ルソーの音楽思想の形成(1)

−『近代音楽論究』の意義−


リヨンのマブリ家での家庭教師としての仕事に失敗し、1741年5月にシャンベリに帰ってきていたルソーは、この後もリヨンに何度か足を運び、家庭教師時代にできた知人との交遊を深めると同時に、『イフィスとアナクサレート』や『新世界発見』というオペラを作曲するなどの音楽活動も盛んに行っていた。
「シャンベリで『イフィスとアナクサレート』という題のオペラ悲劇を作ったことがあるが、分別よく火のなかに投じてしまった。リヨンでは別の『新世界発見』という題のを作った。これはすでに序曲と第一幕の作曲はできており、ダヴィッドはこの曲を見て、ブオンチーニに匹敵する箇所があると言ってくれたのだが、ボルド師、マブリ師、トリュブレ師やその他の人に読んで聞かせたのち、同じ処分をした。」(註1)
この時期シャンベリでの位置も不安定で、これ以上ヴァランス夫人のもとで彼女の世話になるわけにはいかないと感じていたルソーは、何とかして世に認められるような業績を上げたいと考えていた。そこでルソーが取り組んだのが数字による記譜法である。彼自身が楽譜を読むのに非常な苦労をしていたので、通常の楽譜では音符が調のなかでもっている位置を明確に表示していないことに気づいたルソーは、移動ドの方式によって音階名を数字で表すという、以前にも着想したことのある考えを実用段階にまで練り上げた。
7月シャンベリを立ったルソーは、しばらくリヨンですごして紹介状を書いてもらった後、パリに向けて出発し、8月中旬にパリに到着した。レオミュールの紹介で、8月22日に科学アカデミーで『音楽のための新記号案』を朗読する。この時審査員として出席していたド・メラン、エロ、ド・フーシは三つの異論を提出した。第一に、器楽にはポジション移動があるから、ルソーの方式は実践不可能で、有効であるのは声楽に対してだけであるという異論。第二は、この方式を採用すれば今までの楽譜の価値がなくなるから、そこまでしてこの方式を用いることはないだろうというもの。第三の異論は、この方式はフランシスコ派のスエッチ神父の真似であり、新しくないというものであった。
これにたいしてルソーは文書(註2)でこれらの異論に反論を試みているが、第一、第二の異論にたいしても的確な反論ができていないばかりか、おそらくルソーの方式のオリジナリティーを明確にする上でもっとも力を入れて反論すべきであった第三の異論に関しても、スエッチ神父をはじめとするそれまでの数字記号による記譜法がすべて固定ドの方式であるのにたいして、ルソーの方式は移動ドの方式であるという点を明確にしなかったために、三人の審査員にたいしてその反論はそれほどの説得力を持ち得なかったようである。
朗読から約二週間後の9月5日に審査報告が行われた。この場にはダランベールも出席していたし、おそらく音楽の専門家ではなかった審査員たちに代わって説得力ある批判をするように彼らから請われて、ラモーも出席していたと考えられる。(註3)
「私の方法に対する唯一のしっかりした反論は、ラモーによってなされた。私が彼に説明するやいなや、彼はその弱点を見抜いた。彼は私に言った。「あなたの記号は、音価を簡単で明快に確定し、音程をはっきりと示し、オクターヴを超えた複音程でもつねに単音程で示しているなど、普通の音符ではやれないすべての点では、大変優れています。しかし演奏の速さについていけないほどの、精神の働きを要求している点では、悪いのです。われわれの音符の位置は」と彼は続けた、「そんなに頭を働かせなくても、眼に対して描かれます。二つの音符があって、一つは非常に高く、一つは非常に低く、それが中間にある一連の音符で結びついていれば、その段階を追って、私は一目で、一方から他方への進み具合を眼で見ます。しかし、あなたの方法でこの連続を確かめるには、どうしてもあなたの数字を一つづつ拾って行かなければなりません。ちらっと見るだけでは、なんの補いにもならないのです。」この反論には返す言葉もなく思われ、私はすぐに同意した。」(註4)
9月8日にはアカデミーの証明書が授与された。そこでルソーは著述によってこれを世に問うことにし、『近代音楽論究』を執筆する。11月6日に出版の認可が下りている。(註5)
またこの時期にはロガン、ディドロ、フォントネル、ルリヴォー、カステル神父らと知り合いになって入るし、彼の記譜法による音楽の習得の実践例を示すためだけでなく、生活費を稼ぐ必要からも、音楽教師をしている。(註6)
『近代音楽論究』は1743年1月にパリのキヨー書店から出版された。アカデミーでの朗読のように時間的な制約がない分、主題が縦横に論じられている。以下、三つの点に絞って、『近代音楽論究』に表明されているルソーの音楽思想を検討していこう。

1.ルソーが依拠している音楽理論について
 『近代音楽論究』には数字による新しい記譜法を提示するという大きな目的があったことは当然のことであるが、注目すべきは数字による記譜法を構築するさいにルソーが依拠していた音楽理論である。ルソーの数字による記譜法の特徴は完全移動ドによる方法と言い換えることもできるが、それを支えている音にたいする彼の考え方は、ルソー自身の次の文によく表されている。

「すでに知られているように、自然のなかには、よく知られた個別の特性を持っていて、そのために何度聴いてもそれだと区別できるような音はまったく存在しない。たったひとつの音だけでは、それがラやレではなくてドであると確定できないし、その音だけを聞いているかぎりでは、あの音ではなくこの音だとあなたに断定させるようなものはなにも見つけることはできない。」(p.175)
ルソーはここで音名や絶対音感を否定しているわけではない。「たったひとつの音だけでは、それがラやレではなくてドであると確定できない」という表現でルソーが言おうとしているのは、音というものは、たとえばそれが今日で言うところの一点ハだということが分かったとしても、その一音だけではそれがドつまり主音であるのか、ミつまり上中音であるのか確定することができないのだから、その音は何の意味も持たないということである。音が意味を持つためには、音響体系がもっている一定の関係のなかに置かれなければならない。その関係とは、近代西洋音楽が無数にある自然の音響の中から選択してきり取ってきた一定数の音によって作られる網の目状の関係である(註7)。その基本は、共鳴という音響現象−ある音はつねに長三度と五度の音を伴うという現象−の結果として構成された自然音階である。自然音階はド(主音)、レ、ミ(上中音)、ファ(下属音)、ソ(属音)、ラ(下中音)、シ(導音)という関係によって構成される。この音階にはまったく同じ形の音階が上下方向に積み重ねられることによって、一つの音列が形成される。さらにこの自然音階のそれぞれの音を主音と見なしても、そこから同じように共鳴によって、上に挙げたのと完全に同じ自然音階が形成される。こうして12の音列が形成されるが、これは近代西洋音楽が用いる音のすべてである。これらのどれをとっても、ドからシによって構成されるオクターヴの積み重ねに過ぎないので、ある音がどの意味を持つかは、このオクターヴの中のどの音階に位置するかを示してやればいいということになる。そこでルソーは、ド−1、レ−2、ミ−3、ファ−4、ソ−5、ラ−6、シ−7というように算用数字によって自然音階を表すことを提唱する。どんな曲でも、この自然音階およびその各音に付随する変化音によって作られているわけだから、、誰もが最も良く慣れ親しんでおり、相互の関係が最も簡単に把握しやすい記号を用いれば、この自然音階のなかに占める音の位置と関係が最もよくとらえられる、というのがルソーの記譜法の最大のポイントである。
 ルソーのこの方法によれば、先ず一般に現代のピアノの白鍵によって表される音列がハ調として作られる。さらに調というのは、この自然音階および各変化音のどれかを主音にして、そこから同様に自然音階にもとづいて音楽を作ることを意味するわけなので、ファ(へ調)、ミ(ホ調)、ミ♭(変ホ調)、レ(ニ調)、ド♯(嬰ハ調)、ド(ハ調)、シ(ロ調)、シ♭(変ロ調)、ラ(イ調)、ラ♭(変イ調)、ソ(ト調)、ファ♯(嬰へ調)のそれぞれの音を主音とした場合の自然音階による音列がそれぞれできる。さらに、一般に音楽で使われるドから次のドまでを意味するオクターヴはひとつしか使われないわけではなく、実際には7オクターヴ(ルソーの時代には5オクターヴ)ある。したがって曲の最初の音が、どのオクターヴの音であるかを指し示すためにオクターヴの位置を表示することが必要になる。ルソーは、従来の音部記号を廃止して、そのかわりにオクターヴの位置を表示するためにA,B,C,D,Eを用いる。こうして、オクターヴのA,B,C...とそれぞれのオクターヴ内の1,2,3,4,5,6,7によって表示される横軸と、ファ(へ調)、ミ(ホ調)、ミ♭(変ホ調)...によって表示される縦軸とで作られる関係の網の目によって、近代西洋音楽において使われるすべての楽音が表示可能になる。
 ルソーの記譜法の重要性は、実践上の改革にあるよりも、近代西洋音楽の本質的な部分を明るみに出すという点にある。というのは、先に述べたような、任意の音を主音1とし、この音が共鳴させる長三度音と五度音を積み重ねることによって自然音階を導き出し、それに2から7までの数字を付けるという方法は、それらの数字が相互に持つ関係が近代西洋の音楽体系を構成するすべての音の生成と価値を反映しているという意味において、まさに近代西洋音楽の音響体系が、すでに出来上がった単位の集まりとしての体系ではなく、関係の中におかれてはじめて価値を有する価値体系であることを指し示しているからである。この点は、ルソー以外の固定ドによる数字記譜法はもとより、絶対的な音高を表示する通常の記譜法では、まったく不可能である。
さらに、どんな調の、どんな旋法の音楽であれ、主音を1という数字によって表すこの方法は(註8)、音階中の諸音がつねに主音や主和音を中心にして、これの支配の下に統一的な音程関係を形成する近代西洋における調性音楽をもっとも直接的に映し出している。調性音楽は、主音ないしは主和音を終止音(終止和音)とすることで、これらに支配的な位置づけを与え、それ以外の音や和音はこれらにたいする対立、経過、代理としての従属的な機能を与えることによって成り立っている。このような調性音楽の特徴を、和音の転回、和音の三度構成の原理、各和音の機能的な意義を整理することによって基礎づけたのが、ラモーである。ラモーの音楽理論を独学したルソーが、近代西洋音楽が内包する価値体系のしくみを把握するにいたったことは、たんなる偶然ではないだろう。
後で見るように、ラモーが提唱する12等分平均律に対して、ルソーは反対を表明しているにもかかわらず、ルソーの数字記譜法がラモーの和声学をベースにしていることを示す典型的な例は、和音を表記するのにルソーの数字記譜法が非常に優れているという点である。無数にあると考えられていた和音を協和和音と呼ばれる完全長和音と完全短和音、不協和和音と呼ばれる七の和音に整理したことがラモーの和声学の重要な成果でもあるが、とくにそれまで別々の和音だと考えられていた和音を根音バスという概念を用いることによって基本形とその転回形というように秩序立てたことはよく知られている。このことは、音名で言えばさまざまに異なっている和音も、基本的にはどの調でもごく少数の同じ和音に単純化されるということを意味している。しかし通常の楽譜では、音域が変わると音部記号が変わり、それに伴って五線譜の各線が持つ意味が変わるので、ト音記号譜の第一線上の音符はファなのに、ヘ音記号譜の第一線上の音符はソになるということが起こり、通常和音は複数の音部記号譜にまたがって表記されることもあって、どういう和音になっているか一目で読みとりにくいうえに、調が変わってシャープやフラットが音部記号に付いていたりすると、初心者にはどんな和音なのかを一目で解読することは非常に困難である。それにたいしてルソーの方法は、数字がつねに主音との関係を示していることから、たとえパート譜が並べてあっても、数字を見れば、どういう和音なのか一目で分かることになる。ルソーの数字記譜法ではつねに主音は1によって表わされるので、あるいはそれがどんな音部記号譜にあろうと、どんな調にあろうと、ド−ミ−ソという主和音は、1-3-5によって表される。またそれを転回しても、5-1-3、3-1-5というようにその和音が主和音の転回形であることが、一瞥するだけで了解できるのである。したがって、ルソーの数字記譜法は、ラモーが単純化した和音を表すのに最適な方法であると言える。(註9)
さらに、ルソーが『近代音楽論究』の末尾に置いた《全調・全音部記号表》という図表の組み方あるいは平均律にたいする態度を検討してみると、ルソーの数字記譜法が近代西洋音楽の体系が内包する矛盾をそのまま反映していることが、ここにもはっきりと見て取れる。ルソーの方法は、長三度と五度の共鳴を用いて自然音階を作っていることから類推すると、純正律をもとにしているようである。任意の音を基音としてもっとも協和度の高い音を求めるには自然倍音列を求めればいいと考えられている。しかしこの方法だと、イとヘ以外は非常に単純な振動比をもつ音が得られるが、第4度音であるヘは現われないし、イ音もやっと第27倍音として現れるに過ぎない。しかもこのイ音はピュタゴラスの6度音に等しく、それほど単純な比率(27/16)とは言えない。そのために自然倍音列をそのまま音律とすることはできなかった。またピュタゴラス音律では、隣接する音どうしの音程は比較的単純である(9/8)かわりに、ニ、ホ、イ、ロ音が複雑な振動比をもつことになる。そこで、ギリシャの音律論からすでに存在した調和分割の方法を用いて自然倍音列の不十分さを補ったのが、純正律である。純正律の基本的な原理は、自然倍音列の中から、3和音を構成するのに最も協和度の高い純正五度と純正長三度を組み合わせて、すべての音律を決定することである。具体的には,基音ハの上に三度ホと五度トを取り、次に第五度トの上にも同様に三度と五度を取れば、ロとニが得られ、さらに基音から下に五度を求めて第四度を得、ヘの上に三度を取れば、第六度イが選られる。これによると、主音、属音、下属音のうえにそれぞれ純正長三度と純正五度を重ねるので、これから作られる主要3和音は、すべて最も純粋な和音(4:5:6)を得ることができる。こうして得られた音律は、すべての調に対して適用されるから、転調に際しては新しい主音の上に新たにこの音程関係を作ることになる。したがって、調内部の音程は純正三度を保っている。こうして作られる純正律による音組織は、五度系列と三度系列を無限に重ねて展開されることとなる。ルソーが『近代音楽論究』で自然音階を導き出すのに用いた方法がこれである。(註10)
ところが、純正律には実際の運用に当たってはさまざまな困難があった。たとへば主和音は大全音+小全音+半音+大全音という組み合わせでできているので、ハ長調からト長調に転調したときに、そのままでは主和音が小全音+大全音+半音+大全音という組み合わせになり、イ音を1シントニック・コンマだけ上げてやらなければならない。最も近い関係調にしてこれなので、遠隔調へ転調したり、次々に転調する半音階法を使う場合には非常に困難になる。ピアノやオルガンのようなあらかじめ音が固定した楽器では12個の鍵だけでは結局完全な純正律を保つことができるのはハ長調だけということになる。
では無伴奏合唱や弦楽合奏ならこれらの難点も現れないで純粋な和音の保つことができるかというと、必ずしもそうではない。たとえば、不協和な五度(ニ〜イの五度だけ1シントニック・コンマだけ狭い)の存在が原因となって、和声の純粋さを保っていると音高が動く(一般には低くなる)という現象が生じる。たとへばド・ミ・ソ・ド ファ・ラ・ド レ・ファ・ラ・レ ソ・シ・レ ド・ミ・ソ・ドという和声進行を続けていると、レ・ファ・ラ・レの和音で五度を純正に響かせるためにはレが1シントニック・コンマだけ低くなり、それに影響されて、それ以降の和音が全体的に音高が下がってしまうからである。したがって、純正律は和音の純粋さを表しているが、実際の運用には向かない、一種の理想的基準であったといえる。
ある調の内部では、純正長三度と純正五度を保っている純正律こそルソーが、冒頭で自然音階の生成を説明するにあたって用いた方法であると考えられる。ところが、和音の純粋さを保つという要求と、音律を一定の枠の中に収めるという要求は結局矛盾しているため、ルソーが転調という実際の運用を問題にし、そのために最後に掲げたような《全調・全音部記号表》という図表を作成するにあたっては、平均律に依拠せざるを得なくなるのである。
この図表は、さまざまな調においてそれぞれの鍵がいかなる意味、すなわち階名をもつのかを一覧表にしたものである。ルソー自身も言っているように(註11)、ハ調のドは、変ロ調のレ、変イ調のミ、ト調のファ・・・という形で、すべての音階がどんな調でもぴったり1オクターヴ12個の鍵、すなわち12個の音に収まるという事態は、厳密には12等分平均律を用いることによってはじめて可能になる。長三度と五度を純正に保ちつつ、さらにあらゆる調に転調するということは、ピアノやオルガンといった鍵の固定した楽器では、12個の鍵では不可能である。バイオリンなど調節の可能な楽器でも、調によって、押さえる位置を微妙に変化させているのである。それは、言いかえれば、オクターヴが12個の固定した位置だけでは収まらないことを意味している。ルソーの方法は純正律をもとにした方法であるので、一つの調だけを問題にしているあいだは非常に優れているが、転調などによって調と調のあいだで音と音の関係が問題になるや否や、妥協として平均律に頼らざるを得ないのである。そこでルソーは本論の導入に当たって次のように述べる。
「まずはじめに、音を探求する場合、私たちは実践のためにのみ仕事をしているので、私たちの音楽に関係のない音は無と見なし、さらに平均律からもたらされる和音はすべて例外なしに純正であると考えて、広く採用されている平均律化された体系を構成する諸音だけを取り上げることにする。このような前提は通常の楽譜で認められている前提と同じものであるが、だからといって平均律化された体系によってさまざまな転調の効果として導入された変化がいささかも失われることはないということが、まもなく分かるだろう。」(p.176)
ではルソーの言うところの平均律とはどのようなものなのだろうか。
 ルソーは、それぞれの調がもっている音響心理学的特性について触れたときに、再度平均律について言及している。
 「音楽のさまざまな調がすべてそれぞれに固有の、そしてそれぞれを区別する特徴を持っているというのは、経験的な事実である。」(p.204)
 「どんな調でも同じ名称で表されるし、同じ音程で示される音のあいだには同一の関係があると認めるなら、これは非常に説明しにくいことである。
しかし、これらの関係には、組み合わせのもとになっている音にしたがって微妙な違いがある。そして外面的には非常にわずかなこの違いこそが繊細な耳にはだれにでも感じられるあの表現の変化を音楽において引き起こしているのだ。この表現の変化は、はっきりとしたものなので、演奏を聴きながら、いま何調で演奏されているのか分からないような音楽家はほとんどいないくらいである。」(p.205)
 「また、クラブサンのふつうの和音では、ソとラ♭のあいだの半音は、実際のものよりも少し小さい。ところで、半音を形成する二音を近づければ近づけるほど、そのパッセージは優しく感動的になる。(...)
このような方法で探求を続ければ、おそらく音や音程の関係に存在するこのような微妙な違いによって、音楽のさまざまな調によって引き起こされる感情の違いの理由を見いだすことができるようになるだろう。(...)ここでは一般的に言うだけにしておこう。すなわち、音を増やすことを避けるためには、同じ音を何通りかに利用しなければならず、うまくそうするには、音を多少変化させるしかなかったのであり、その結果、さまざまな音の関係ということで言えば、音は本来の正確さを失ってしまったのである。」(pp.205-206)
 長い引用になったが、ルソーがここで言及しているのは、それぞれの調がもつ特性に触れていることからも分かるように、長三度の響きを生かし、五度を小さくした不等分平均律の一種である中全音律のことである。純正五度を四回重ねてできるピュタゴラス音律の長三度は、純正三度よりもシントニック・コンマ広くなり響きが悪いため、五度を1/4コンマ音程ずつ狭くすることで、長三度を純正にしてある。五度よりも三度の響きのよさが優先されているのは、ルネッサンス期からのポリフォニー音楽の発達のなかで、三度が重視されるようになる過程で、形成されてきたからである。
純正律では全音に大全音と小全音の区別があったが、中全音律ではこの区別がなくなり、ちょうど真ん中の中全音(ミーン・トーンmean-tone)となる。中全音律では、短三度は、純正律よりも1/4コンマだけ狭く、逆に長六度、完全四度、全音階的半音、半音階的半音は1/4コンマ分だけ広くなっている。また、中全音律の全音階的半音は半音階的半音よりもかなり広くなっており(純正律における差は20セントであるのにたいして、中全音律では41セントもある。これは小ディエーシスと呼ばれる)、この音程差のため、今日用いられている12平均律のような異名同音的な扱いができず、12音鍵盤の5個の黒鍵はシャープがフラットのどちらかに調律せざるをえず、演奏可能な調の範囲は限られる。多くの調にまたがる場合には、協和すべき音が不協和な荒々しい響き(ヴォルフ)を出すことが多かったので、微妙な調節をした結果、ルソーも言及しているような、それぞれの調が固有の音響心理的な性格を持つことになった。
ルソーが用いている純正律ではどの調でもその音列の関係は相同性をもつので、ちょうど12等分平均律が引き起こすのと同様に、どの調でも同じ表現を持つことになる。そこで、中全音律がもつような音響心理学的な多様性をルソーの方法が消滅させてしまうという非難を想定して、ルソーは次のように中全音律を批判する。
 「第一に、平均律は真の欠陥である。これはそれ以上にはよい方法がなかったので芸術が和声にもたらした変化である。ある音の倍音が平均律化した五度をもたらすことはないし、(...)したがって、こうした欠陥を避けるのは誤りではないし、また楽器の欠陥に加担することなく、すくなくとも音楽の記号はそれらがもっている意味にかぎって言えば和声の純粋さを保持すべきであるのだから、なおさらのことである。(...)
 自然は、すべての調で正確な音程で音を動かすことを私たちに教えている。自然によって導かれた声は正確にそれを実践する。欠陥に満ちた実践に従うために自然が命じるところから離れなければならないだろうか。そして、楽器の長所のためではなく、欠点のために、すべてのなかで最も完全なものの自然な表現を犠牲にしなければならないだろうか。いまこそ、音の生成について私が先に述べたことをすべて思い出すべきである。そして、そうすることによってこそ、わたしの記号の使用が、自然の働きの非常に忠実で非常に正確な表現に他ならないということが納得されるだろう。」(pp.206-207)
ルソーがここで平均律と言っているのは不等分平均律の一種である中全音律のことである。ところで、上に引用した一節からするとルソーはたんに不等分平均律だけではなく、平均律そのものを否定しているようにもとれる。オクターヴ内のそれぞれの音を主音にしたときにできる音列は、ルソーの主張からすれば、それを総譜表にしたときに必ずしも重なり合うものではない。厳密には、純正律ではハ調の音列とその他の調の音列とはぴったりと重なり合うことはない。したがってそれぞれの調の音列はそれぞれの調の主音を出発点として音を取るというルソーの方法は、フレットをもたず、鍵が決まっていないヴァイオリン族のような弦楽器や声楽では有効な方法であり、近代西洋音楽の枠内では、たしかに自然を最も素直に反映した方法であると言えよう。しかし、《全調・全音部記号表》は、一つの鍵が同時に♯音と♭音を指し示すことができることを意味しており、これは純正律はもちろんのこと、中全音律でさえ厳密には不可能なのであって、12等分平均律を前提にして初めて成り立つものである。
12等分平均律は五度定律法によって純正五度音程を12回連続したときに生ずるピュタゴラス・コンマを解消するために、連続される五度をそれぞれ1/12コンマずつ狭くし、12回目の五度が最初の音に対してちょうど純正八度となるように整えられた音律である。調の音響心理的性格を重視するこの中全音律にたいして、オクターヴ内の半音を均等に配分することによって、ド♯とレ♭、レ♯とミ♭などを同音と見なすこの平均律は調の特性を消失させてしまうために没個性的であると見なされることが多かった。歴史的に見ると、理論としてはすでに16世紀からこの音律は存在したが、、ラモーが1737年の『和声の生成』で紹介して以降急速に普及し始め、18世紀の後半から一般的になった。オクターヴは12の等しい半音に等分されるので、大全音・小全音の区別、全音階的半音と半音階的半音の区別もなく、長三度を三つ重ねると純正八度となる。完全八度以外はすべて純正音程からずれており、完全四度、五度は純正に近いが、長・短三度はずれが大きい。異名同音といわれる音の間にはまったく音程差がないので、ピアノやオルガンのような固定した鍵盤楽器でオクターヴ内の鍵の数を最小にできる上、転調・移調が最も簡単に可能になる。ラモーは12平均律を重視して、調独自の性格を否定した。彼は、和音のニュアンスが均質になるという12平均律こそ優れているとして肯定的に評価した。ラモーは、音響心理的性格は、音律によって決まるのではなく、根音バスの動きによって確定される和音が生じさせるのだと考えたのである。(註12)
 ルソーの記譜法は、音列の生成にあたっては純正律をもとにしていながら、その実践においては12平均律に最もかなった体系であるという意味において、二面性を持っていると言えるだろう。純正律は実践には向かない理論的理想であって、そのために議論が具体的になればなるだけルソーは12平均律のほうを押し進め、ぞれぞれの調がもつ音列の独自性のほうは捨象してしまうことになる。それは、転調の表し方を見れば分かる。ルソーによれば、たとえばハ調からト調に転調する場合、solと記すだけでなく、ト調の主音であるソが、ハ調のなかの5の数字で表されていた音に相当することを示すために5をその下に記入するとしている。これはまさにそれぞれの調の音列が独立しているのではなく、12平均律にもとづいて相互に連関し合っているというということが前提になっていなければならない。
したがって『近代音楽論究』のルソーが依拠していたものは、平均律にたいする彼自身の否定的な評価にもかかわらず、近代西洋の音楽が12等分平均律という形で自然の音響から切り取ってきた関係の網の目とそこに支配している和声体系であったと言えるだろう。
しかしながら、同時に次のことも確認しておかなければ片手落ちということになる。すなわち、それぞれの調がそれぞれの自然音階を持っていると考える調の独自性という見方をもしルソーが徹底的に押し進めて考えていたなら、平均律はとうてい容認することができなかったはずだし、平均律のもとになっている近代西洋の和声体系の否認にさえ行き着くことになっていただろうということである。なぜなら、ルソーが自然に最もかなっていると考えて用いた五度進級という方法を徹底すれば、オクターヴが閉じなくなり、オクターヴの同一性そのものが破綻するのをはじめとして、プレイアッド版の注釈者も指摘しているように、「平均律、最初のドの恣意的な選択、基音をレにしたときの三度のファは実際にはファ♯であることなど、ルソーが彼の方法を完全に自然に根拠をおくものだと言うのが正しいためには、自然法則にはあまりにも例外が多すぎる。」(註13) したがって、ここで前提になっているような音響理論は、ルソー自身が平均律を便宜上の必要性として認めたさいに述べているように、自然が共鳴によって生成するさまざまな音の中から、平均律という網の目に引っかからないでこぼれ落ちた音はすべて「無と見なし」ているのであり、近代西洋に固有の「合理化」によって成り立っていることを認めざるを得ないのである。近代西洋の音響理論とそれにもとづく和声理論は決して生の自然を映し出しているわけではなく、多くの部分を捨象することによって成り立っているという相対性の認識は、後年のルソーが到達することになるが(註14)、そのような認識の契機がすでにこの時期のルソーのなかに存在したことは十分注目に値する点である。

2.ギリシャ音楽に関するルソーの知識と見方
 つぎにギリシャ音楽にたいする評価の問題に移ろう。ルソーは『近代音楽論究』の冒頭で、グイド・ダレッツォこそがギリシャ以降続いていた数字による記譜法を廃止して、今日のような複雑な楽譜のもとを作ったのだと非難した箇所で次のように述べている。

 「グイド・ダレッツォが楽譜で用いられていた文字をすべて廃止し、それらに代えて今日使われている音符を思いついたとき、楽譜がどんな状態にあったかを正確に知るのは容易なことではない。ありそうに思えることは、これらの最初の記号が、古代ギリシャ人たちがあの驚異的な音楽を表現するのに使っていたのと同じものであったことである。その音楽には、人がなんと言おうと、効果の点で私たちの音楽はけっして近づくことはないだろうし、また確かなことは、グイドが音楽にたいしてかなりの害を与えたこと、...」
 「ギリシャ人たちのアルファベット文字が、同時に彼らの音楽の記号であり、算数の数字であったことは疑いない。したがって、言葉のあらゆる変化、数字のあらゆる関係、音のあらゆる組み合わせを表現するために、彼らは全部あわせても24個にしかならない一種類の記号しか必要としなかったのである。この点で、不必要なほど多様化した多数の記号で自分たちの想像力を悩ますのを余儀なくされている私たちよりも彼らははるかに賢明であり、あるいは幸福であった。」(p.168)
 ルソーがこの著書のなかでギリシャ音楽について触れているのは、この箇所だけであり、しかもわずかな行数なので、ルソーがギリシャ音楽にたいしてどの程度の知識を持っていたのかを正確に知ることは困難であるが、ここで言及していることから判断するかぎりでも、ギリシャ音楽=驚異的な音楽、単純な記譜法=賢明、幸福と、現代音楽=複雑な記譜法、音楽の完成=不幸を対立させるという図式で、ルソーが古代ギリシャ音楽とルソーが生きていた近代西洋音楽を比較する視点をもっていたことが読み取れる。古代ギリシャと近代のこのような対比は、『学問芸術論』における古代ギリシャの都市国家と近代社会の対比を思わせるし、また、グイド・ダレッツォまではギリシャの記譜法が維持されていたのに、グイドがそれを変えて、害を与え、それ以降音楽が複雑になったという見方は、『言語起源論』における音楽史の見方によく似ていると言えよう。ただこのような評価は、後年のルソーの位置から見て言えることであって、ギリシャ音楽が「驚嘆すべき音楽」であったというのはルソーの時代に一般的に知られていたことであったということを考えるなら、早急な判断は避けなければならない。
 つぎに引用する箇所はギリシャ音楽に関するものではないが、音楽の完成は人間にとって幸福を意味しないというルソーに固有の逆説的な考え方を表している。
 「私たちが、こうした欠陥にたいする解決策を見いだすことが可能なのは、楽譜の進歩を吟味することによってである。二百年前には、この技法はまだはなはだ大雑把であった。全音符と二分音符が、そこで用いられていたほとんど唯一の音符であって、八分音符がひたすら恐怖を持って眺められていた。これほど単純な楽譜だったので、実践においてはそれほどの困難を引き起こすことはなかったし、その結果記号の点で楽譜に明確さを与えるためにたいした配慮をすることもなかった。小節を分けることもなおざりにされていて、音符の形でそれを表すだけでよしとされていた。この技法が完成するとともに、さまざまな困難が増えるにつれて、音符があまりにも多様なので、小節を区別するのに困った状態にあることに気づいた。そこで縦線によってそれを分け始めたのである。つづいて拍を容易にするために、八分音符をつなぎ始めた。」(pp.216-217)
 音楽の完成が、楽譜の困難を増大させたという見方に、あるものの完成=別のものの腐敗という『学問芸術論』のルソーの歴史観を見て取ることができるのではないだろうか。
たしかに、後年ルソーが到達する音楽思想の萌芽がここにみられるからと言って、それを過大に評価することは慎まなければならないが、少なくとも断言しうることは、『近代音楽論究』のルソーには、後年のルソーに向かう思想的ベクトルが存在したということである。

3.音楽の内容と表記(記譜法)のあいだの不透明性
 『近代音楽論究』を見る上での第三のポイントは、音楽の内容と表記(記譜法)のあいだの不透明性についてのルソーの執拗な言及である。これはたんに執拗に言及されているという程度のものではなく、ルソーに『近代音楽論究』を書かせることになった問題意識がここにあるとさえ言える。
 『近代音楽論究』の序文でルソーは数字記譜法の目的を二つ挙げて、次のように述べている。

「第二の、最も重要な目的は、音楽がいままでは人を尻込みさせてきただけに、それだけ習いやすいものすること、表現内容を削ることなく記号をもっと少なくすること、そして理論と言っても大したものでなくなるように、また実践の上手い下手は、けっして音符の難しさのせいではなく、声の出し方の上手い下手次第になるように規則を簡略化することである。」(p.160)
ルソー自身もそうだったように、楽譜の記号が非常に多く複雑であるために、音楽の修得に時間と忍耐が必要とされることから、彼は「実際のところ、これほど多くの五線、音部記号、移調、(...)などは多数の記号やその組み合わせをもたらし、そこから多くの面倒や不都合が生じてくる。だが正直なところ、こうした不都合とは何だろうか? それらは音楽自体から直接生じるものだろうか? それとも音楽の表し方がよくないからなのだろうか?」(Ibid., p.173)と問う。ルソーは現行の楽譜は解読が難しいために、楽譜によって表現されている音楽を声または楽器によって表現する能力はあるのに、楽譜の解読が障害となってそれを表現するというところまでに到達できないという現象を重視する。ルソーに言わせれば、現行の楽譜やそれまで試みられてきたさまざまな楽譜の最大の欠点は、「これらすべてが眼に対してはなにも語りかけることがなく、またそれが意味しなければならないものと何の関係ももたないことである」(pp.170-171)と、このような現象の根本原因が表現内容と表現手段の不透明性にこそあることを指摘する。
 ある音がある曲のなかでもっている意味をあきらかにするとは、それがどういう和音のなかのどの位置を占めている音なのか、またどういうフレーズのなかのどの位置を占める音なのかということを明らかにすることであろう。これこそ、作曲する側も、それを演奏する側も注意を向けなければならない点である。。なぜなら、「音の選択に際して作曲家の想念はつねに主音と関連しており、たとえば作曲家がファ♯を使うのは鍵盤のある鍵としてではなく、その基音とこれこれの和音ないしは音程を作るものとしてなのである。そこで、もし演奏家が諸音をこれと同じように考察するなら、音を次から次へとばらばらに鳴らすだけで、目の前にある音符の位置関係も、絶えず念頭においておくべき多くのシャープやフラットの位置関係も何ら関連づけることがなく、それらの依存関係も何ら考えないような場合よりも、もっと正確な音程が作られことになるだろうし、もっと正確な演奏がなされるだろう」(p.227)からである。
 では、それを実現するには楽譜はどういうものであるべきなのだろうか?ルソーは音符による楽譜と数字による楽譜とを比較して、「違いは、数字の方式では、音程あるいは音程を構成する二音の関係は、一回見ただけで正確に分かるのにたいして、普通の楽譜では、眼によって上行するのか下降するのかは分かるが、それ以上のことはわからないという点」(pp.169-170)にあると指摘するが、なぜ数字では「楽音と楽音の全関係」を表すことが可能なのか? この問題にルソーは次のように答える。
 「そして私は敢えて言うのだが、人々は楽音とそれらの全関係を表すために、数字以外に自然で適当な記号をけっして見つけられないだろう。この本を読む過程でその理由は幾度となく知ることになるだろうが、さしあたっては、数字は数に与えられた表現であり、数それ自体が楽音の生成の指数なので、さまざまな楽音を算用数字によって表すこと以上に自然なことはないということを指摘しておけば十分であろう。」(pp.170-171)
 ここでルソーが言う「数それ自体が楽音の生成の指数」であるとはどういうことかについては、すでに上で見たとおりである。任意に選ばれた主音1が、2.3.4.5.6.7という自然音階を生成し、さらにこの自然音階上のそれぞれの音が主音となって、新たな自然音階を生成させる。それゆえに、その関係を表す数字こそが、その背景にある音の全体系をもっとも正確に反映している。つまりルソーの記譜法を学ぶことは、そのまま近代西洋の音楽体系の生成、構造を学ぶことになるということである。
 以上のように、『近代音楽論究』を書かせるにいたったルソーの問題意識は、音楽における表現内容と表現手段のあいだにある不透明性批判であり、またそれを克服するために作曲する側から見れば音楽によって表現したい内容をそのまま記号化できるような楽譜、また演奏する側から見れば記号から音楽の内容が透けて見えるような楽譜を数字記譜法によって確立しようとしたことにあるのは、明白であろう。ルソーが生涯にわたって、このような意識内容と表現手段のあいだの不透明さに苦しみ、直接性を渇望したことは、スタロバンスキーの研究をはじめとしてよく知られているところであるが(註15)、そのような問題意識はすでに『近代音楽論究』のなかに存在したのである。

4.最後に
『近代音楽論究』は数字による新しい記譜法を提案するという実践的な意義を持っているだけではない。結論から言えば、そこで問題になっているのは、記譜法ではなく、エピステーメーである。複数のパートに分かれる通常の楽譜を初見で読むにいたらなかったルソーは自分の無能力を受忍するかわりに、、音響の実際とそれを表現する楽譜のあいだにある不透明さのほうを拒否し、記譜法のほうに直接性を要求するという思想的反転をとおして、近代西洋の音楽を成り立たせている音響構造がもつ体系性・関係性を顕わにする方向へと進んだ。ルソーが『近代音楽論究』で提示したような音響体系、すなわち長三度と五度の積み重ねと平均律によって形成される近代西洋の音響体系は、そこに示される生成過程からはみ出た音をすべて排除することによって成り立っているという意味においても、さらに個々の音の持つ価値はこの関係性のなかに置かれて初めて顕現するという意味においても、まさに恣意的な価値体系にほかならない。確かに『近代音楽論究』のルソーはこれを古典主義時代の西洋にのみ固有の認識体系であると捉える相対性の視点は持ち得ていないが、ルソーが透明な記譜法を求めて、このような古典主義時代の西洋に固有の認識体系を把握するにいたったという点や、近代西洋の音楽を古代ギリシャ音楽との対比において相対化して見ている点などを考え合わせるなら、『学問芸術論』を予告するようなエピステモロジックな問題意識をもったルソーをここに見たとしても、決して間違ってはいないだろう。
  

《註》
 使用したテキストは以下の通りである.Jean-Jacques Rousseau, Oeuvres Completes, tome I-V, Paris, Gallimard(本文中及び註のなかでは,OCI-Vと略す), Correspondance Complete de J.-J. Rousseau, Edition critique, etablie et annotee par R. A. Leigh, Oxford. Encyclopedie ou Dictionnaire raisonne des Sciences des Arts et des Metiers, Compacte edition, Pergamon Press. 『近代音楽論究』からの引用は、本文中にページ数のみ記す。訳出に際しては、白水社版『ルソー全集』を参考にした。
註1.『告白』 OCI., p.294.
註2.Correspondance Complete de J.-J.Rousseau, tome I, no. 49.
註3.ダランベールが出席していたことに関しては、プレイアッド版の解説を見よ。(OCV., INTRODUCTIONS, p.LXII. )
註4.『告白』 OCI., p.285.
註5.OCV., INTRODUCTIONS, p.LXI.
註6.『告白』 OCI., pp.286-287.
註7.「同一の音が、別の和声的な連続のなかに取り込まれると、性質を変え、別の効果を生みだすのは、楽音というものが内在的な特性をもつ孤立した実在物ではないからである。楽音の真の特性は純粋で単純な音の放出とか聴取のなかにあるのではなく、音の相互的関係、水平的・垂直的な組み合わせ、音程の相対的な差異のなかにある。音楽はなによりも、一定の関係の総体として姿をみせるので、その本性を理解しようとするひとは、音楽を関係の網の目としてとらえ、一つの文法として全体をひとわたり見渡せていなければならない。(C. Kintzler, Jean-Philippe Rameau, Splendeur et naufrage de l'esthetique du plaisir a l'age classique, Deuxieme edition revue et augmentee, Minerve, 1988, pp.30-31)
音は関係の網の目の中に置かれて始めてその価値をもつということを、ラモーはルソーとの論争において、和声が音楽の土台であり支配者であることを示す例として、和声が変われば旋律の価値が変わるという指摘によって説明している。
「ある音程が同じ和音あるいは同じ旋法の二つの和音のなかにあるとすると、その効果には、俳優の助けによらなければ、特別なものはなにもない。例えばド ファ♯という音程は呼びかけ、問い掛け、感嘆、断定、否定などの役に立つことができるが、しかし旋法が音符ごとに変わるとき、まさにこのような場合に、同じ二音によって作られる同じ音程に、そこに連続する二つの旋法のあいだの関係が変わるのと同じだけ表現が変わるのが感じられる。というのは、このような表現というものは、パッセージが上に五度になるか下に五度になるかによって、また旋法が長旋法か短旋法かによって、状況にふさわしいテンポによって助けられることで、優しさ、悲哀、陰鬱、醜悪、喜び、快活、威嚇、激怒、恐怖の性質を帯びるからである。」(Rameau, Erreurs sur la musique dans l'Encyclopedie, 1755, Broude Brothers Limited, New York, 1969, pp.52-53)
註8.短調に関しては、「短調の倍音を聞かせるような音は見られないので、私たちは、短調は絶対的な基音はまったくもたず、また短調が存在しうるのは、その生成のもとになっている長調とのあいだに持つ関係によってである」(『近代音楽論究』OCV., p.181)という考えから、特別な数字は与えられず、長調と同じようにラは6で、ドは1で表示される。(Ibid., pp.193-194)
なおルソーは短調に関して註でラモーの『和声論』と『理論的音楽の新体系』を参照するように指示している。ラモーは『和声論』の12頁で、ド−ソという五度は長三度ド−ミと短三度ミ−ソに分割されるが、これを入れ替えれば、短調に固有の五度である短三度+長三度が得られると説明している。しかしChailleyも指摘するように、ルソーの記譜法のもとになっている体系ではどの音もどの和音もつねに主音と関連づけて考えられるべきであり、ド−ミ−ソという和音はド−ミとド−ソとに分解されるのでなければならない。したがって、このようなラモーの方法は、ルソーの方法とは相容れないはずである。(Jacques Chailley, "Pour une lecture critique du premier chapitre de la Generation Harmonique", in Jean-Philippe Rameau, Colloque international a Dijon en 1983, Champion-Slatkine, 1987, p.283)
註9.ルソー自身和声を明確にする点で彼の記譜法が非常に便利であると述べている。(OCV, p.213)
「彼らはこの方式を使うことでこれがいかに多くの利点をもっているかを感じるだろうが、とくに和声を明確にすることには大変な利点があるので、たとえ私の方式が実際に流布することがなくても、個人用や生徒の教授用にこれを使わないで済むような作曲家はいないと、私はあえて言いたいのである。」
おそらくルソーはこれをラモーが考案した伴奏譜のための数字符号から着想したのだと考えられる。『百科全書』の《数字符号を付ける》でルソーは次のように説明している。
「個々の和音を指示する数字は、通常、和音の名称に合った数字である。たとえば、二の和音は2で表され、七の和音は7で、六の和音は6で表される。二重の名称をもち、それゆえに二重の数字を持つ和音もある。六四の和音、六七の和音、七六の和音などである。ときどき三つの数字を付けることもある。これは本来避けるべき不便を与えることになる。しかし数字の組合せはよく考えられた研究からよりもむしろ、時代と偶然から由来するので、欠点や矛盾があっても驚くほどのことではない。」
「ラモー氏は、その『伴奏方法論』のなかで、既存の数字符号に多数の欠陥があることを明らかにした。彼は、数字符号の数が多すぎるのにもかかわらず、不十分で、不明瞭で、曖昧であることや、数字符号が和音の数をいたずらに増やしていることや、しかしどう見ても和音の関係がまったく明確でないことを指摘した。」(Encyclopedie, tome I, pp.334-337)
ここで使われる2とか7とかの数字は音階における位置を示しているのであり、まさにルソーの数字記譜法と同じ使い方である。
註10.『近代音楽論究』 OCV, p.177を見よ。また、ルソーは『音楽辞典』の《音列 Echelle》で純正律の比率をもつ音階を「自然な」音階として提示している。(OCV, pp.786-797)
<
註11.「垂直の線が示していることは、同じ線でつながっている音符はどれもつねに同じ鍵上にあるということで、その鍵の自然音階での名称は(それがある場合には)、第六列[つまりハ調]に....あるということである。」(『近代音楽論究』OCV., p.251)
註12.ラモーがこの12等分平均律を主張したのは1737年の『和声の生成』からで、『和声論』では、中全音律をもとにして平均律を論じている。ルソーもラモーのこのような変化について『百科全書』や『音楽辞典』の《平均律》で指摘している。
「オルガニストやオルガン製作者はこの平均律を利用しうる最も完全なものと見なしている。実際自然音はこの方法によって和声のあらゆる純粋さを得ているし、それほどひんぱんでない転調を形成する移調された音は音楽家がより明確な表現を必要とする場合に大きな材料を提供する。というのは、われわれは音程から、それらの異なった変化音に応じて、異なった印象を受け取ることを注意するのはいいことだと、ラモー氏は言っている。例えば、本来われわれに喜びを喚起する長三度は、広すぎると怒りの観念まで刻む。また優しさや甘美さをわれわれにもたらす短三度は、それが狭すぎると、われわれを悲しませる。
巧みな音楽家は、と同じ著者は続けて言う、音程のこのような異なった効果を的確に利用することを知っており、そこから引き出す表現によって、一般には非難されるような変化音を目立たせるのである。
しかし、ラモー氏は、その『和声の生成』で、全く別のことを主張している。彼は現在の慣用に対する自分の尊大さを自己批判している。彼が以前に打ち立てたものを全て破壊し、オクターブの両側の間の12の比例中項という定理を提示する。」(OCV., p.1110)
註13. "Introductions" par Kleinmann, OCV.,p.1396.
註14.「音響と理論の体系による音楽の限界のたいする拒絶は、(...)伝統に対立する(...)認識論的立場と結果として持つことになる。(...)伝統にとっては音楽はひとつしかない。反対に、ルソーは何度も繰り返して音楽体系の相対性と耳の文化的条件付けに言及した。理論の相対性をルソーは通時的なものとして断定し、(...)こうして長い間古典的な和声理論を普遍的理論と勘違いさせてきた概念に反対した。彼は空間的にも理論の相対性を断定する。(「地球上のどんな民族もすべてそれぞれの音楽を持っている」)こうして二十世紀のなかほどまで、西洋によって基準化された音楽言語の普遍性を要求してきた音楽的民族中心主義に反対する。さらに、自然の普遍原理として古典的和声を押しつけるラモーの理論を拒否し、力学的物理学によって構築された自然のイメージに対応した自然法則というデカルト的概念を信じないルソーは、音楽の普遍的な自然法則という概念を疑う。」(Marie-Elisabeth DUCHEZ ; "Modernite du discours de Jean-Jacques Rousseau sur la musique", in Colloque international du deuxieme centenaire de la mort de J.-J. Rousseau, Jean-Jacques Rousseau et la crise contemporaine de la conscience, Beauchesne, B.A.P.29, 1980,pp.272-273)
註15.Duchezは、音楽理論におけるルソーの不透明性批判に言及している。
「ルソーにとって、理論やそれを表す記譜法は音楽と人間、音響の変化と感性的効果のあいだの不透明な仲介物である。それらは、音楽の本質を物理的精神的音楽現象から乖離した抽象のなかに隠してしまう。」(Ibid., p.270)
[初出掲載誌 大阪千代田短期大学紀要第26号(1997年12月)]

戻る

inserted by FC2 system