ルソーの音楽思想の形成(2)

− 『イタリア・オペラとフランス・オペラに関する手紙』をめぐる問題−


1.はじめに

1743年1月に出版された『近代音楽論究』はたいした反響も引き起こさなかった。二・三の書評が載ったりしたが、この方法の斬新さを見抜いたものはなかった。訪問の数も減ったが、マリヴォー、マブリ師、フォントネルだけはときどき訪問した。ルソーは彼らとの会話を通して、この時期のオペラに関する議論に詳しくなったに違いない(註1)。5月の末から6月中旬にかけて、ロワイエ作オペラ・バレー『恋の力』を見たルソーは、『優雅な詩の女神たち』を書き始めるが、完成しないうちに、7月には急遽フランス大使の秘書としてヴェネチアに赴いた。
しかし、翌1744年には大使のモンテギュとたびたび衝突するようになり、8月にはついに秘書の職を辞して、パリに帰ることになる。10月に帰国した後、再びデュパン家に出入りするようになったほか、ラモーが音楽監督をつとめるラ・ププリニエール家にも出入りするようになる(註2)。当時、ラモーはラ・ププリニエールの邸宅に住むほど、この徴税請負人とその妻から庇護を受けていた。頻繁に両者が顔を合わせたことは疑いない。1745年の3月にテレーズと知り合い内縁関係になる。この頃から、『優雅な詩の女神たち』の作曲に本格的に取り掛かり、7月9日に完成する。9月にはラ・ププリニエール邸で部分演奏が行われ、ラモーは酷評するが、他の人びとには好評を得たため、さらにボンヌヴァル邸で、リシュリュー公を迎えて公費による全曲演奏がなされる。公の喝采を得る。公の忠告に従い、タッソーのかわりにヘシオドスを主題にする幕にとりかかる(註3)。ところが10月初旬に、先の演奏から文学および音楽の両分野におけるルソーの才能を認めていたリシュリュー公より、ヴォルテール・ラモー合作のコメディー・バレー『ナヴァールの王女』の改作『ラミールの饗宴』の修正の依頼を受ける。そこで急遽それを引き受けることになり、詩と音楽に手を入れる。12月22日ヴェルサイユにて『ラミールの饗宴』が上演される。しかしラモーとラ・ププリニエール夫人による妨害に疲れ果てて、ルソーは寝込んでしまう。
さて、問題は次に取り上げる未完の書簡論文、発見者のヤンセンによって『イタリア・オペラとフランス・オペラに関する手紙』というタイトルを与えられた書簡論文がいつ、どのような経緯で、どのような目的で、誰に宛てて書かれたのかということである。この点について最も最新の仮説は、プレイアッド版の解説者オリヴィエ・ポによるものである。1751年にグリムに宛てて書かれたというヤンセンの仮説が長い間なんの根拠もなく信じられていたが、これを説得力のある根拠によって根本からひるがえしたのがボー=ボヴィであった(註4)。ポの解説は、ボー=ボヴィの仮説を二点にわたって修整したものである。まず手紙の相手に関しては、ボー=ボヴィはリヨンで知り合ったマブリ師ではないかと見ていたが、ポによると『オペラに関する考察』などを書いているサン=マール(ポによれば、パリ国立図書館はマブリ師の著書だと言われている『オペラに関するP...侯爵夫人への手紙』(1741年)もレモン・ド・サン=マールのものと見なしているようである)だということである。また執筆時期についても『シンナ』のついて触れていることから、『シンナ』が上演された1744年12月からラモーに『優雅な詩の女神たち』を中傷された1745年9月までのあいだに絞り込まれている(註5)
本論では、この書簡論文のなかで展開されるルソーのオペラ観が、リュリによるフランス・オペラの創始から18世紀前半において確立されてくるオペラ観のどのような立場に位置するのかをみきわめ、さらにルソーの名による最初の音楽美学の表明であった『フランス音楽に関する手紙』との比較によってこの書簡論文をルソーの音楽美学のなかにどのように位置づけるべきかを検討したいと考える。

2.オペラ観概観
フランスの18世紀の舞台芸術のなかで、オペラは特異な位置づけを確立していた。リュリとキノーは1673年に最初の音楽悲劇『カドミュスとヘルミオーネ』を上演して以降、毎年のように音楽悲劇を上演したが、それは古代派と呼ばれたボワロー、ラシーヌ、コルネーユ、ラ・フォンテーヌ、ラ・ブリュイエールたちからは評価されなかった。彼らは、音楽には言語ほどの明確な意味作用や表現力がないし、音響現象と心理的分析のあいだには明確な相関関係が成り立ち得ないとするデカルトの主張にもとづいて、オペラにはせいぜい曖昧な感情や印象程度のものしか与えることができないと主張して、悲劇や喜劇と同等の地位をオペラに認めることを拒否していた。それにたいして、ペローをはじめとする近代派は、オペラのために第三の舞台芸術としての位置づけを要求した。それによれば、オペラが悲劇のように精神によって理解されることから排除されているなら、オペラを眼と耳のための不思議と驚異のスペクタクルとすることで、悲劇でも喜劇でもない第三の舞台芸術にしようというものであった。その結果、悲劇は魂、喜劇は精神、オペラは感覚を対象とするという分類ができあがっていた(註6)
18世紀の初頭、ラグネとヴィエヴィルの論争(註7)の頃になると、リュリの評価が高まりつつある。リュリの音楽がもつ単純さや自然さこそ心情にまで達するフランス音楽(オペラ)の原点であり、全ての音楽家が参照すべき手本だとされる。ヴィエヴィルがしたように、リュリの音楽は、ちょうど悲劇における古代のような位置づけを与えられるようになる(註8)。他方、リュリの音楽=フランス音楽は情念の音楽であるのにたいして、イタリア音楽=装飾の過剰・複雑=感覚の音楽であるという対比が確立してくる。まさにリュリの音楽を擁護するものが古代派で、イタリア音楽を支持するものが近代派といった奇妙な位置のずれが生じた(註9)。またこの時期には、フランス音楽とイタリア音楽の特徴をそれぞれの言語の特徴から説明しようとする動きが生じる(註10)
さらに、1719年には古代における演劇の問題に新しい照明を投げかけたデュ・ボスの『詩と絵画に関する批判的考察』が出版される。デュボスは第三巻で、アリストテレスの言う悲劇の一部としての歌とダンスとは、今日の意味での歌でもダンスでもなく、実はたんなる朗唱と身振りに他ならないということを明らかにすることによって、古代にはオペラは存在しなかったことを証明した(註11)
さらに18世紀中頃のマブリやレモン・ド・サンマールの頃になると、オペラは新しいジャンルのスペクタクルとしての地位を確立しており、その原理を確立することが問題となる。オペラは古代には存在しなかったまったく新しいジャンルであることが確認される。それと同時に、近代音楽には古代音楽が持っていたような驚異的な力は失われていることを認めることによって、歌詞が音楽を補うものとして位置づけられる(註12)。オペラは、音楽と歌詞の両方によって、はじめて情念を動かすのに必要不可欠なレベルに達するので、オペラのテキストに悲劇のテキストと同じ充実性を求めるべきではないということになる(註13)。そこから、音楽に関しては、歌詞を押しつぶすような過剰な和声や伴奏にたいする否定的評価(ラモー批判)が出てくるし、テキストに関しては、音楽と相容れない主題(政治・軍事など)が否定され、ギャラントな主題にたいする評価の動きが生じてくることになる(註14)

3.ルソーのオペラ観
この書簡論文の冒頭から、ルソーは上に述べた新旧論争での議論を念頭に入れて、近代派としての立場を表明している。

「アリストテレスもホラティウスも私たちにオペラの規則を与えてくれなかったのは、 オペラにとって不幸なことです。もしそうでなかったら、現代のギリシャ人やローマ人た ち[古代派のこと・・・引用者]もオペラについてこれほどの軽蔑をもって語ることはなか っただろうと、私は想像するのです。ボワローはあのような暴論からオペラを引き出し、 彼の『詩法』のなかで名誉ある地位を与えたことでしょう。ラ・ブリュイエールはやはり オペラには退屈したにしても、きちんとその理由をわきまえていたことでしょうし、ダシ エは批判を称賛に変えて、この魅力的なスペクタクルの愛好家たちに向かってまった く陳腐な皮肉をそれほど言わなくてもすんでいたことでしょう。」(OCV.,p.249)
この一節は近代派としての立場の表明であると同時に、ルソーが、オペラというものは古代には存在しなかったジャンルであり、それゆえにこのジャンルの規則を明らかにするために古代を参照することは意味のないことだ、と考えていたことを示している。音楽における美学の問題を考える際に古代ギリシャ音楽を純粋状態としてつねに参照することになる『フランス音楽に関する手紙』以降の議論の仕方との違いは、まずここからも明瞭である。
ルソーは、オペラを第三のジャンルとして定義したペローにならって、オペラは悲劇、喜劇と並ぶ第三のジャンルであり、前者二つのジャンルが演劇として共通の規則をもっているだけでなく、それぞれが固有の規則を持っているように、オペラもそれ固有の規則を持っていると述べる(OCV.,pp.249-250)。それでは第三のジャンルとしてのオペラにはどのような個有の規則があるのだろうか。オペラのテキストと音楽の二つの側面から検討してみよう。

3−1.オペラのテキスト
ルソーはオペラのテキストに関して、オペラは音楽とテキストの両方でひとつの全体を形成すると考え、そこから次のようないくつかの規則を引き出している。まず何よりも「オペラは歌われなければならず」(OCV.,p.251)、音楽が大前提である。この歌うということと調和しないものは真実らしさを損なう原因になるので、排除の対象となる。したがって、第一に、オペラのテキストは理屈や政治的な議論を含むような会話は向いておらず、ギャラントな言語的素材に限定されるべきである。そのためにも、第二に、そのような言語的素材に適合する神話や伝説のなかの《ギャラントな恋愛》や驚異が主題として選ばれるべきである。
ルソーはこのような観点から、キノーのテキストを評価している。

「キノーは悲劇も喜劇も作りませんでした。彼は第三の芝居を創案したのです。彼は まさにオペラを作ったのです。音楽で会話をするという滑稽さを観客に隠すには、たっ た一つの方法しかないということを彼は感じたのです。つまり、彼らの心を奪い、魔法 の世界、妖精の国に運び去り、意外さや驚異の力で彼らを幻惑させるしかないという ことです。(...)この配慮に、彼はオペラをまったくきちんとしたのものに仕上げるもう一つ の別の配慮を付け加えたのでしたが、それは、もともと歌を伴う主題しか使わないとい うことです。生け贄、降神術、公共の祝い、雅やかな饗宴、戦いの叫び、勝利の歌(...) 」(OCV.,pp.251-252)(註15)
ここには、ルソーの考えるオペラのドラマトゥルギーのすべてが集約されていると言っていい。オペラは音楽が主人公でありながら、音楽で会話をするということは真実らしさに反する。音楽と言語を調和させるためには、第一にそのような滑稽さを観客が感じる以前に、その音楽や舞台装置によって、またその題材によって、観客を一挙に幻想の世界に引き込むこと、第二に、もともと歌を伴う主題だけを使うことによって滑稽さを排除することが必要である。この書簡論文はまさにこの原理を具体的に展開したものだと言えるのだが、ルソーがメタスタージオをはじめとするイタリア・オペラを否定するのも、まさにこの観点からに他ならない。つまり、ルソーによれば、イタリア・オペラのテキストは、悲劇を棄てて眼と耳のスペクタクルとなるべきオペラ本来の姿を逸脱し、悲劇をめざしているがゆえに、オペラのテキストとしては耐え難いのである。
  「これこそイタリアオペラの欠点なのです。その題材は素晴らしく、また見事に選ばれ ていますが、それらが、神話・伝説のとくに驚異的なものからではなくて、歴史上のと くに名高いものから選ばれているので、オペラにはまったく役に立たないのです。」 (OCV.,p.250)
悲劇は人間行動の再現なので、詩人と俳優のできがよければ、真実らしさを損なうことはない。しかし、オペラは音楽が大前提なので、音楽と調和するものだけが主題となるべきである。このような考え方は、リュリがフランス・オペラを創始した頃には考えられなかった。なぜならその頃は音楽はテキストに付け加えられた余剰物であり、邪魔物でしかなかったからである。しかし、18世紀も中頃になってオペラの地位が確立するにつれて、オペラにおける音楽とテキストの関係は逆転する。オペラにとっては音楽こそが主人公であり、観客を幻想の世界に誘い込み、情念をつきうごかす重要な要素は音楽の方であるという考え方が一般化する。ルソーがこの書簡論文で音楽にふさわしい幻想の世界、情念の世界というところから、オペラの主題あるいは題材を神話・伝説に限定すべきと主張したのは、「その主人公に神々や魔法使いを持ってくる」べきだと主張したマブリやバトゥー(註16)の流れに沿っていることは明らかである。

3−2.オペラの音楽
ルソーは、感覚を対象とするオペラにはそれ固有のドラマトゥルギーがあり、それは観客の目と耳と心を一挙に引きつける幻想形成の作用にあると考えている。そのような幻想の形成が、音楽の効果であり、合唱や機械仕掛けの効果である。
たとへば、音楽や合唱については、こう述べる。

「輝かしい芝居に心地よい響きの音楽が加われば、感覚を魅了し、見ている対象が真 実らしくないということについて考察することを精神に妨げることになるのです。したが って、オペラでは悲劇の舞台の方式に従うことを考える必要もないし、また徐々に観 客を引きつける必要もありません。オペラの場合、そんなやり方では決して成功しない でしょう。観客の心を一挙に奪い、魅惑する必要があります。そして、もしオペラがつ ねに大合唱と最も華やかな舞台装置の輝きから始まったら、その効果はもっと強めら れるほかはないでしょう。」(OCV.,p.252)
悲劇は徐々に観客を引き付けるべきだが、オペラでは観客の心を一挙に奪い、魅惑する必要があり(註17)、そのためには驚異や機械仕掛けなどが有効であるという主張は、近代派のオペラのドラマトゥルギーの表明である。マブリたちの議論では、驚異やダンスは、適切に配置されれば観客を幻想に没入させるのに非常に有効であると考えられてきた(註18)。ところが、マブリにおいては「合唱が常にいるので、筋の展開を道理にあったものにすることも、結末を真実らしいものにすることもできない」(註19)として、合唱は否定されている。反対に、ルソーは合唱を評価する。そもそも歌いながら芝居をすることによって生じる滑稽さを取り除くために幻想を用いるということがオペラのドラマトゥルギーの根本原理を形成するのだとすれば、逆に音楽だけがもつ特質―一挙に感覚を捉える―を充分に利用すべきだとするルソーの論理は非常に説得力がある。
音楽に関する議論の特徴については、三点を挙げることができる。まず第一に、イタリア音楽の優秀性についてである。ルソーによれば、「イタリア音楽は議論の余地なく普遍的な音楽であ」り(OCV.,p.254)、「ドイツ語の歌詞でも、イタリア語のアリアの曲には非常によく合いますし、フランス語の歌詞でさえ、曲がとくにそれ用に作ってあるか、あるいはすくなくともフランス語の歌詞のほうがいくぶんかの趣味をもって調整してあれば、滑稽なものになることはない」(OCV.,p.254)。その理由は、「第一に、イタリア人たちの音楽は、それほど彼らの国民の言語と特性に固有なものではないので、ほかのすべての言語によくマッチする」(OCV.,p.254)からである。それにたいして「私たちの音楽は絶対にフランス語の言い回しと特性にしか合わないのです」(OCV.,p.254)。 ルソーはここで、イタリア音楽の普遍性を、イタリア語の特性を反映していないことによって説明している(註20)
第二に、オペラの音楽としての価値の問題になると、ルソーは、イタリア・オペラの音楽は耳を楽しませることだけを目的としていると言い、かたやフランス・オペラの音楽の目的はそれだけでなく、情緒を喚起して、観客を感動させることにあると規定している。そしてイタリア音楽は耳を楽しませるというその目的において優れており、フランス音楽は感動させるというその目的において優れていると結論する。
「もし音楽がたんに楽しませるために作られているなら、勝利の栄冠をイタリアに与え ましょう。しかし、もしそれがさらに感動させるべきものなら、そしてとりわけ情緒を喚起 し、それによって観客を感動させることを目的としているオペラの場合には、それを私 たちの音楽にかざしましょう。」(OCV.,p.255)(註21)
第三に、「情緒を喚起し、それによって観客を感動させることを目的としているオペラ」の音楽として最もふさわしいのは、和声的に厚みのあるラモーの音楽であると、ルソーは議論を展開していく。そしてルソーは和声の多い例として『優雅なインドの国々』を挙げ、さらに優れた合唱曲の例としてラモーの曲をいくつも挙げている。「和声については、私の意見では、すべてのイタリア・オペラ全体よりも、『優雅なインドの国々』一曲のほうがもっとたくさんの和声があります」(OCV.,p.257)。 このようなラモーにたいするルソーの評価は注目に値する(註22)。というのも、マブリもサン・マールもラモーの音楽は評価していなかった。なぜなら、ラモーのオペラは、和声が豊かすぎる、オーケストラが華やかすぎるからである(註23)。ところがルソーは、彼らの主張にほぼ全面的に沿ったオペラ観にもとづいてイタリア・オペラを否定しながらも、ラモーに関してだけは、彼らの主張に反して、ラモーの合唱だけでなく、ラモーの特徴とされた和声的な厚み、オーケストラの華やかさを評価している。
これはフランスのオペラ観が当初から抱え込んでいた矛盾であったといえる。オペラを目と耳のスペクタクルと規定し、音楽と驚異によって一挙に観客を幻想の世界に引き込むことによって、歌いながら行為することに真実らしさを保証しようとした以上、音楽が言語との一体化を超えて増殖していくことは当然の成行きである。リュリの時代には、音楽が余剰物と見なされただけに、音楽の必要性を強く主張する必要があった。しかしその音楽がオペラのドラマトゥルギーにもとづいて増殖し始めると、今度は逆に音楽を言語との一体化のなかに押え込まなければならなくなった。オペラが確立した18世紀以降のリュリ派=古代派が一様に伴奏は脇役に徹するべきだと主張したのはそのせいである(註24)。しかしオペラは観客を幻想に引き込むことによってしか、その真実性を確保できないと考えるのならば、音楽の増殖は抑えることはできないだろう。したがって、ルソーが言語との一体化を超えて過剰になったラモーの音楽を評価しているのは、フランス・オペラのドラマトゥルギーからすれば、当然であるが、同時に、言語と音楽は両者で過不足のない一つの全体をなすべきだと考えるマブリなどの音楽美学からすれば、それは大きな逸脱なのである。
以上見てきたように、この書簡論文でルソーが展開するオペラの原理は、ほぼマブリたちによって議論されてきたものを継承しているにもかかわらず、ラモーの評価に関しては、彼らと対立する見解を表明している。

6.結論
この論文の主題は、上で見たように、18世紀に目覚しい発展を遂げたオペラのジャンルを悲劇や喜劇のようにきちんとした理論的土台の上に確立しようとするマブリやサン=マールたちの試みを継承しようとするところにある。このようなさまざまな理論的試みのなかにあってルソーにオリジナリティーがあるとすれば、それはイタリア音楽を一年ちかくにわたって実際に見聞してきたという経験である。ところが、イタリア・オペラとフランス・オペラの比較に関しては、ヴェネツィアでの経験をもっと利用できたはずなのに、まったく利用していない。ルソーがヴェネチアで見てきたに違いないテッラデッラス、ポルポラ、コロンボについても、ペルゴレージやレオなどについてもまったく言及していない。ルソーがそのヴェネチアでの経験をイタリア・オペラの評価のために利用するのは、『フランス音楽に関する手紙』においてであって、この書簡論文においてではない。もしそれを利用していたら、『イタリア・オペラとフランス・オペラに関する手紙』におけるイタリア・オペラにたいする評価はまったく異なったものになっていただろう。つまりルソーはヴェネチアでの経験を利用しようと思えばできたのに、そうしなかったと考えられる。それどころか、『イタリア・オペラとフランス・オペラに関する手紙』におけるイタリア・オペラにたいする評価の仕方は、マブリの方法の物まねといっていいだろう。要するに、ルソーのイタリア・オペラ批判には「はじめに結論ありき」の印象を否めない。
この論文でもう一つ特異な点は、ラモー評価である。これには実に巧妙な方法が用いられている。というのも、ルソーが継承しようとする理論的先人たちはラモーを評価していなかったにもかかわらず、ルソーは彼ら先人たちが確立したオペラのジャンル規定からラモー評価を引き出しているからだ。オペラというジャンルを、合唱とバレエのスペクタクル、驚異と機械仕掛けの使用、騒々しくて印象の強烈なオーケストラの効果、ギャラントな言語的素材の使用等々によって一挙に観客を幻想の世界に引き込み魅了するジャンルと規定するなら、この論文でも取り上げられている『優雅なインドの国々』が高く評価されるのは、当然の道筋であろう。
以上の検討から、この論文におけるルソーの既定方針が透けて見える。つまり、ヴェネチア体験によって《改宗》したイタリア音楽を否定してまで、目と耳を魅了するスペクタクルとしてのオペラという規定の方を取らなければならなかったのは、ラモー評価を導き出すためにほかならないからである。
1744年10月にヴェネチアから帰ってきたルソーにとって、フランス社会で生きていく手段として家庭教師、大使秘書としての仕事に失敗した今となっては、音楽家としての道しか残されていなかった。ルソーは、デュパン夫人宅に出入りするようになったのと同じ時期にラ・ププリニエールにも出入りするようになる。ラ・ププリニエールは私設のオーケストラを持ち、その音楽監督をラモーに任せていた。ラモーは1744年からはラ・ププリニエールの邸宅に住んでいた。したがって、ルソーがそこでラモーと頻繁に会うようになったであろうことは疑いない。自分を音楽家として売り出すためにラモーとの関係を利用しない手はないとルソーが考えたとしても、あり得ないことではないだろう。それが具体的には『優雅な詩の女神たち』という実作だったのであり、この書簡論文だったと仮定することは許されるだろう。
だがこのように仮定したからといって、この書簡論文がラモーに宛てて書かれたという推測は、冒頭の一節から判断して不可能である。そもそもこの「手紙」は私的な手紙なのだろうか。ルソーはラモーの目につきやすい『メルキュール・ド・フランス』に投稿するつもりだったのではないかと想像するのがもっとも妥当だと思われる(註25)
多くの研究者が指摘するように、1740年頃までのルソーは賢者の幸福を求めて孤独のなかに退却することで精神的安定を得ようとしていたのにたいして、リヨン時代からパリ時代(1742年〜1745年)は、幼少の頃から培われてきた自由、平等、徳に鼓舞された共和主義的精神を一時的にせよ放棄したり、既成の伝統的な秩序や価値観と妥協させることによって、熱に浮かされたごとく文明社会への同調を試みようとする精神態度の時期である。
したがって、この書簡論文がそのような試みの一貫として書かれ、当の相手によって拒否されるという出来事をきっかけにして廃棄され、ルソー自身の心の中でも忘却されたと考えることは、妥当であろう。

《註》
『イタリア・オペラとフランス・オペラに関する手紙』については、J.-J. Rousseau, Oeuvres complètes, Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard, t.V,1995を利用した。本文への引用に際してはOCVと略記する。その他のルソーの著作については、J.-J. Rousseau, Oeuvres complètes, Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard, t.I,1959, t.II,1964, t.III,1964, t.IV,1969, t.V,1995 (以下OCI-Vと略記する)を使用した。
(註1)OCI, p.287. マブリ師とは1742年にパリに出る途中でルソーがリヨンに寄ったときに知合っている。このマブリ師は『オペラに関するP...公爵夫人への手紙』(1741)の作者であったし、フォントネルは近代派の論客であった。ルソーは彼らとの会話を通してオペラの美学的議論に関する情報を大いに得たに違いない。
(註2)Cucuel, Georges, La Pouplinière et la musique de chambre au XVIIIe siècle, Paris, 1913, Da Capo Press, New York, 1971, p.120. またDictionnaire de Jean-Jacques Rousseauの《ラ・ププリニエール》の項目を書いたY. Jaffrèsによると、1742年からすでにラ・ププリニエールとは面識があったことになっている。というのは、ラ・ププリニエール夫人とデュパン夫人は従姉妹の関係だからである。ただ、ルソーがラ・ププリニエールのサロンの新顔となったのは、『告白』にも記されているように、ヴェネチアからの帰仏以降に、ゴフクールとユベール師によってである。
(註3)ルソーは9月14日付の手紙(『ルソー書簡全集』手紙137)で『優雅な詩の女神たち』演奏にまつわる出来事についてデュプレシスに知らせているが、これはリシュリュー公の前での全曲演奏より以前の手紙であると思われる。
(註4)Samuel Baud-boby, "Jean-Jacques Rousseau et la musique française", Jean-Jacques Rousseau et la musique, Textes recueillis et présentés par Jean-Jacques Eigeldinger, A La Baconnière, 1988.
(註5)Pot, Olivier, "Introduction pour la Lettre sur l'Opéra italien et français", OCV, pp.LXXVI-LXXVII.
(註6)オペラ観の概観をまとめるにあたっては、次のものを参考にした。Kintzler, Catherine,Poétique de l'opéra français de Corneille à Rousseau, Minerve, 1991. Pot, Olivier, "Introduction pour la Lettre sur l'Opéra italien et français", OCV, pp.LXXIV-LXXXI.
(註7)次のものを参照せよ。Le cerf de la Viéville, Comparaison de la musique italienne et de la musique française, I-III, Bruxelles, 1705-1706, Minkoff, Genève, 1972, pp.69-70. François Raguenet ,Défense du Parallèle des Italiens et des Français en ce qui regarde la musique et les opéras, Paris, 1705, Minkoff, Genève, 1976, pp.30-34.
(註8)Le cerf de la Viéville, Comparaison I, ibid. フランス音楽=リュリの音楽の自然さ、単純さについては、p.25, p.57, また古代音楽に比すべき単純な音楽こそが感動させる力をもっているということについては、p.80-82, p.157, リュリの音楽を最高で完璧なものだという主張についてはp.34, p.98, p.101を見よ。
(註9)ヴィエヴィルはフランス音楽とイタリア音楽の論争を「これはまさに別の名称のもとに新たに引き起こされた新旧論争である」(Ibid., p.183)と述べている。
(註10)Le cerf de la Viéville, Comparaison II, op.cit., pp.69-72. Raguenet, Défense du Parallèle, op.cit., pp.30-34.
(註11)Dubos, Réflexions critiques sur la poésie et sur la peinture, 1770, septième édition, Slatkine Reprint, Genève, 1993, III, p.100, pp.109-112.
(註12)Gabriel Bonnot de Mably, Lettres à Madame la marquise de P... sur l'opéra, Chez Didot, Paris, 1741, AMS PRESS, New York, 1978, p.43.
(註13)Ibid., pp.73-75.
(註14)Ibid., pp.47-54.
(註15)マブリがまったく同じ主張をしていることを参照のこと。 「この点では、私たちはイタリア人を遥かに凌駕しています。彼らのオペラは皇帝とか重要な人物ばかりで、歌が要請する性格から非常にかけ離れているのです。キノーは賢明にも国家の重大事とか国王や皇帝達の没落を棄てました。彼は恋愛を描くことに甘んじたのです。」(Mably, op.cit., pp.50-51)
(註16)Mably, op.cit., pp.48-49. Charles Batteux, Les Beaux-Arts réduits à un mêe principe, Paris, 1746, Édition critique de Jean-Rémy Mantion, Aux amateurs de livres, Paris, 1989, pp.236-237.
(註17)これに対して、ヴィエヴィルは、オペラも悲劇のように徐々に美しさが増大するように作られるべきだと考えていた。Viéville, Comparaison II, op.cit., p.13.
(註18)Mably, op.cit., pp.62-66, pp.115-122.
(註19)Ibid., p.109.
(註20)ルソーは、『フランス音楽に関する手紙』では、まったく反対に、イタリア音楽の優秀性をイタリア語がもつ音楽性から説明している。
(註21)マブリが同じ論じ方をしていることに注意。「たしかに、もし音楽が耳を楽しませることしか目的としていないのなら、私たちは負けを認めなければなりません。」(Mably, op.cit., p.134)
(註22)ラモーの音楽が和声的な厚みが豊かであるという見方は今後もルソーのなかでは変わらない。ただそれをどう評価するのかという点については、変化する。
(註23)ラグネとヴィエヴィルの論争のなかで、ヴィエヴィルが優れたフランス音楽は伴奏声部が伴奏に徹するべきだと主張している(Viéville, Comparaison I, op.cit., p.72)のにたいして、ラグネはイタリア音楽をどの声部も美しい旋律をもつ和声的に豊かな音楽として描いており(Raguenet, Parallèle, op,cit., pp.55-59)、これからすれば、ラモーの音楽がイタリア的とみられることが当然予想される。マブリやサン・マールがラモーの音楽を評価しなかったのは、このようなイタリア音楽観が影響していると思われる。この点については、Cannone, Belinda, Philosophies de la musique (1752-1780), Paris, Aux Amateurs de livres, 1990, p.18を参照のこと。
(註24)オペラにおける音楽が、リュリの時代には次のように詩の伴奏に止まるべきだという主張については、次のものを見よ。
「それは合唱が美しいものとなるには、全体のまとまり、すべての声部から、全体を支配し、はっきりとした、感じられるある種の歌が出てこなければならないからです。私たちはある有名な識者から、合唱の美しさはここにかかっているということを学んだのです。作曲家は主題に集中し、それ以外の声部には主題に従属し、それに従うような歌だけを与えるようにしなければ、この美を捉えることはできないということがお分かりですね。従属的な声部が非常に旋律的であったり、凝っていることはそれほど重要なことではないのです。」(Viéviell, Comparaison I, op.cit., p.72)
これとまったく同じことを、マブリはリュリ派として設定しているN...に言わせている。(Mably, op.cit., pp.152-153)
しかし、次第にこの詩との一体化を離れて音楽が増殖していく過程については、次のものを参照せよ。Haeringer, Etienne, "L'Esthétique de l'opéra en France au temps de Jean-Philippe Rameau", Studies on Voltaire and the Eithteenth Century 279, 1990, p.35.
(註25)ルソーは『メルキュール・ド・フランス』の熱心な読者であっただけでなく、シャンベリ時代にすでにシャンソンを投稿して、掲載されている。1737年6月号に『シャンベリのルソー氏作曲による歌謡』が掲載された。ラモーもこの雑誌の購読者であった。

[初出掲載誌 りべるたす第12号(1998年12月)]

戻る

inserted by FC2 system