の朗唱には音楽を付けず、ディヴェルティスマン的部分だけに付けるようにしたと述べている。またサン=テヴルモンも最初から最後まで音楽をつけることを滑稽として批判した。それにたいしてキノーが取った方法は、できるだけ語彙数を減らして、よく使われる単語を使用し、歌詞の一部を聞けば次が理解できるようにすること、しかもすべてを語らないで、音楽に語らせるようにするというものであった。古代人・近代人論争において、近代人派として音楽悲劇を擁護したペローは、キノーがごく限られた自然な表現や普通の語彙を使うことで、「あれほど素晴らしく、あれほど心地よく、またあれほど多彩な作品を作り上げることができた」点に、音楽劇詩人としてのキノーの優秀性があると讃えている。

トマ・コルネイユ Thomas Corneille (1625-1709)

大コルネイユと呼ばれるピエール・コルネイユの弟にあたる。音楽劇以外にも多数の演劇作品を書いているが、音楽劇としては8本の台本を書いた。その中でも有名なものは、シャルパンティエに歌詞を提供した『メデ』(1693年)であろう。その他、キノーが宮廷内の不遇のためにリュリの台本作家から降ろされたときに、二本の台本を提供した(『プシシェ』1678年と『ベレロフォン』1679年で、これは後にフォントネルが下書きをしたことが判明した)が、リュリはキノーのほうを好んだという。たしかに『メデ』の台本を読むと、行跨ぎが多いし、語彙数が多いだけでなく、難解な単語を多用する傾向があることが分かる。それがリュリに嫌われた原因ではないかと思われる。

カンピストロン Jean Gilbert de Gampistron (1656-1723)

若くしてパリに出てきて、ラシーヌの教えを受けた劇作家で、多くの作品がコメディー・フランセーズで上演されている。オペラ台本としては、リュリの最後の作品となった『アシスとガラテ』(1686年)が有名である。

フォントネル Fontenelle (1657-1757)

まだルーアンに住んでいた時期の20歳代初めに、トマ・コルネイユに代わってリュリのために二本のオペラ台本を書いた(『プシシェ』1678年と『ベレロフォン』1679年)。
1683年に書いた『死者との対話』によって、古代人・近代人論争において近代人派の態度を表明する。17世紀末から18世紀初頭にかけては、17世紀前半に出たデカルトがそれまでのスコラ学を否定して打ち出した新しい哲学がやっと浸透して、自然界のどんな現象も機械の仕組みを説明するように説明できるという熱狂に沸いた時期である。しかもさまざまな分野で新しい発見や発明が次々となされ、まさにこの世界にあるもので説明のできないものはないというような時代だった。
とくにフォントネルは科学アカデミーの終身書記として、そうした科学分野での新発見にいち早く触れる機会があり、それにもとづいてアリストテレス哲学によって迷信化されていた考え方をひっくり返すような考え方を提示したりしている。『世界の多数性についての対話』とか『神託の歴史』などが有名である。
フォントネルの名前でオペラ台本を書いたものとしては1689年の『テティスとペレ』、1691年の『エネとラヴィニー』(どちらも音楽はコラース)、1731年『エンディミオン』(英雄牧歌劇、音楽はコラン・ド・ブラモン)がオペラ座で上演されている。『テティスとペレ』はたいへんな人気を博し、1750年頃までオペラ座のレパートリーの一つであった。

ラ・モット Antoine de La Motte Houdar (1672-1731)

 最初のオペラ台本が1697年の『優雅なヨーロッパ』(音楽はカンプラ)で、一躍台本作家の寵児となった。彼はオペラ台本とくにオペラ=バレエの台本を「ガラクタ」と考えており、1710年にアカデミー=フランセーズの会員に選ばれるとオペラ台本の作詞をやめてしまう。
当時盛んであった古代人・近代人論争において近代人派として論争に参加した。とくにラ・モットが1713年に出版した『イリアス』の翻訳は原典のギリシャ語ではなくて、ラテン語からの翻訳であったこともあり、古代人派のダシエ夫人とのあいだで論争になったし、ラ・モットが提唱した散文による演劇台本の制作にたいして、ヴォルテールが韻文による方法は詩人に多くの拘束をもたらすが、それゆえに引き締まった優れた台本が書ける可能性があると主張して論争になった。また三単一の規則を批判したことでも知られる。
ラ・モットが書いた台本は次のようなものがある。『優雅なヨーロッパ』(オペラ=バレエ、音楽はカンプラ、1697年)、『イッセ』(英雄牧歌劇、音楽はデトゥッシュ、1697年)、『ギリシャのアマディス』(音楽悲劇、音楽はデトゥッシュ、1699年)、『諸技芸の勝利』(オペラ=バレエ、音楽はラ・バール、1700年)、『オンファル』(音楽悲劇、音楽はデトゥッシュ、1701年)、『カルナバルとフォリー』(喜劇バレエ、音楽はデトゥッシュ、1704年)、『アルシオーヌ』(音楽悲劇、音楽はマラン・マレ、1706年)、『ティトンとオロール』(英雄牧歌劇、音楽はドーヴェルニュ、1735年)など。

ロワ Pierre-Charles Roy (1683-1764)

有名なレトリック学者のクチュールの薫陶を受け、熱烈な古代人派の詩人、台本作家となった。1710年代初めには、アカデミー・フランセーズ、文芸碑文アカデミーなどで雄弁や詩の賞を何度も受賞している。
オペラの台本作家としての活動は大きく二期に分けられる。第一期(1705-1718)は音楽悲劇の時期で、1705年の『フィロメール』(音楽はラコスト)、1707年の『ブラダマント』(音楽はラコスト)、1708年の『イッポダミー』(音楽はカンプラ)、1712年の『アテネの女クレユーズ』(音楽はラコスト)などがあるが、彼の最高の音楽悲劇は1712年の『カリホレ』(音楽はデトゥッシュ)で、その後も何度も再演されている。
ロワの音楽悲劇の特徴は、恐怖と憐憫の情を喚起するという悲劇本来の姿をもっていることで、恋愛は副次的主題に格下げされている。彼の音楽悲劇では情念の激しさ、英雄主義の否定、恐怖の探求、劇的緊張が追求されている。
ロワの最後の音楽悲劇である1718年の『セミラミス』(音楽はデトゥッシュ)が失敗したことから、彼は音楽悲劇を捨てて、バレエにジャンルを変えることになる。第二期(1712-1750)はバレエのための台本が中心になる。有名なところでは、1721年の『四大元素』(音楽はデトゥッシュ)と1732年『諸感覚』(音楽はムレ)などで、ラ・モットとカンプラが考案したオペラ・バレエというジャンルの特徴――緩やかなテーマで統一されているだけで、どの幕(アントレ)もそれぞれに完結した内容をもつ――をうけつぎつつ、彼らのオペラ・バレエがもっていた喜劇的庶民的性格を排除し、神話に題材を求めた英雄的バレエを創始した。これはどの幕も一幕もののミニ悲劇のような作りになっている。

ダンシェ Antoine Danchet(1671-1748)

ダンシェはすべての作品をカンプラと組んだ台本作家である。作品は音楽悲劇が8作、バレエあるいはオペラ=バレエが4作、一幕ものバレエが5作である。
1701年の『エジオーヌ』(音楽悲劇)、1702年の『タンクレード』(音楽悲劇)、1703年の『ミューズたち』(オペラ・バレエ)、1705年の『アルシーヌ』(音楽悲劇)、1710年の『ヴェネチアの祝祭』(オペラ・バレエ)、1712年の『イドメネ』などが有名である。
ダンシェは1705年から「碑文文芸アカデミー」会員であり、1712年からアカデミー・フランセーズの会員。1727年から死ぬ(1748年)まで『メルキュール・ド・フランス』の主幹をしていた。

フュズリエ Louis Fuzelier (1674-1752)

フュズリエは非常に多作の作家で、パリの4つの劇場(オペラ座、コメディー=フランセーズ、コメディー=イタリエンヌ、サン=ジェルマンとサン=ロランの二つの縁日芝居座)に200以上の作品を書いた。ジャンルもパロディー、幕間劇、ヴォードヴィル付き喜劇など多彩であった。とくにオペラ・コミークのためにル・サージュやドルヌヴァルたちとともに仕事をした。もちろん彼の最高傑作はラモーと組んだ『優雅なインドの国々』(1735年)である。その他、『偽装恋愛』(バレエ、1713年、音楽ブルジョワ)、『世代さまざま』(バレエ、1718年、音楽カンプラ)、『ギリシャとローマの祝祭』(バレエ、1723年、音楽コラン・ド・ブラモン)などがある。

ペルグラン Simon Joséph Pellegrin (1663-1745)

 貧しい司祭であったために生活のために大量の詩を書いたといわれる。1713年に『メデとジャゾン』(音楽はサロモン)でオペラ座にデビューしたが、その後はしばらく鳴かず飛ばずで、1732年の『ジェフテ』(音楽はモンテクレール)によって台本作家として成功を博した。ラモーが彼のオペラ第一作の『イポリトとアリシ』の台本を書いてくれるように依頼したところ、500リーヴルの保証金を要求したが、ラモーが書いた第一幕の音楽を聞いて、「これほどの才能をもった音楽家なら保証金は必要ない」と言って保証金の契約書を破り捨てたという逸話は有名である。

ベルナール Pierre-Joseph Bernard (1708-1775)

ヴォルテールからからかい半分に「ジャンティ・ベルナール」(優しいベルナール)と呼ばれていた。詩作を職業にしていた台本作家ではなく、もともとは軍人であった。しかしアマチュアゆえの、書き過ぎないことが、音楽劇の台本には却って功を奏したようで、彼がラモーのために書いた『カストルとポリュックス』は、マルモンテルのような台本作家からも、最高の台本と高く評価されている。またラモーのために『愛の神の不意打ち』の台本も書いている。ポンパドール夫人によって国王の図書係に引き立てられた。

ラ・ブリュエール Charles Antoine Leclerc de La Bruere (1714-1754)

 台本作家で、フュズリエとともに『メルキュール・ド・フランス』の編集を行なっていた。ラモーのために書いた『ダルダニュス』(1739年)の台本作家として知られる。その他、1736年の『愛の神の旅行』(バレエ、音楽はボワモルティエ)、1748年の『エリゴーヌ』(バレエ、音楽はモンドンヴィル、これはヴェルサイユだけで上演された)、同じくヴェルサイユだけで上演された1748年の『ノワジー公』(音楽はルベルとフランクール)がある。

ヴォルテール Voltaire (1694-1778)

 18世紀最大の著述家、劇作家、小説家である。台本作家としては、1733年に『タニスとゼリード』、『サムソン』、1740年に『パンドラ』などを書いているが、いずれも音楽が付いた形では完成していない。当時のオペラが愛を主題にすることを当たり前にしていたことに反発して、愛が主題になっていないオペラを書くことを自らに課して出来上がった『サムソン』と『パンドラ』は主人公の反抗的精神が見事に描かれた作品になっているが、『サムソン』は検閲で拒否されて上演されなかった。
実際に上演された作品としては、王室から祝祭用に注文された『ナヴァールの王女』(コメディー・バレエ)と『栄光の神殿』(オペラ・バレエ)である。どちらもラモーが音楽を付けて、1745年にヴェルサイユで上演された。注文作品であり、担当していたリシュリュー公からあれこれ注文されたことに嫌気が差し、駄作として、この時期に編集した自身の『作品集』に収録することを嫌がったほどである(最終的には収録された)。
またグレトリーのためにオペラ・コミーク作品として『オトラント男爵』と『二つの樽』を1768年頃に書いている。
もともとオペラ・バレエが流行していた時期(18世紀初め)に劇作家として名を上げたヴォルテールは、
「オペラというのは壮麗であると同時に奇妙なスペクタクルで、目と耳が精神よりも満たされ、音楽への従属の結果、どんなに滑稽な間違いでも必要になり、町を壊しながら歌い、墓のまわりで踊るし、プリュトンの宮殿や太陽神の宮殿、神々、悪魔たち、魔術師たち、まばゆく豪華なもの、怪物たち、一瞬にして組み立てられたり破壊されたりする宮殿が見られる。こうした異常なことは大目に見られるし、好まれさえもする、なぜならそこは妖精の世界だからだ。スペクタクル、素晴らしいダンス、美しい音楽、面白い場面がいくつかありさえすれば、みんな満足なのだ」(1730年版『オイディプス』序文)
とオペラを批判的に見ていた。だが1733年のラモーの『イポリトとアリシ』を見て考えが変わり、ラモーの力強い音楽によって、悲劇的なものが表現可能だと考え、ラモーのために『サムソン』を書くことになったが、主題のせいで(実際にはヴォルテール自身のせいという見方もある)検閲を通らず、没になった。
ヴォルテールは演劇においても愛を作品に持ち込まない『オイディプス』を作ったが、実際にコメディー=フランセーズで上演するときには、俳優たちに譲歩を重ねて、恋愛を導入せざるをえなくなったように、オペラについてもギリシャ演劇の再興を目指すという高い理想をもちながらも、現実には注文者や作曲家の要求に譲歩を重ねて、理想から隔たった作品を残してしまったという人であったようだ。

カユザック Louis de Cahusac (1706-1759)

 弁護士資格をとってから、出身地のモントーバンで文学協会を設立した。1744年からは文筆に専念するようになり、多くの演劇作品を書いた。1744年に書いたコメディー・バレエの『アルジェリアの女、別名喜劇のミューズたち』がラモーの目に止まり、これ以降、オペラ台本はラモーのためだけに書くことになる。
『ポリムニーの祝祭』(オペラ・バレエ、1745年)、『婚礼の神と愛の神の祝祭』(オペラ・バレエ、1747年)、『ザイス』(英雄牧歌劇、1748年)、『ナイス』(英雄牧歌劇、1749年)、『ゾロアストル』(音楽悲劇、1749年)、『オシリスの誕生』(一幕ものバレエ、1754年)、『アナクレオン』(一幕ものバレエ、1754年)などがある。ラモー最後の音楽悲劇『レ・ボレアード』もカユザックの作品と考えられている。
音楽美学の理論家でもあり、1754年には『歴史的ダンス論』を書いているし、『百科全書』のためにオペラ関係の項目を多数書いている。

マルモンテル Jean-François Marmontel (1723-1799)

 1745年にパリに出てきて、音楽メセナとして有名で、ラモーやシュタミッツなどを私設オーケストラの監督として招いていた徴税請負人のラ・ププリニエールの家に、1749年から1753年まで住み、ラモーのために台本を書いた。1751年の『花飾り』、『アカントとセフィーズ』、1753年の『リジスとデリー』など。
また『百科全書』のためにも書いているし、1763年に書いた『フランス詩法』でアカデミー・フランセーズに入っている。1768年から75年にはグレトリーのためにオペラ・コミークの台本を書いた。『セファルとプロクリス』や『偽りの魔法』など。グルック・ピッチンニ論争においては、反グルックの立場をとり、ピッチンニのために『ロラン』、『アティス』、『ペルセ』などを書いた。1787年には『文学原論』を書いている。

作曲家

カンベール Robert Cambert(1627-1677)

 オルガニストで作曲家。彼はフランス語によるオペラを作曲することを望んだ最初の音楽家の一人であった。1659年にペランに協力して、『イシーのパストラル』に曲をつけた。ペランが1669年にオペラ・アカデミーの特許を得ると、最初のオペラ『ポモーヌ』を作曲し、1671年に上演した。1672年にはガブリエル・ジルベールと組んで『愛の神の苦悩と喜び』を作るが、リュリがペランから買い取った特許を盾にしてその上演を阻止した。
1673年にパリを離れて、以降はロンドンで活動を続けた。10年以上前にペランの詩に音楽をつけた『アリアーヌ』、『ポモーヌ』などがイギリス国王の前で上演された。

リュリ Jean-Baptiste Lully(1632-1687)

フィレンツェの製粉職人の慎ましい家庭の出身ということは分かっているが、イタリアで少年時代にどのような音楽教育を受けていたのかは不明である。しかし彼のオペラにモンテヴェルディのオペラを思わせるようなところがあることからして、フィレンツェのカテドラルの聖歌隊で音楽教育を受けたり、またオペラについても見聞きしていたと推測される。
1646年に王家筋のアンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン、つまり後のGrande Mademoiselleと呼ばれたモンパンシエ公爵夫人のイタリア語の会話相手として彼女の叔父のギーズ騎士に連れられてパリにやってきた。この時リュリは14歳で1652年までこの仕事をした。この間にこの姫に仕える音楽家たちからも音楽教育を受けたに違いないし、ギター、バイオリン、ダンスの手ほどきも受けたようだ。その結果、彼はgrand baladin「軽業師」というアダ名を得ていた。
リュリは1653年2月23日に『夜のバレエ』をルイ14世と一緒に踊ったときに彼を魅了した。3月16日には、宮廷の器楽音楽作曲家に任命されている。こうしてバレエにおいて器楽音楽と声楽音楽の作者として頭角をあらわしていた。1661年のコメディー=バレエ『はた迷惑な人たち』からモリエールとの共作が始まり、多くの傑作を生み出した。1671年の悲喜劇『プシシェ』で初めてキノーと一緒に仕事をする。
1672年にペランとカンベールによる『ポモーヌ』で初めてフランス語オペラが成功したのを見て、この新しいスペクタクルにたいする熱意が生まれ、財務長官コルベールの協力のおかげで、ペランからオペラの特許を買取り、幾度かの允許によって独占的な上演権を獲得する。1673年の『カドミュスとエルミオーヌ』を皮切りに、毎年一作ずつ音楽悲劇を新作し上演した。自らの指揮棒を足に突き刺した傷が原因になって1687年に死去した。
リュリのオペラの特徴は、17世紀後半にイタリア・オペラの定式になるアリアとレチタティーヴォの明確な音楽的分離とは違って、レシタティフを中心として進行するところにある。イタリア・オペラならば主人公たちが感極まって高らかにアリアを歌うような場面でも、決してエールになることはない。主人公たちは高貴な神々や英雄たちであり、彼らが歌うのは、悲劇的朗唱を音楽的に支えたレシタティフであって、庶民が歌う軽薄なシャンソンのようなエールを歌うのはふさわしくないと考えられたからである。したがって、アリアを歌うのは侍女や従者たち、あるいはディヴェルティスマンにおいて羊飼いやその他の副次的登場人物たちである。この定式化はリュリ以降も忠実に守られ、それが決定的に改革されたのはラモーの『イポリトとアリシ』からである。 またフランス風序曲という名前でヨーロッパを席巻した緩=急=緩の序曲を完成したことでも知られる。

シャルパンティエ Marc-Antoine Charpentier(1643-1704)

 活躍した時期が、ちょうどリュリのオペラ支配の時期と重なったために、オペラの世界でその才能を活かすことができなかったとして、不遇の作曲家として見られることが多い。
シャルパンティエの若いころのことはよく分かっていない。1660年代に3年間ローマに滞在していたらしいことははっきりしているが、それがいつからいつまでなのか正確には分かっていない。1670年代のはじめにパリに戻ってきた。ド・ギーズ嬢として知られるマリー・ド・ロレーヌの邸宅に入ったと言われている。
1671年からリュリがオペラ作曲に向かうようになると、ルイ14世に次々と詔勅を出させて、リュリが監督する王立音楽アカデミー以外ではほとんどオペラの上演ができないようにしたことから、彼と決裂していたモリエールは最後の作品『病は気から』でシャルパンティエに協力してもらって音楽を付けて上演したが、その上演中に死去した。その結果、シャルパンティエはその後長い間宗教音楽に向かうことになる。
1683年にルイ14世は王立シャペルの音楽組織の改編を行い、同時に高齢であったアンリ・デュモンとピエール・ロベールを引退させた。音楽副監督を4人新たに採用するためのコンクールが行われることになり、シャルパンティエも35人の応募者の一人であった。シャルパンティエは一次予選を通ったが、病気になりそれ以降の審査を受けることができなかった。しかし彼の才能を認めていたルイ14世は彼を慰めるために年金を与えたという逸話は有名である。
オペラ作曲家としてはリュリ死後の1693年にトマ・コルネイユの歌詞による『メデ』が有名である。

コラース Pascal Colasse (1649-1709)

作曲家。家族が1651年からパリに居を定めたので、音楽教育はサン=ポール教会で少年合唱団として始めた。1677年にはリュリに秘書として雇われ、さらに王立音楽アカデミーのオーケストラのトップに任命される。1683年にはリュリの後援のおかげで王立礼拝堂の音楽副監督になる(1704年まで)。1685年にはドラランドとともにシャンブル付き作曲家となる。1687年にリュリが亡くなったとき『アシルとポリクセーヌ』が未完だったので、コラースがそれを完成させるという重責を負った。これが失敗するとリュリの模倣だと非難される。
1689年の『テティスとペレ』(フォントネル)で新境地を開く。この作品は音楽悲劇のジャンルで最大の成功作品の一つで、1750年まで再演され続けた。1690年の『エネとラビニー』(フォントネル)と1691年の『アストレ』(ラ・フォンテーヌ)は失敗した。1695年の『四季のバレエ』(ピック師)で成功する。形式的にはオペラ=バレエの最初の作品である(一般にはラ・モットとカンプラの『優雅なヨーロッパ』がそうだと言われているが)。ジャン=バティスト・ルソーの『ジャゾン』(1696年)が失敗すると、その責任を押し付けられた。
1690年にはボルドー、トゥールーズ、モンペリエ、リールにもオペラ座を設立する特許を得る。1696年にミシェル・ランベールの後任としてシャンブルの音楽監督に就任する。1700年の『カナント』(ラ・モット)の失敗以降は、1706年の『ポリクセーヌとピリュス』(ラ・セール)が最後の作品となる。
『テティスとペレ』における「嵐」の描写で成功し、その後の同類の音楽的描写の先駆けとなる。1695年の『四季のバレエ』は、一般にはラ・モットとカンプラの『優雅なヨーロッパ』がそうだと言われているが、形式的にはオペラ=バレエの最初の作品である。

カンプラ André Campra (1660-1744)

南仏エクサン・プロヴァンスの出身である。少年期にサン=ソヴール大聖堂で音楽教育を受けた。1679年までトゥーロンで礼拝堂監督をしていた。1681年から83年までアルルで礼拝堂監督をした。1694年にパリに上京するまでトゥールーズで音楽監督をした。1694年にパリのノードルダムでジャン・ミニョンの後任として音楽監督になる。同時にルイ・ル・グラン校でラテン語悲劇の作曲家として1737年まで教える。フィリップ・ドルレアン(後の摂政)、ド・シュリー公、ド・ラ・フェルテ夫人の勧めでオペラに手を出すが、ノートルダムの音楽監督の仕事と両立不可能なので、『優雅なヨーロッパ』(1697年)と『フェート・ギャラント』(1698年)は作曲家名を伏せて上演された。『ヴェネチアのカーニバル』(1699年)は、オペラ座のバス・ド・ヴィオロン奏者をしていた弟の名前で上演された。1700年にノートルダムの職を辞して以降は、主に音楽劇の作曲家として活躍した。
1700年から1705年の間は、『エジオーヌ』『アレトゥーズ』『タンクレード』『ミューズたち』『トーリドのイフィジェニー』。
1705年から1722年の間は、『アルシーヌ』『イッポダミー』『ヴェネチアの祝祭』『イドメネ』『カミーユ』『世代さまざま』。この時期には宗教モテットやカンタータ集も出版している。
1722年から1744年の間はオペラ座と王立礼拝堂の二本立ての活動をした。
カンプラの音楽はフランス的な趣味と繊細さにイタリア音楽的な活発さを結びつけた点に特徴がある。ダ・カーポ構造、長いヴォカリーズを特徴とする装飾音などがイタリアに属し、リュリ風の完璧な韻律(ただしカンプラはこれをレシタティフにおいてアリオーソになるくらいに緩和しようと試みた)、シラビックなアリア、振付を目立たせるダンス音楽がフランスに属する。彼の演劇的センスは、ダ・カーポ・アリアとアリエットが支配的なカンタータに染み込んでいる。表現力の高さによって彼の『レクイエム』は『優雅なヨーロッパ』や『タンクレード』に匹敵する。

デトゥッシュ André-Cardinal Destouches(1672-1749)

作曲家。貴族の出身で、ルイ・ル・グラン校で学び、一時期は聖職者になることを考えていたが、断念し、軍職につく。1692年には近衛騎兵団に所属する。この頃から音楽的才能に目覚め、多くのエールを作曲し、それがコンティ公などの高位貴族の目に留まった。1696年には軍職を辞して、音楽に専念するようになる。この時期にカンプラから音楽の教えを受けている。1697年の『優雅なヨーロッパ』では三つのエールを依頼された。1697年には、彼のパストラル『イッセ』が国王の前(フォンテーヌブロー)で上演され、リュリ以降これほどの喜びを受けたことはないという褒め言葉をもらう。2年に一作のテンポでオペラ座にオペラを提供する。1699年の『ギリシャのアマディス』と『マルテジー』、1701年には『オンファル』、1703年には『カーニバルとフォリー』など。これ以降1711年まで音楽劇から離れる。
1712年の『カリロエ』で復活するが、1718年の『セミラミス』の失敗によって、音楽悲劇というジャンルが凋落し、人々の関心がオペラ=バレエに移行していることを悟る。そこで1721年にドラランドと協力して『四大元素』を書く。これは英雄的バレエというジャンルの創始となった。しかし1726年の『愛の神の手管』の失敗で、作曲家のキャリアを終える。
1718年には摂政とドラランドの後援のおかげでシャンブル音楽長官となり、ドラランドが死んだ1726年にはシャンブル音楽監督になっている。1728年には王立音楽アカデミー館長に就任した。
『イッセ』の初版ではアマチュアの作と揶揄されたが、オペラ作曲から遠ざかっていた間に行った改訂版では、その才能をいかんなく発揮している。カンタータの作曲では彼の演劇的センスがあふれている。彼の音楽の特徴は、大きな音程、準備なしの不協和音、劇的休符の使用などに見られる。しかし50年後の18世紀中頃には、グリムの『「オンファル」に関する手紙』で、歌詞の意味と音楽的表現のズレを指摘されるなど、時代遅れのフランス音楽の代表とされることになる。

マラン・マレ Marin Marais(1656-1728)

ヴィオール奏者であり、作曲家でもある。今日では、マレを主人公とした映画『めぐり合う朝』に示されるように、ヴィオール奏者として有名である。教会の合唱隊に入って音楽教育を受け、1672年頃にサント=コロンブにヴィオールの手ほどきを受けた。ジャン・ルソーやダヌーヴィルと同じ時期に、サント=コロンブから7弦のバスの手ほどきを受けた。しかし独奏楽器としてのヴィオール奏者としては師を超えることになる。作曲はリュリから教育を受けた。それゆえにヴィオール第二集はリュリとサント=コロンブのトンボーが収録されている。
マレは1679年に「シャンブルのヴィオール奏者」に任命されてから、46年間宮廷に仕えることになる(1733年まで)。
オペラ作品には、『アルシード』(1693年)、『アリアーヌとバッキュス』(1696年)、『アルシオーヌ』(1706年)、『セメレ』(1709年)がある。『アルシオーヌ』の嵐の情景の音楽は有名。

ルベル François Rebel (1701-1775)

17世紀中頃から1775年まで宮廷およびオペラ座で活動した音楽家一家の一番最後の一人である。バイオリン奏者、作曲家、オーケストラ指揮者で、王立音楽アカデミーの院長でもあった。1714年にはすでにオペラ座の団員となり、1727年には父親を継いでシャンブルの作曲家、1733年にはデトゥッシュを継いでシャンブルの長官となった。
1723年には、のちに彼のもう一人の自己となるフランソワ・フランクールとともに、ウィーンとプラハを旅行し、フックス、タルティーニ、クヴァンツらと知り合いになっている。
フランソワ・フランクールとの共同作業は、1726年のコンセール・スピリチュエルでのバイオリン二重奏で始まり、この年にはすでに『ピラメとティスベ』でオペラの作曲も行なっている。

フランクール François Francoeur (1698-1787)

フランソワ・フランクールも音楽家一家の一人で、バイオリン奏者で作曲家。彼のまた1713年という早い時期からオペラ座の団員となった。

ラモー Jean-Philippe Rameau (1683-1764)

作曲家、音楽理論家、オルガニスト。父親がオルガニストをしていたディジョンで生まれた。父親のもとで音楽教育を受けた。18歳の時に、イタリアに出発し、ミラノに短期間滞在した。19歳でフランス各地を放浪しながらオルガニストとしての仕事をした。1706年に『クラヴサン曲集第一』を出版した。1722年には『和声論』を出版して、パリに移り住む。1724年と28年には『クラヴサン曲集』を出版し、1728年に『理論的音楽の新体系』を出版する。
1731年から音楽メセナとして有名であった徴税請負人のラ・ププリニエールと知り合いになり、1744年から1753年まで、彼の邸宅に住み、彼の私設オーケストラを指導する。1733年にラ・ププリニエールの邸宅で知り合ったペルグランの台本による音楽悲劇『イポリトとアリシ』でオペラ作曲家としてデビューする。これ以降オペラ作曲家として数多くの作品を書き、1745年には王の「キャビネットの音楽作曲家」に任命される。
音楽理論家としても1737年の『和声の生成』や1750年の『和声原理の証明』を出す。しかし、これ以降ラモー理論の支持者として1752年には『ラモー氏の理論による理論的実践的音楽の基礎』を出版したダランベールが音楽現象という物理学的世界に精密科学としての数学を持ち込もうとしているとして離反したのを始めとして、ルソーとの論争などで、啓蒙主義哲学者たちとの関係が悪化する。
ラモーのオペラの特徴は、エールとレシタティフを音楽的に分離したこと、重厚なオーケストラ伴奏によるレシタティフ(エールと聞き間違えるほど旋律的)、色彩感豊かな器楽音楽、プロローグの廃止(もしくはプロローグを本編と深く関わらせたこと)などにある。もちろんそれらの多くはラモー以前の作曲家たちが試みていたことだが、ラモーにおいて鮮やかな形で使用されたことで、オペラの改革をもたらした。

モンドンヴィル Jean-Joséph Cassanéa de Mondonville(1711-1772)

バイオリン奏者で作曲家。ナルボンヌの生まれだが、1731年にはパリに定住し、1734年からコンセール・スピリチュエルにバイオリン奏者としてデビューしている。1738年にはヴェルサイユやコンセール・スピリチュエルでモテットが上演され、モテットの作曲家として知られるようになる。1739年には王のシャンブルと王室礼拝堂のバイオリン奏者に任命されている。1747年に『エリゴーヌ』がポンパドール夫人が出演してヴェルサイユで上演される。1752年夏に「ブッフォン論争」が起きると、フランス音楽派の作品として1753年1月に『ティトンとオロール』がオペラ座で上演される。1755年にロワイエの死によって、モンドンヴィルがコンセール・スピリチュエルの支配人となる。1765年にはキノーの台本に音楽をつけて『テゼ』を上演するが、彼のレシタティフはリュリのそれにくらべて平板だと批判され、失敗する。結局、生涯を通して一番評価されたのはモテットであった。

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