ルソーと隠された《手》(2)

−『エミール』を中心に−


1.はじめに
ジャン=ジャックはエミールとソフィとの結婚の契約が接吻によって調印された後、エ ミールに対してこう言う。
「ねえ、エミール、男性には一生涯、助言者と導き手が必要 なのだ。私は、現在ま で、できるだけあなたに対してこの義 務を果たしてきた。ここで私の長い務めは終 わり、別の人の 務めが始まる。私は今日、あなたが私に委ねてきた権威を放 棄し 、ここにこれからの指導者がいる。」(OCW,p.867)
ルソーの教育的な展望においては、男性には生涯の間に二人の導き手が必要とされる。 その一人は『エミール』で問題になっている家庭教師であり、あともう一人は妻である。 妻に関しては、もちろん『エミール』の中でも触れられているが、妻−夫という関係から 女−男という関係に敷行されて、政治経済関係の著作の中で論じられている(註1)。したがって 、ここでは誕生から結婚までを射程範囲と限定する。さらにルソー自身の区分けによれば 、五段階(幼年第一期、幼年第二期、幼年第三期、青年第一期、青年第二期)に分けるこ とが出来るだろう。この過程は、段階を区切る基準となるものによって、いくつかの段階 分けが考えられるが、ここで我々が問題にしたいと思うのは、エミールと家庭教師との関 係の変化である。エミールの成長とともに教育目的がどのように変化し、それに伴って彼 と家庭教師との関係がどのように変化するのか、これを隠された《手》の問題を通して検 討してみるのが、この小論の目的である。したがってルソー自身による五段階への区分け を一つの目安としながらも、独自の区分けをすることが必要となるだろう。

2.自動人形、または物理的存在
エミールと家庭教師の関係の変化という観点からエミールの成長を見ると、性的情念の 目覚めの時期として特徴づけられる青年第二期が重要なターニング・ポイントになるだろ う。というのは、これに先立つ青年第一期においてエミールは、情念、想像力、感受性の 目覚めによって、まさに「第二の誕生」を遂げ、人間として立ち現れて来るからである。 それまで「物理的存在」を相手にしていた家庭教師は、自分と同じ人間を相手にしなけれ ばならなくなるのである。したがって、先ず幼年第一期、第二期、第三期をひとくくりに して、検討してみよう。

a.幸福と自由の問題
ルソーは、人間にとって真の幸福とは力=欲望の状態なのだと規定した(註2)。自然状態およ び社会状態における大人と子供の中での力と欲求とのバランスに関するルソーの説明を図 式すると、次のようになろう(註3)

自然状態社会状態
大人子供大人子供
力=欲求力<欲求力=欲求に見えるが、
実は力<欲求
力<欲求
自由な存在親の助けを借りなければ、欲求が
満たされないという意味で、不自
由な存在。ただし事物の抵抗が自
然なので、この依存は自然なものである。
社会関係に由来する
他者への依存のため
に、実質上の不完全
な自由。
自然的および社会的依存
のため、二重の意味で不自由。

ルソーによれば、真の幸福の追求において重要なことは、力の拡張には限界があるのだ から、それとバランスがとれるようにするためには、欲求を膨張させないようにしなけれ ばならないということである。しかし、社会状態に置かれた子供の場合には、自然的な欲 求そのものがすでに社会性を帯びている。すなわちそれを充たすためには、自然に由来す る事物への依存と社会に由来する人間への依存という二重の依存を必要とする(註4)。そこで家 庭教師は、エミールの力と欲求のバランスを出来るだけ保つために、二つのことを行う。
一つは、社会状態に置かれていることからくる、人間への依存を自然の事物への依存に 仮装することである。これは、幼年第一期と第二期とに重要である。というのもこれらの 時期には力と欲求の関係が、力∧欲求の状態にあるために、多くの欲求を自分一人では満 たすことができないで、他人の助けを必要とするのが、これらの時期の特徴なのである。
他人の助けを必要とするような状態、つまり欲求が自分の力では満たし得ない状態、言 い換えれば子供がなんらかの「抵抗」を周囲に感じる時に家庭教師が払うべき配慮が、こ こでのポイントになる。ルソーによれば、「子どもが経験する抵抗」には二種類ある。つ まり自然の事物による抵抗と、人間の意志による抵抗とである。後者の場合には、「依存 の感情」や「権力と支配の観念」といった、自然に由来しない不自然な情念を子供のなか に植え付けることになる。
他方、前者の場合には、具体的には子供を自由にしておけばいい。そうすれば子供は自 分の力の限界、力の及ぶ範囲というものが自ずと分かり、「早くから、自分の欲求を自分 の力でできる範囲に限定させるのに慣れることによって、子どもは、自分の力の及ばない ものがなくても欠乏感をもたなくなる」(OCW,p.290)。
しかし、これは放任を意味するのでもなければ、家庭教師の無用を意味するのでもない 。反対に、ここにこそ家庭教師の配慮が必要なのである。つまり子供には自由にさせてお くけれども、その裏で家庭教師は「高いところから落ちる危険に近づけないようにし、子 どもを傷つけそうなものはすべて手のとどかないところにおく、という予防策だけは講ぜ ねばならない」(OCW,p.290)のだし、「軽率にも子どもを高所の危険にさらしたり、 一人で火のそばにおきざりにしたり、危険な道具を手のとどくところにほっておいたり」 (OCW,p.300)しないようにしなければならないし、「子どもが軽はずみなことをして もいいように完全な自由を与えるけれども、それが高くつくようなものはすべて彼らから 遠ざけ、脆いもの、貴重なものはなにも子どもの手の届くところにほっておかないように すべきである」(OCW,p.322)等々。
このような家庭教師による配慮によって、子供は身体の危険や高価な代償の心配のない 自由の中にいるが(註5)、さらにこの配慮そのものも巧妙に子供の目から隠されることが必要な のであって、この時はじめて自由とは、子供にとっては「自分の意志以外の法をもたない 」(OCW,p.360)ことを意味し、完全な自由となり、家庭教師にとっては自分の意のま まに子供を統御することを意味する。それをルソーは「よく規制された自由」(OCW,p.321)と呼んでいる。
この「よく規制された自由」の中で、子供は事物の必然を事物そのものから感じ取り、 自分の力の限界を感じ取ることによって、欲求をそれに合わせ、力=欲求という幸福な状 態を見出すことになる。ところが、他方、家庭教師の側から見れば、「どこまでが可能か 、どこまでが不可能かの範囲はいずれも子どもには分からないのだから、欲するがままに 子どものまわりにそれを広げたり、縮めたりできる。私たちは、子どもを束縛し、圧迫し 、制止するが、ただ一つ必然のきずなによってそうする」(OCW,p.321)のだから、そ れによって子供に「支配と隷属の観念」や不自然な情念を植えつけることはない。 事物による教育、つまり「自然の教育」の例をあげてみよう。ルソーは、子供のこの時 期の特徴は、力<欲求なのだから、欲求を充たすためには他人の助けを借りなければなら ず、他人を欺いても何の利益もないのだから、「事実上の虚言が子どもには自然ではない ことは明らかである」(OCW,p.335)と説明をしたうえで、義務とか約束といった「道 徳的世界」に入らざるを得なくなっても決して人間の判断によって子供が罰せられるべき ではないとする。ルソーによれば、人から罰せられているとは思わせないで、ただ単に「 罰がつねに、子どもの悪い行為の自然な結果として子どもに起こるようにせねばならない 」(OCW,p.335)のである。そして子供にとって「自然な結果」に見えるようにするた めにも、家庭教師の配慮が必要なのである。
このように「よく規制された自由」のもとで、子供が事物にのみ依存し、事物の抵抗し か感じないで育てられているところでは、「人間に自然な唯一の情念」である自己愛以外 の不自然な情念は、人間が持ち込まない限り子供のなかに芽生えることはない。しかし、 孤島にすんでいるのではない以上、周囲の人間たちが悪き情念の見本となる可能性は大き い。ここに、家庭教師の払うべき第二の配慮が必要なのである。この点についてルソーは 二つの対策を提示している。その一つの方法は、他人の情念の現れを、子供には病気とい う「自然のもの、必然のきずなの一つ」(OCW,p.328)として説明し、これに病気に対 するのと同じ「ある種の嫌悪」感を抱かせるようにするというものである。さらにもう一 つの方法は、隠された《手》の手法によっている。つまり、家庭教師自身が人から尊敬さ れ、愛される人間になれば、必然的に人はみな彼の意にそうようになり、子供の手本とし てもいいような人のみが集まるだろうと言うのである。ちょうど『新エロイーズ』におけ るヴォルマール家のような世界が家庭教育の場として想定されている(註6)。そこでは子供は、 自由に振る舞い、自由に人々を手本としても決して悪き情念に染まることはない。しかし 、その裏には家庭教師によって子供が手本としてもいいような人のみが集まるようになさ れた配慮が隠されている。

b.感官の鍛練から感覚的理性へ
この側面に関しては、幼年期の三つの段階がそれぞれの特徴を持っている。
まず幼年第一期の特徴は、記憶力も想像力もまだ活動していない時期であり、また言語 を充分獲得していない時期でもあるので、現前性からまだ認識が解放されていないという ことがある。要するに、この時期の「子どもは自分の感覚だけにしか注意をはらわない」 (OCW,p.283)のだから、感覚とこれに作用を及ぼすものとの関係を明確にしめしてや ることが必要になる。そのためには、結局子供自身がもっている、周囲のものに対する関 わりたいという意欲に逆らうのではなく、逆にそれを促してやることが大事なのである。

「子どもは、すべてのものに触れ、すべてのものを手で扱いたいと思う。この落ち 着きのなさに逆らってはならない。それは子どもにきわめて必要な修業法を暗示す る。このようにして、子どもは物体の熱さ、冷たさ、柔らかさ、重さ、軽さを感 じ、物体の大きさや形やあらゆる感覚的性質を判断することを学ぶ。つまり、見た り、さわったり、聞いたり、とりわけ視覚を触覚に比較して、指で感じる感覚を眼 で評価したりすることによって、学ぶのである。」(OCW,p.283)
換言すれば、子供が感じる周囲の抵抗を自然の事物によるものに限定することによって 、子供が自然と感覚的な判断力を身に付けていくことを目指すのである。その際、この抵 抗に対する子供の側の許容量を大きくすることは判断力の真理性を高めるうえでも重要で ある。それは鍛練によって獲得される。感官や体質の鍛練が先に述べた子供が持つべき幸 福感や自由感と矛盾しないためには、家庭教師の配慮が必要になる。
ルソーは、体質を鍛えることが自己目的化してはならないと述べる。つまり、体質の鍛 練が目指す目的は決して子供にとっての現在の幸福感や自由感に優先することはあり得な いと言うのである。というのは、この時期の子供は体がまだ丈夫にならないうちに死んで しまう確率が高いので、子供にとっての人生を無駄にしないためにも、自己充足こそが最 優先されねばならないからである。では家庭教師としては、子供の幸福感や自由感と体質 の鍛練とをどのようにして両立させるべきか。ここでもまた家庭教師は隠された《手》の 手法を用いるべきなのである。この時期の鍛練としては水による鍛練、空気による鍛練な どが問題になるが、いずれにしても、「ゆっくりと、連続的にして、子供が感じないよう にする必要」(OCW,p.278)がある。この点については第二期においても同様で、「徐 々に」「たえずゆったりと少しずつ」やれば、何の危険もなしに「知らず知らずのうちに 」体質を鍛えることができるのである。ただこの時大事なのは、「この予防手段をとるの に、彼に気づかれないように」(OCW,p.375)することである。このようにして、家庭 教師は「ほとんどこちらの思いどおりに」子供の体質を鍛えながらも、子供にとってはそ の鍛練は自由な遊びでしかないと思わせることができる。
さて幼年第二期になると、感覚器官や体質の鍛練は、運動能力としてあれが出来る、こ れが出来るという一定の自己目的性を越えて、感覚的な判断力の獲得を目指す段階になる 。ここで言う感覚的判断力とは、測量的な器具にたよることなく、自分の感覚器官でもっ て距離を計ったり、重さを見積もったり等々、要するに実験物理学的な意味での判断力の ことである。
ルソーによれば、単に体を鍛えるだけでは、決して感覚的判断力を磨くことにはならな い。
「純粋に自然な、機械的な訓練もあって、判断力になんら影響を及ぼさずに体を丈 夫にするのに役立つ。(・・・)だから、力だけを鍛えてはならない。力を指導す る感官を鍛え、その一つ一つをできるだけ利用しなさい。それから、一つの感官 の印象を他の感官によって検証しなさい。(・・・)つねに、結果の見積もりが手 段の使用に先行するようにせよ。(・・・)このようにして、自分のあらゆる運動 の結果を予見し、経験によって、自分の過ちを直すことに彼を慣れさせれば、行 動すれば行動するほど正しく判断できるようになるのは明らかではなかろうか。」(OCW,p.380)
つまり感覚的判断力を獲得するためには、自然人がそうしていたように、つねに自分の 行動は自分で予見し、判断し、決定して行うという「自分の意志」を必要とする。しかし 、社会状態においては「自分の意志」は他人の意志の介入や不自然な情念の介入によって 成り立ち得ないから、家庭教師によって配慮され、つくりあげられた、偽装された「自由 」のなかにしかありえない。
ルソー自身が挙げている例を見てみよう。不精で怠惰な子供を駿足の子供にするという 話であるが、この話は二つの段階がある。ひとつはまず彼を駿足にする段階である。彼は 「自分の意志」で練習を始め、やる気を出したと思っているが、実はジャン=ジャックが 「競争路をずいぶん短くし、いちばん早く走る子をのけておくよう配慮した」(OCW,p.395)結果なのである。また実際に駿足になるにあたっては、始めにジャン=ジャックが スタート地点をコースごとに別々にしていたこと、さらにこの子がいつも美しいコースを 選ぶくせがあることに気付いたことから、「ほとんど意のままに、彼にお菓子をとらせた りとらせなかったり自由にできた」からに他ならない。このようにジャン=ジャックに完 全に操られているにもかかわらず、この子は自分のやる気によって駿足になったと思って いるのである。
第二段階では、視覚的な判断力の獲得が問題になる。つまり彼の目を「視覚測量器」に することが目的になる。そこでいままで、彼に走る意欲を引き出すために用いてきたから くりに気づかせることによって、距離を測る意欲を彼のうちにひきおこす。始めは、歩幅 で測るが、ジャン=ジャックがレースの回数を増やすことによって、この子はもっと早く 測れるように目で測量できたいと思うようになるのである。
このように、家庭教師が子供に感覚的判断の機会や意欲を「知らず知らずのうちに」与 えてやる。あるいは幾何学の勉強の例にあるように、家庭教師は子供がすぐ分かるような 仕方で関係をさがすので、彼がさがしているふりをしているうちに、子供のほうが先に見 つけてしまうのである。子供は自分が自分の力で推理し、発見したように思っていても、 実は家庭教師が「関係を彼に発見させるように、関係をさがす」(OCW,p.399)からに 他ならない。
「考えるのを学ぶためには、だから、私たちの知性の道具である手足や感官や器官 を鍛えねばならないし、これらの道具をできるだけ利用するためには、これらを提 供する体が頑丈で健康でなければならない。」(p.370)
幼年第二期の子供は、このように遊びを通して体質や感覚器官を鍛え、偽装された「自 由」のなかで「自分の意志」によって評価、判断し、行動することによって、感覚的理性 を身に付けていく。

c.感覚的理性から知的理性
幼年第三期の特徴は、ルソーによれば、力と欲求のバランスが逆転し、力>欲求の状態 になる唯一の時期だということにある。欲求はまだ情念が目覚めていないので限られ、こ の時期のエミールには自分の欲することはなんでも可能である。ここから自分の行為が「 なんの役にたつのか」という「有用性」が行動の指針として出てくる。
さらに情念が生まれてくるまでのこの時期の時間的な短さに対して、学ぶべきことが多 いということから、「重要なのは、子どもに学問を教えることではなく、学問を愛する趣 味と、この趣味がもっと発達したときに学問を学ぶ方法とを、彼にあたえること」(OCW,p.436)なのである。学問そのものを学ぶのではなく、学問を学ぶ方法を学ぶというこ との具体的な中身は、自然的世界についての自然科学的法則性を学ぶことを意味する。諸 現象の観察を通して、そこから一定の法則性を導きだすことができるような判断力を身に つけること、感覚的観念を組み立てて、そこから理性的観念をつくりあげる方法を身につ けること、これらが幼年第三期において子供が獲得すべき目標である。
子供が獲得すべき対象が、けっして学問そのものではなく、それを得るための方法だと いうことから、ここで家庭教師の取るべき方法は、まず第一に有用性についての観念を子 供に与えることである。ルソーによれば、子供の行動にとって重要なのは常に自己充足と いうことであり、この時期には自分の自己充足にとって「役に立つもの」とそうでないも のの区別がつくようになる。そしてルソーが例としているような経験(モンモランシの森 で道に迷ったときの経験(註7)などを通して、具体的に知識や学問の有用性を子供に自覚させ ていくことができる。こうして有用性ということが子供の行動の指針となれば、子供にと って学ぶべきことと自己充足との関係が明確になり、ロビンソン・クルーソーを真似るエ ミールのように「教師が教えようとするのよりもずっと熱心に学ぶだろう」し、「有用な ことはすべて知ろうとし、有用なことしか知ろうとしないだろう」(OCW,p.456)とい うことになり、家庭教師はこの有用性ということを使って、それと知られずに子供を導く 手段をさらに手に入れることになる。
さて、こうして有用性によって子供を導きつつ、家庭教師は子供に理性的判断力を身に つけさせなければならない。ルソーは言う。

「正しく判断することを学ぶ最善のやり方は、私たちの経験をできるだけ単純化し 、さらに、経験なしですませても、誤謬におちいらないことをめざすことである。 したがって一つ の感官で感じることを、他の感官に突き合わせて長い時間をかけ て検証したあとで、さらに、一つ一つの感官で感じることを、他の感官の助けを借 りる必要なしに、その感官そのものによって検証することを学ばねばならない。そ うすれば、 一つ一つの感覚は私たちにとって観念となり、この観念はつねに真実 と一致するであろう。これこそ、私がこの人生の第三期を通じて経験させようと努 めている知識なのである。」(OCW,p.484)
観察や経験から得られる観念を感覚的観念とすると、感覚的な諸観念をさらに組み立て ることによって理性的観念に到ることになる。家庭教師は、日の出の観察の例や蝋ででき たアヒルの例に見られるように、子供に明確な感覚的観念を得る機会を提供し、そこから は子供が自分で考え、判断して真実に近付くことができるように配慮をしなければならな い。その方法は基本的には幼年第二期においてとられた方法と同じである。つまり家庭教 師によって規制された「自由意志」という方法である。たとえば、何事にせよ「彼がなに ごとを知るにも、あなたがたが彼にそう言ったからではなく、彼が自分で理解したからと いうように」(OCW,p.430)仕組んだり、「なにか巧妙に注意をひくように準備して」 (OCW,p.433)おいたりしなければならないし、もし彼が間違っても訂正せず、自分で 気付くのを待たなければならない。さらにこのような配慮は、以前の段階においてと同じ ように、けっして子供に悟られてはならない。
ルソーが「物理的存在」(OCW,p.458)と呼んでいるこの幼年期において、子供にと って家庭教師は空気のようなものである。子供は家庭教師に規制されているとは全く感じ ていない。それどころか、全て自分の意志で自分の事をしていると感じている。にもかか わらず、実は彼の意志そのものが家庭教師によって規制され方向づけられている。この隠 された隷属関係こそが幼年期における家庭教師と子供の関係なのである(註8)

3.第二の誕生
ルソーによれば、青年期は第一期(想像力・感受性の目覚め)と第二期(性的情念の目 覚めから結婚まで)とに分けることができる。ルソーは『エミール』第四篇において、人 間に唯一自然な情念としての自己愛がこの時期の想像力や感受性の目覚めを通して、いか に隣人愛・人類愛へと高まっていくかを説明している(註9)。様々な情念が生まれてくるこの時 期に邪悪な情念を生み出さないようにしつつ、善の道へ生徒を導く方法としてルソーが提 示しているもの、たとえば生徒が共感を寄せるべき対象を彼の周囲にあつめることで、彼 の自己愛が隣人愛へと質的に高まる機会や対象を与えてやること、また手本とすべき人々 を彼の周囲に集めることによって虚栄心や傲慢心を彼が人から学ぶことがないようにする こと、こういった方法は基本的にはそれ以前の方法と同じである。つまり生徒は自分の意 志で善行をしているつもりでも、実は家庭教師の配慮によって善行しか意志できないよう な状況に置かれている。
ところで青年期を二つの時期に分けるポイントは性的情念の目覚めにある。ルソーによ れば、自己愛と同じように性的情念も自然なものである。しかし性的情念が目覚める時期 を早くしたり遅くしたりすることは教育によって変えることができるのだから、体をたく ましくしておくためにも、また右に述べたように隣人愛や人類愛を育てておくためにもこ の時期を遅くするようにすべきなのであるとルソーは言う。
しかしながら、いつかは性的情念が目覚める時が来る。これは同時に家庭教師が教育の 方法を変えるべき時でもある。この時になすべき最善の方法は、理性に語ること(註10)、家庭教 師が生徒のためにしてきたことを全て話してやること、要するに生徒を対等の人間として 相手にすることである。

「この瞬間こそ、いわば勘定書を彼に手渡し、彼の時間と私の時間をどう使ったか を彼に示し、彼がどういうもので私がどういうものか、私がなにをして彼がなにを したか、私たち二人がたがいになにを負っているかを、彼のあらゆる道徳的 関係 、(・・・)彼がその能力の進歩においてどの点まで到達したか、彼がこれからど んな道をとるべきか、(・・・)要するに、彼がいま身を置いている転換点、彼を とりまく新しい危険、自分の生まれつつある欲望に耳をかたむける前に注意ぶか く自分自身に警戒するように彼に決心させる強固なすべての論拠をはっきり知らせ る時なのだ。」(OCW,p.641)
そして彼の心の友、心を打ち明ける相手になってやる時、家庭教師と生徒の間の今まで のような関係、つまり隠された隷属関係は全く違った関係になる。
「私が一瞬なりとも疑わないのだが、もし私が、こうした確率にもとづいてあらゆ る必要な予防手段をとり、私のエミールが年をとっていま到達した状態に適合した ことを彼に語ることができれば、私が彼を導きたいと欲する点に、彼は自分から やって来て、私の保護のもとに喜んで身をおき、自分がとり囲まれている危険に驚 いて、(・・・)私に言うだろう。「おお、わが友よ、わが保護者よ、わが師よ! あなたが放棄されようとしている権威をとりもどしてください。あなたがそれを もちつづけられることが私にとってもっとも重要なのは、この瞬間です。(・・・ )いまや私の意志によって権威をおもちになり、(・・・)」(OCW,p.651)
このようにして、生徒のなかに性的情念が目覚める時に、彼の理性に語りかけることに よって、生徒が自分の置かれている危険な状況を理解できるようにしてやれば、生徒はそ れを自覚して今までの自由・独立(実際は、仮装されたものでしかなかったのではあるが )の態度をすてて、権威を家庭教師に委ねることになる。こうして家庭教師と生徒の関係 は、生徒自身の自由意志によって選ばれた従属、むきだしの従属関係になる。
このむきだしの従属関係は、生涯の伴侶となるべき女性も見つかり、結婚に到ろうとす る段階、家庭教師による教育の最終段階においてその必要性が明確になる。教育の最終段 階とは、理性によって情念を支配することを学び、「自分の理性に、自分の良心に従い、 自分の義務を行」(OCW,p.818)うことを学び、真に有徳な人間になることである。そ こでジャン=ジャックはエミールにソフィと分かれて旅にでることを命ずる。家庭教師の 命令は、以前に意志決定のための権威を自らの意志によって家庭教師に委託した以上、生 徒にとっては自分の義務でもある。そしてこの義務を果たすことによって、はじめて教育 が完成する。愛情という情念を支配することによって有徳な人間形成を完了するための方 法が、なぜ家庭教師と生徒のむきだしの従属関係のもとで行われるべきなのか。それはそ れ以前の教育は、自然が自己自身を形成する段階であったとすれば、家庭教師は社会制度 がそこに介入してこの形成を歪めてしまうことがないようにすること、そのための段取り をつけるのが仕事であったと言えるだろう。ところが、「自然は、それが私たちに強いる 苦しみから私たちを解放してくれるか、あるいはそれに耐えることを教えてくれるが、私 たち自身から生ずる苦しみについては、私たちになにひとつ教えはしないから」(OCW,p.818)、情念の支配については人間(家庭教師)が人間(生徒)に教えるしかないから であろう。そしてこの時、生徒は大きな苦しみを味わうだろうが、この苦しみは避けて通 ることのできないものである。

4.おわりに
ルソーが『エミール』において目指したのは、自然人の行動規範である。自然人はその 本源的な自由性と独立性のゆえに、一瞬一瞬の行動を前にして何事もすべて自分で判断し 、自分で決定し、行動しなければならない(註11)。そのことを通して、彼の感覚は正確な観念を 彼に与え、また力と欲求の釣り合いが彼に幸福を与える。それは、いわば自然が自然を自 己形成しているようなものである。ところが、社会状態に置かれた人間においては、自然 の自己形成の過程に様々の社会的制度が介入し、それを歪めてしまうのである。この社会 的制度の介入を阻止すること、これが『エミール』での家庭教師の役割である。この介入 を阻止する作業は人為でしかありえないが、同時に人為に見えてはならない。なぜなら自 由・独立・幸福こそが自然人の規範であり、教育の目指すものであるからだ。そこから家 庭教師の行う様々な段取りが生徒の目から隠されていることが必要にあってくる。そして この隠された《手》の手法のもとで教育される生徒は、実は家庭教師によって設定された 一定の枠のなかでそうしているにすぎないのだけども、自然人のように自分で判断し、自 由な意志によって行動していると思っているのだから、一瞬一瞬を自由に、独立して、幸 福感をもって生きることができるのである。

《註》
使用したテキストは、J.-J.Rousseau, Oeuvres completes, Gallimard,≪Bibliotheque de la Pleiade≫ t,I〜IV(以下OCI〜Wと略記する)である。本文中への『エミール』からの引用には全てこのテキス トのページ数を記した。
(註1) 妻による夫の統治、女による男の統治の問題については、稿を改めて、「ルソーと隠 された《手》(その三)、政治関係の著作を中心に」のなかで論ずる予定である。
(註2) 「情念を感じていても、能力と欲望とが釣り合っているような存在は、絶対に幸福な 存在である。」
「真の幸福への道はただ、能力にくらべての欲望の過剰をなくし、力と意志とを完全に 等しくすることにある。」(OCW,p.304)
(註3)P.310〜P.311を参照のこと。
(註4)P.311を参照のこと。ここでルソーが「二重の依存」ということについて述 べていることは、この後の筆者の論旨にも重要であるので、少し触れておく。ここでル ソーは、諸国民の法のような実定法が自然の法則と同じように人間の意志を超えたもの であれば、人間への依存(言い換えると人間相互の関係)は事物への依存(事物と人間 の関係)となんらかわるところがなくなり、自由性と道徳性という相反するものが両立 することになるだろうと考える。つまりここでルソーは自然的なものを損ねる社会的な ものを、いかにしたら自然的なものに転換することが可能かを考えており、それは人間 相互の関係に人間の意志を超えたものを一貫させることによって達成されると考えてい るのである。この発想の仕方は『エミール』のそれと同様であり、そこから以下に述べ るような教育方法が提示されるのである。
(註5) 本来社会状態においては相反する自由性と道徳性とを両立させるものとして隠された《手》の手法はあるのだが、この段階では、まだ子供が道徳性の領域に入っていないので、彼の行動から道徳性を排除することが問題になる。
(註6) たとえば、『新エロイーズ』第5部手紙2を参照のこと。
(註7) この経験においても、ジャン=ジャックはわざとエミールを道に迷わせ、地理学の知識を利用できるような状況を作りだし、他方で、エミールはそれを全く知らないでいる という点で、やはり隠された《手》の手法が使われていると言っていいだろう。
(註8) 幼年期に関する論述を締め括るにあたって、ルソーはエミールを評してこう言う。

「誰ひとり他人の安らぎを乱さず、彼は、自然が許してくれるかぎりにおいて、満足し 、幸福に、自由に生きてきた。こんなふうにして一五才に達した子供が、それまでの一 四年を無駄に過ごしたとあなたがたは考えるのか。」(OCW,p.488)
隠された《手》の手法による教育が、子供の自由と幸福を保障するものだという認識 、これがここでの重要な点である。
(註9) 「私たちはついに道徳的秩序のなかに入る」(OCW,p.523)と述べているように、青年期は行為の自由性と道徳性との両立が問題になるだろう。しかしある出来上がった社会における人間の自由性と道徳性の両立が問題なのではなく、成長過程の生徒の行為の自由性を損なわずに、善い情念を培っていくにはどうしたらよいかという、教育的観点からのものであることに注意しなければならない。
「社会的な徳の実践によって人の心の奥底に人類愛が生まれてくる。人は、善をなす ことによって善人になるのだ。(・・・)あなたがたの生徒に、彼のできるあらゆる善 行をさせなさい。」(OCW,p.544)
これを生徒の自由とどう両立させるかが以下に問題になる。
(註10) 第4篇中の『サヴォワの助任司祭の信仰告白』はまさに、この理性に語るということのいい例であろう。ルソーは理性に語るためには生徒が理性の声に耳を傾けることが出 来るようにしておかなければならない、とも言う。『信仰告白』の前おきとしてある自 伝的部分は生徒をこの状態にしておく例として恰好のものだが、ここでも隠された《手 》の手法が用いられている。次のような部分を参照のこと。
「軽率な青年がやって来て様々な愚行を打ち明け、胸のうちをさらけだすと、僧侶は 耳をかたむけ、青年の気持ちを楽にしてやった。(・・・)こうして、なにひとつ告白 しているとも思わないうちに、すべての告白がなされたのである。」(OCW,p.561−2)
「無為と放浪の生活から知らず知らずのうちに引き離すために、本を選んで抜粋をつ くらせ、この抜粋が必要だというふりをして、青年のうちに感謝という高貴な感情を育 ててやった。」(OCW,p.562)
「次にあげるちょっとした事件で、この親切な人物がその弟子の教育などは考えてい ないように見せながら、彼の心を知 らず知らずのうちに卑小さから引き上げるために 用いた術が 判断できよう。」(OCW,p.562)
(註11) 「未開人にとっては、事情がちがう。どんな場所にも執着をもたず、きめられた仕事をもたず、だれに服従するのでもなく、自分の意志以外の法をもたない彼は、自分の 生の一つ一つの行為ごとに推論することを強制される。一つの動きをするにも、一 歩を踏み出すにも、あらかじめその結果を考えておかねばならない。こうして、体を 使えば使うほど精神は 光を増し、彼の力と理性は同時に成長し、互いに助けあって 大きくなっていくのである。」(OCW,p.360)
[初出掲載誌 りべるたす第3号(1989年9月)]

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