ルソーと隠された《手》(1)

−『新エロイーズ』を中心に−

1.はじめに
『エミ−ル』にたいする不当な発禁騒ぎについて、ルソ−は『告白』のなかで「『エミ −ル』のなかにある大胆なことは、すべてそれ以前に『ジュリ』〔『新エロイ−ズ』〕の なかにあった」(註1)と説明する。ルソ−が『エミ−ル』のなかで提起した方法の原理は、要す るに人間というのは善なるものとして生まれてくるのであり、この善性を生かすも殺すも その後の教育次第なのであるから、まず社会的な諸制度(人間の作り上げたもの)から子 供を遠ざけ、子供が自然の必然性にのみ従うようにしなければならないということであっ た。そして社会的な偏見によって容易に堕落させられるこの善性を自然のままに守るため にも、したがって意識的な努力を要するのである。つまり『エミ−ル』の作者が教育上の 問題について最も危惧するのは、自由な精神を忘れて隷属の観念に毒されてしまうことで あり、だから家庭教師が子供にたいして行うこの教育上の配慮もまた子供によって悟られ てはならないのである。隷属の観念を植えつけないためにはむきだしの隷属ではなく、偽 装され、ヴェ−ルのかけられた隷属が必要なのである。つまり子供の側から見るとすべて 自分の主体的な意志と判断によって行動しているつもりでも、家庭教師の側からみればす べて予定通りということにならなければならない(註2)。ここでは実質上の隷属関係を自由平等 な関係に偽装するために家庭教師の隠された《手》が問題になっている。
『エミ−ル』においては、この隠された《手》は、たとえそれがどんな重要性を持とう と、「市民」を養成するために必要な教育方法上の一つの手段にすぎなかった。ところが ここで検討する『新エロイ−ズ』のなかでは、この隠された《手》は多様な局面に関わっ てくる。たとえば、ヴォルマ−ルとの結婚に際してジュリのなかに起こった大変化、結婚 後のヴォルマ−ル夫妻の家の平和、ジュリがつくったエリゼの庭、そしてヴォルマ−ルの 子供たちの教育がそれである。こうした問題と関わりながら、単なる方法論の範疇を超え て、隠されたた《手》は常に至福のイメ−ジと結び付いていることが分かる。したがって 『新エロイ−ズ』における隠された《手》の持つ意味を明らかにし、ルソ−における至福 のイメ−ジのなかにこれを位置づけてみることが、この小論の目的である。

2.ヴォルマ−ル家における隠された《手》
ジュリは第3部手紙20で、サン・プル−にたいしてヴォルマ−ルについてこう説明し ている。

 「あの人が家のなかにもうけた秩序は彼の魂の奥底に拡がっている秩序の反映でして、それは世界の統治において打ち立てられる秩序を小さな家庭のうちでまねているように見えます。」(OCU,P.371)
ヴォルマ−ル家のなかの秩序と宇宙を支配している秩序が同じだという設定は、ルソ− が自然(宇宙)の秩序にたいして抱いていたイメ−ジが「自然宗教」(註3)的なそれであること を考えると、非常な重要性を持つであろう。というのはヴォルマ−ルがこの家庭の統治者 であるとするなら、二つの秩序の同一性ということから、彼は神と同一の高みに存在する 人物なのだと仮定することが出来るからである(註4)。しかしここではひとまずヴォルマ−ル家 にいきわたっている秩序を三つの局面、つまり使用人を管理する際の方法、エリゼの庭を 作る際の方法、および子供たちの教育、について検討してみよう。
エドワ−ド卿への手紙(第4部手紙10)のなかで、サン・プル−はヴォルマ−ル夫妻が 彼らの家庭の平和と繁栄をつくりあげていると賞賛している。とりわけ彼は主人と使用人 (召使と臨時の奉公人)との関係に調和が保たれていることに驚いている。ヴォルマ−ル 夫妻が彼らに対するときの原則は、彼らをより働きものでより悪徳に染まっていないもの にするという一つの目的にたいして、いくつかの方法を用いるが、それらを決して奉公人 にとっての強制と拘束にしないということである。この原則は次のように説明されている 。
「共和国においては、習俗、原理、徳によって市民に歯止めをかけます。しかし召使は、金で雇われた者は、強制と拘束をもってする以外にいかにして抑制することができましょうか。主人の技術は、この拘束を楽しみあるいは利益のヴェ−ルのもとに隠し、彼らに強制させられているすべてのことをみずから欲していると思わせるところにあります。」(OCU,P.453)
使用人になんらかの楽しみを与えることによって労働やこの家庭での生活から強制的な 側面を隠すというこの方法は、ヴォルマ−ル家での管理に一貫しているものである。たと えばジュリは毎週最も働きものであった使用人にいくらかの報奨金を与える。しかし実際 のところこの金は純粋な報奨としての性格は持っていない。というのはジュリがこの報奨 金によって狙っているのは、「慎重に公正に運用されると知らず知らずのうちに全員を働 きものに、勤勉にして、結局はかかった費用以上の収益を生む」(OCU,P.443)ということなのである。しかしその結果、「従属」という「人間にとってきわめて 不自然」な人間関係が、主人に対する尊敬と使用人に対する慈愛の関係に変わるのである 。
さらに男女関係についても、これがとりわけ使用人を悪徳に導くことが多いので、「一 見そんな配慮があるとは見えないようにして、権威よりもさらに強力な習慣をつくりあげ る」(OCU,P.449)ようにしてある。それは使用人から男女で交わる機会や意欲を奪う ことによってなのである。
いずれにしても、ヴォルマ−ル夫妻はなんらかの褒美を与えたり、逆に悪徳に染まるよ うな機会も意志も使用人に与えないようにすることで「強制と拘束」の側面を隠してしま うのである。その結果、使用人は「知らず知らずのうちに」、「一見そんな配慮があると は見えないようにして」勤勉で善良になり、主従の関係は平和的になる。そしてこうした 関係がヴォルマ−ル家に平和と繁栄をもたらすことになる。もちろんこれには自給自足的 生活方法や使用人を採用するにあたって行われるあらかじめの選択と排除などが他の要因 としてあることは言うまでもないことであろう(註5)
ジュリによってエリゼと名付けられた果樹園に移ろう。ここで忘れてならないのは、ジ ュリがこういう命名をしたのは彼女がこの庭園に心の平和な状態やある種の幸福を見出す ことを期待してのことなのである。たとえば彼女はエリゼと名付けた理由を説明して、こ う言うのである。
「自分たちの手で手入れした木陰を母が夢中になって散歩しているのをみると、あ の子たちのやさしい心は喜びにあふれるでしょう。こんなよろこび、想像しただけ でも う胸がいっぱいです。ほんとうに、あなた、こうして過ぎていく日々は来世の幸 福に 似ています。そのことを思ってわたしはあらかじめここにエリゼという名をつけた ので すが、これはいわれのないことではありませんね。」(OCU,P.485-6)
これを聞きながらサン・プル−は良心がなければこんな名をつけようとは思わないだろうと考え、「あの人の心の奥も、あの人が名付けた隠れ家と同じように、平和が支配している」(OCU,P.486)と心のなかで思う。
このエリゼの庭園のなかで心の平和や一種の幸福感を見出せるようにするためにジュリ がしたことは、人間の仕事の跡が見えないようにすることであった。そのためにサン・プ ル−はここに初めて入ったとき、「まったく、あなたが苦心なさったことといえば、ほう っておかれたことだけですね(・・・)あとはみんな自然だけがやったことです」という 印象を抱き、庭園の花が野の花といっしょに「まるで自然に生えているように見える」の を目の当たりにする。しかし実際はジュリが言うように、「たしかに、すべては自然のし たこと、でもそれはわたしが指図しましたのよ。ここにはわたしが命じなかったことはひ とつもありません」(第4部手紙11)というように、まるで自然だけが木々や花々や水 の流れを配置したように出来ているが、実は全てジュリの意志どおりに彼女の「庭師の手 」によってつくりあげられているのである。そしてサン・プル−の抱いたような印象を受 けるのは、この《手》を隠すために多大な注意がなされているからだ。ヴォルマ−ルは「 ああ、それはそういう跡を消すよう大そう注意したからです。わたしはそういう策略(註6)を行 うのにしばしば立ち会いましたし、ときには共謀者にもなりました」(OCU,P.479)と 打ち明けている。
ところで子供の教育についても同様のことが言える。教育についての原理的な思想は、 すでに『新エロイ−ズ』が全てを含んでいると言っていいのだが、『エミ−ル』が取り扱 ったのとは子供の年令が異なるし、もちろんこの小説で問題になるのは母親としてのジュ リと子供との関係なのである。
この小説でもすでに述べたような教育の原理が見出される。その第一は子供には「自然 が人間に課する必然性の重いくびき」(OCU,P.571)しか感じさせてはならないという ことである。もし子供が、たとえそれが親のそれであろうと、人間の《手》を直接に感じ るならば、必ずそこには悪徳の芽が生まれることになるからである。だからジュリは支配 と従属の観念が子供のなかに入らぬようにすることが教育上で最も難しくて重要なことだ と考え、そのために多大な努力をしたと言う(註7)
そしてジュリが強調するもう一つのこと は、子供になにかを覚えたいという意欲を持たせるのは、それが子供の完全な自由と両立 する限りにおいてであるということだろう。ジュリはもしこれに成功しないようなら、や はり悪徳の芽を増やすだけのことだと考えている。
『新エロイ−ズ』のなかでは、読み方の習得の例が上がっている。それによれば、ジュ リの《手》によって設定された状況から子供は文字を読めるようになりたいと思うのだが 、子供の側から見るとそれはまるで自分でそういう意欲を作り出したかのように思えるの である(註8)
このようにしてそれがだれの《手》であれ、全ての人間の《手》を隠してしまうことに よって、ジュリと子供の間に次のような関係が生まれる。
「実際、あの人が子供たちに向きになってしゃべらせたり黙らせたり、あれこれ命 じたり禁じたり、そんなところを見かけたことがありません。子供たちと言い争うこと もなく、楽しみごとの邪魔をすることもなく、まるで子供たちを見ているだけで、愛 しているだけで十分、いっしょに一日を過ごしたら、それでもう母の義務は完了といっ たふうなのです」(OCU,P.560−561)
子供たちは自由に遊び回っているにもかかわらず、ジュリの配慮は到るところにいきわ たっている。その結果「子供たちが経験する厳しさのもとは私であるのに、彼らはいつも 私が一番厳しくないと思っている」(OCU,P.578)ことになるのである。重要なことは 、ここでジュリがとっている方法は、一つには子供のなかに嘘、虚栄、怒り、妬みといっ た悪徳を生み出させないためであると同時に、ジュリが子供たちとの関係において幸福感 を味わうためにどうしても必要なものなのだとということである。
以上検討してきたことから、あらゆる分野にわたって統治者としてのジュリ及びヴォル マ−ルの《手》がいきとどいているにもかかわらず、それは常に隠されていることで統治 者と被統治者との間に平和的関係をつくりあげ、ジュリに至福をもたらすことになってい ることが理解されよう。

3.ジュリの内的革命の意味
『新エロイ−ズ』を読んでみると、ヴォルマ−ル家において平和的な人間関係を作り、 それによってジュリに至福ををもたらす隠された《手》の手法がジュリの結婚式の場面ま では使われていないことに気が付く。もちろん、誰かを操り人形のように操作するという 意味での《手》が問題になることはある。しかしこの場合、《手》は隠されていなかった り、またこの手法の使用が必ずしも幸福と結び付いていなかったりする(註9)。いずれにせよ、 至福や幸福をもたらすための隠された《手》が問題になるのは結婚後のヴォルマ−ル夫妻 の家においてである。したがって、我々としては転換点としてのジュリの結婚が彼女の内 面に引き起こした変化がどのような意味を持つのか検討してみなければなるまい。
まず結婚直前にジュリがいったいどんな状態にあったかを思い起こそう。ジュリとサン ・プル−の愛は、すでにヴォルマ−ルとの結婚を約束した父親の反対という障害にぶつか る。愛する人との未来が閉ざされていることを見てとったジュリは「娘として取り返しの つかぬ汚辱の淵におちて」しまう。(OCU,P.96)。それは同時に彼らの愛が徳と両立しえ ないような状況の出現ということなのであり、ジュリのなかから無垢な心は消えてしまう 。ここにいたる過程で《感じやすい魂》は二重の意味を持っている。つまりこの《感じや すい魂》はジュリとサン・プル−との愛の前提であると同時に、自分が母親の死の原因で あるという後悔や、父親への従順を拒否したら彼を悲しませて死にいたらせるかもしれな いという良心の呵責をジュリのなかに引き起こすのもまたこの《感じやすい魂》なのであ る。確かに、ジュリ自身が言うように、「私の体と魂の全ての悪の原因は私のあまりにも 感じやすい心のなかにあるのです」(OCU,P.351)というのは真実であろう。つまりこ の小説においてはこの《感じやすい魂》は物語の原動力なのである(註10)。こうしてジュリの悪 しき情念は理性の目をくもらせて、ジュリが自分ではなにかを意欲する力も選択する理性 ももはや失ってしまったという状態に至たらしめる。彼女の「堕落した魂」は本来の自然 な状態から遠ざかってしまった。ここにおいて初めて、魂の浄化ということが問題になっ てくるのである。
ジュリにとって、魂の浄化、言い換えると魂をその自然状態にもどす操作は一種の《革 命 revolution 》として説明されている。ここで「この幸福な変化がどのようにして生 じたのか」を検討してみよう。
「この幸福な変化はどのようにして生じたのでしょうか。わたしにはわかりません。わたしにわかりますことは、わたしが痛切にそれを望んだということです。そのほかのことは神さまだけがこれをなさったのです。わたしの考えますに、いちど堕落した魂は、なにか突然の変革、運命や境遇のなにか急激な変化が突如として魂の関係を変え、激しい動転によって魂がしっかりした土台を見出すのを助けないかぎり、永久に堕落したままで、ひとりでにはもはや善に立ち返らないのです。この全面的な転倒のなかで、魂がその習慣をすべて断ち切られ、その情念を改変されると、ときとして人はみずからの本来の性質を取り戻し、いましがた自然の手から出たばかりの新しい存在のようになることがあります。」(OCU,P.364)
よく知られているように、ここでジュリの魂の浄化を引き起こす「突然の変革」とか「 急激な変化」とか「激しい動転」といった表現は(これらをここでは内的革命という言葉 で総称したいのだが)、ルソ−においては社会的革命や地理学的変動を言い表すためにも 同じように使われている(註11)。しかしここで重要なことは、いったい誰がこの内的革命を引き 起こしたのかということと、その結果ジュリはどのような状態に立ち到ったのがというこ とである。
いったい誰が「この幸福な変化」を引き起こしたのか。それは神である。ではどのよう にしてなのか。ジュリは知らない。よろしい。ではその結果どうなったのか。ジュリは彼 女本来の性質を取り戻し、「いましがた自然の手から出たばかりの新しい存在のように」 なる。実はここにも我々が前節で検討した隠された《手》を見出すことができる。神とジ ュリという関係において、神はジュリの全てを見守り善に立ち返えらせる。他方ジュリは 神が自分を善に導いたことは分かっても、どのようにしてそれがなされたのか、つまり神 が差し出した《手》は彼女には見えない。ここでも《手》は隠されている。そしてさらに 、隠された《手》の手法が目指す目的もすでに指摘したところと同じなのである。つまり 自然状態の人為的な保持、あるいは自然状態への復帰が問題となるのである。
ところでキリスト教の信仰の問題にかかわりながら、なぜルソ−はジュリのここでの内 的な変化を《革命 revolution 》 と呼び、《回心 conversion 》という表現を使わ なかったのだろうか。すでに指摘したように、ルソ−が内的革命を通して目指しているも のは、神の隠された《手》による自然状態への復帰なのであって、神の方へ向き直る行為 −つまりこれが《回心》の本来の意味なのだが−ではない。ルソ−自身矛盾のない自 然状態へ戻るために彼自身によってなされたいくつかの経験にたいして《革命》とか《改 革》という表現を使っていることも指摘しておかねばなるまい。したがって、ルソ−にと って《回心》という行為は内的革命のうちのいくつか考えうる結果の一つでしかないと言 うことも出来よう。
ところで、内的革命がジュリを導いて行った状態というのは、自然な、源初的な状態な のであって、決して理想的なそれではない。ジュリを理想的な状態(この小説の場合、ジ ュリがヴォルマ−ル家の主人として、母親として至福を感じることが出来るような状態の ことであろう)に導いたのは、夫のヴォルマ−ルである。彼がそのために用いた方法は、 実のところ、我々が今まで検討してきたのと同じそれなのである。
ヴォルマ−ルはサン・プル−にこう言う。
「私の行動が見たところ奇妙であって、通常のいかなる規範にも背いていることは知っています。しかし、規範というものは、人の心を読めるようになればなるほど一般的でなくなります。それに、ジュリの夫はほかの人間と同じように振舞ってはならないのです。」(OCU,P.496)
しかし、いったい何故だめなのか。その理由は、ヴォルマ−ルが他の手紙のなかでクレ −ルに説明しているように、「思慮と貞潔のヴェ−ルが彼女の心を幾重にも取り巻いてい て、その心の中を見通すことは人間の目には、いや彼女自身の目にももはや不可能」(OCU,P.509ペ−ジ)だからなのである。ヴォルマ−ルは結婚したときのジュリの状 態を見て、彼女には無垢と心の平和が必要なのだということを理解し、そのためにはジュ リが自分で思っている以上に有徳な人間なのだということを自覚させることが大事だと考 える。それを実現するためにヴォルマ−ルが試みる操作は、やはり隠された《手》の手法 なのである。と言うのは、ヴォルマ−ルはジュリの秘密を、彼女が結婚前には他の男のも のであったという秘密も含めて、全て知っているのだが、他方ヴォルマ−ルのことは、彼 が六年後に自分で打ち明けるまで全くジュリによって知られていない。つまりヴォルマ− ルは彼固有の慧眼もあってジュリの全てがお見通しなのに、ジュリのほうはヴォルマ−ル が口にしないかぎり、彼の考えていることはわからないのである(註12)。この関係は、先程述べ た神とジュリの関係に似ている。そして前節で述べたように、ヴォルマ−ルの家に打ち立 てられた秩序との関係でヴォルマ−ルが神と同じ立場にいることを考えるならば、結局、 ジュリが善に立ちもどる過程は、神と、言わば比喩的な意味で神的な高みにいるヴォルマ −ルとによって統治されていると言っていいだろう。

4.隠された《手》とルソ−
隠された《手》の手法はルソ−の他の作品のなかにも見出すことが出来る。この手法が 神と結び付いているのは、『サヴォワの助任司祭の信仰告白』である。彼の言うところに よれば、神は宇宙を動かし、全てのものに秩序を与えているが、人間の感覚によっても判 断力によっても捉えることは出来ない。人間が神を知覚するのは神の創造物のなかに、つ まり「回転する天空の中に、私たちを照らす太陽の中に、私たちの中」だけでなく、「草 をはむ羊の中に、空とぶ小鳥の中に、落下する石の中に、風のはこぶ木の葉の中に」(註13)なの である。そして彼は、大地が回るのを見る時、それを動かしている力を想像する。ここで 重要なことは、彼がこの力を「それを動かしている手」(註14)として感じていることである。神 ないしは神の操作を表す比喩的な《手》をこのテクストのなかに見つけるのは実際容易な ことである(註15)。そして人間は神が作り出す善の秩序のなかに組み込まれているのだから、そ れを自覚して自由意志によって善をなすとき、至福をうることができると考えるのである (註16)
すでに指摘したように、『新エロイ−ズ』のなかでは、この隠された《手》がもたらす ものは平和的な人間関係であり、平和的な秩序であり、至福であった。それは何故だろう か。ここでの人間関係は隷属的な関係ではなくて、偽装された自由意志(註17)に基づいたそれで ある。AがBを自由に操作しているにも関わらず、Bのほうは自分の自由意志で行動して いると思い込んでいるのだから、この関係には対立が生じることはない。
ところで、隠された《手》に係わる二つの項、つまり神とジュリ、ヴォルマ−ルとジュ リ、ジュリ(ヴォルマ−ル)と子供たち、ジュリ(ヴォルマ−ル)と使用人たち、ジュリ と彼女のエリゼ、家庭教師とエミ−ル(『エミ−ル』)、立法者と市民たち(『社会契約 論』)、これらの二項はあらゆる場合に一つの序列を形作っている。神、ジュリないしは ヴォルマ−ル(母親として、主人として、庭師として)、ヴォルマ−ル(夫として)、家 庭教師、立法者は上位者である。言うまでもなく、その反対の関係は隠された《手》の手 法をもってしては形成されない。それは友人関係においても同じであろう。『新エロイ− ズ』のなかでも、友人関係が成り立っているのは《感じやすい魂》同士の平等で対等な関 わりにおいでである。こうして結ばれる友情もまたジュリに至福をもたらす。ルソ−的な 友情がヴェ−ルのない対等平等な関係のなかにあることはよく知られている。ところが、 いったんヴェ−ルが引き降ろされ、隠された《手》が持ち込まれるや否や、友情関係は《 陰謀》に変わり、友人は《迫害者》に変貌する。このことはディドロやグリムらとの関係 が見せてくれたことである。
以上のことから、次のように結論することができよう。ルソ−のなかでは、隠された《 手》は自由と秩序という相対立する観念を結び付け、和解させるための機能を担っている こと、そしてこの機能がうまく働いたときに、その当事者は至福や幸福を感ずることが出 来るのだということ、これがルソ−が『新エロイ−ズ』を書いていた時点で抱いていた至 福のイメ−ジであろう。

《註》
使用したテキストは、J.-J. Rousseau, Oeuvres completes, Gallimard, t,I〜IV(以下OCI〜Wと略記する)である。訳出にあたっては、白水社版『ルソー全集』を参考にした。『新エロイーズ』からの引用は、すべて本文中に記す。

(註1)『告白』(OCI,p.407)

(註2)『エミール』(OCW,p.367−368)を参照のこと。とくに次のような一節。

「これこそは私が予期していたことだ。万事あらかじめ準備されており、一種の公開の芝居ということになるので、私は父親の同意を手に入れておく。」
「そうこうするうちに、子どもの知らない私の友人の一人が、子どもの見張りを私に頼まれていて、子どもに気づかれずにずっとつけていき、いい折りを見はからって近寄る。」
(註3)ルソーは、自然・宇宙に一定の法則性、秩序が認められることから、それを統治するものとしての神を認める。しかしこの神は人間の感性、判断力をもってしても知覚できないが、神が創造した自然の事物にそれを感じることはできるとする。つまり神の作り出した結果は知覚できるが、それを創り出す神は認識できないということが、ここでは重要である。たとえば『エミール』の次の一節を参照のこと。
「欲し、そして行いうるこの存在、それ自身が能動的なこの存在、要するに、それがどういうものであろうと、宇宙を動かし万物を秩序づけるこの存在、私はこれを神と呼ぶ。(...)しかしだからといって、この名をあたえた存在を私はいっそうよく知るわけではない。それは私の感官からも私の悟性からも同じように隠されている。(...)私は神をいたるところ、その御業のなかに認める。神を私のなかに感じ、私のいたるところに神を見る。しかし、神をそれ自身において見つめようとするや、神はどこにいるのか、神はどういうものか、神の実体はなにかをさぐろうとするや、神は私から逃げてしまい、私の精神は混乱して、もうなにひとつとして認められない。」(OCW,p.581)
(註4)たとえば次のような文を参照のこと。
「思慮と貞潔のヴェールが幾重にも取り巻いていて、その心の中を見通すことは人間の眼には、いや彼女自身の眼にももはや不可能なのです。」(OCU,p.509)たとえ「人間の眼」には不可能でも、神の眼には可能なのだろう。ヴォルマールには彼女の心の中を見通すことができるのだから、この分はヴォルマール=神を暗示しているのではないかと思われる。
(註5)このようなあらかじめの選択や排除は『エミール』にも見いだせる。
「だから、こういった連中はまったく必要としない生徒を、私に与えて欲しい。そうでない生徒なら、私は拒否する。私は、生徒という私の作品を他人に台無しにされたくないのだ。」(OCW,p.270)
(註6)結論としても述べるが、ルソーにおいては、ここでの自然の跡を隠すような操作は至福のイメージと結びついているため、この操作には悪いイメージは与えられていない。このことは、ここでヴォルマールの使っている「策略」(friponnerie)という語が、フランス語ではもともと「いたずら」程度の軽い意味しか持っていないことからも窺われよう。それにたいして、ディドロやグリムによってなされた操作にたいしては、「陰謀」(complot)というきつい表現が使われている。
(註7)『新エロイーズ』(OCU,p.570)
(註8)Ibid,p.581−582を参照のこと。
(註9)たとえば次のような例をあげることができる。
1.「お嬢さま、この窮状から逃れる方法は私にはただ一つしか考えられません。それは、私を窮地におとしいれているその手によって、私をそこから引き出してくださることです。」(OCU,p.32)
2.「私たちは勝ちました。愛すべきジュリさん、私たちの友はある間違いをして、それで理性に立ち戻りました。しばし誤った考えを抱いたことを恥じて、彼の憤激はすっかり霧散しました。またそのために非常に柔和になりましたから、今後は私たちの意のままに彼を動かすことができましょう。」(OCU,p.215)
1.の場合、《手》は隠されておらず、2.の場合、サン・プルーを意のままにすることがジュリの幸福とは結びついていない。
(註10)エドワード卿の地所を二人の愛のために提供しようという卿の提案を、ジュリが拒否したところにもその現れを見ることができる。
(註11)西川長夫『ルソーにおける革命概念と革命志向』(『ルソー論集』所収)を参照のこと。
(註12)『新エロイーズ』第4部手紙12を参照のこと。
(註13)『エミール』(OCW,p.578)
(註14)Ibid,p.575.
(註15)「私は宇宙を観照し、これを支配するもの(la main)にまで自分を高めることができ...」(Ibid,p.582)
「またこれに私を与えてくれた手を祝福せずにいられようか。」(Ibid,p.583)
(註16)Ibid,p.603を参照のこと。
(註17)『エミール』ではこれを「よく規制された自由」と呼んでいる。(Ibid,p.321)

[初出掲載誌 りべるたす第2号(1988年8月)]

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