ルソーと隠された《手》(3)

−『社会契約論』を中心に−


1.はじめに
ルソーは『エミール』第五部において女子教育を論じた。それは、エミールによってす すめてきた人間教育を完成するためには、エミールにふさわしい生涯の伴侶(註1)をも教育す ることが同様に必要だからである(註2)。ルソーの考えでは、エミールにふさわしい女性と してのソフィの教育は、しかしながら、エミールにたいして構想されたものとは異なって いる。たとえば、ルソーは、男子教育にあたって、他人の評価という社会制度を排除する ことに専念した。エミールは、もちろん他人の声に耳を傾けはするが、最終的には他人が どう判断したかによってではなく、自分がどう判断したかによって行動する判断力と、理 性によって自己の欲望をコントロールする意志力を身につけることを目指す(註3)
それに対して、女性は男性のように単に、自立した人間としての価値をもっているとい うだけでは不十分で、それが他人によって評価されなければならない。要するに、女性は 、男性の力を借りなければ自己を全うすることが出来ないのだから、男性から敬意を向け られ、愛情を注がれるようにならなければならない、とルソーは言う(註4)。したがって、 ルソーによれば、「女性の教育はすべて男性にかかわらせて考えるべきである」というこ とになる。それは、具体的には「男性に好かれ、男性の役に立ち、男性から愛され敬わ れ、幼い時は育て、大きくなれば配慮を尽くし、助言し、慰め、その生を快い甘美なもの にすること、それこそ、いついかなる時にも女性の義務であり、女性に子どもの時から教 えるべきことなのである。」(註5)
ルソーによれば、「両性の結合において、それぞれの性は、平等に共通の目的に協力す るのだが、協力のしかたは同じではな」く、ここから精神的な関係においても、男性は「 能動的で強」いのにたいして、女性は「受動的で弱」いという関係が生じる(註6)。しかし ここからルソーの見方を男尊女卑的なものとして即断するのは間違いである。
「自然は、欲望を満足させるため男性に与えた力以上の力を、欲望を刺激するため に女性に与えて、男性をいやおうなしに女性の意向に依存させ、男性もまた女性に 好かれて、自分を強者にしてくれることに相手が合意するよう努力することを強 制しているのである。」(註7)
ここでルソーは男女関係を、強と弱の一方的な支配ー被支配の関係でなく、相手の合意 のもとに役割として強は強としてあり、弱は弱としてあるという、強と弱の十全な一が得 られるといったような関係として描いている。
精神的にも身体的にも弱としての立場にある女性が、男性の支配のなかで奴隷的な状態 にならないようにするために、自然は女性に「特殊な技量」を与えているとルソーは考え る(註8)。この「特殊な技量」によって、社交界の女性には客をもてなす技術(註9)が与えられ るのだし、また恋愛においても、何人もの恋人を同時に維持したいと思う女性は、相手の 男性に、自分だけが排他的な愛を受けていると、人々の前で思わせる技術(註10)を身につける ことができるのである。
いまここに挙げたような例は非常に特殊な例としてルソーがあげたものにすぎないが、 この「特殊な技量」が目指すものは、要するに「自分の言葉により、行為により、まなざ しにより、身振りによって、そんなことを考えているとは見せずに、どんな感情でも意の ままに男性に起こさせること」(註11)である。男(あるいは夫)に、自分の方が女(あるいは 妻)に命令したり、権力をもっているように思わせつつ、その力の行使を、実は女の方が 意のままにするという技術は、それと知られずに相手の意志をこちらの思うように操りな がら、相手には自由意志によってそうしていると思わせるという意味で、われわれが今ま で、『新エロイーズ』や『エミール』の家庭教師とエミールの関係において指摘した隠さ れた《手》の手法と同じものである(註12)。この点にこそ、上に引用した男女関係の在り方 についてのルソーの意味深い規定の本質がある。
さらに重要なことは、このような女性の能力の由来をルソーが自然に見ていることであ る。
「こうして、両性の構成に由来する第三の帰結が導き出される。それは、強者が 外見では主人公だが、じつは弱者に依存しているということである。そして、それ は情事の軽薄な習慣によるのでも、保護者の寛大さによるのでもなく、不変の自 然法によるのである。」(註13)
隠された《手》の手法によって『新エロイーズ』では、幸福な人間関係、自然の庭であ る「エリゼの庭」、ジュリの自然状態への回帰などが作り出され、『エミール』では、自 然人になるべきエミールの教育がなされたのだが、《手》そのものは、自然=本性的状態 を作るために必要不可欠な「人為」であった。ところが、ここではこの隠された《手》の 手法そのものが、自然の摂理に則ったものとして、自然=本性的状態に由来するものとし て示されている。ここに隠された《手》の手法の自然性ないしは人為性の問題が生じるだ ろう。
市民行動における自由性と道徳性との両立をいかに作り出すかの問題にたいして、実定 法を自然事物における法則と同じく、人間に依存しないものにすることによってと考えて いた『エミール』のルソー(註14)が、国家設立の理論を展開する『社会契約論』のなかで、こ の隠された《手》の手法をどのように取り込み、それの自然性をどのように規定している かを検討してみることが、この小論の目的である。

2.ルソーの歴史観における社会契約の位置
ルソーの主張するところによれば、社会契約は人間に何をもたらすのだろうか。社会契 約とは、「もし生存様式を変えないなら、人類は滅び」(註15)ざるをえないような極限的段階 に達した人間が、これを克服することを目的とするような共同の力をつくりだすために行 う結社行為である。各人の力と自由は、自己保存のためにあるのに、どうしてそれを他人 のために使うことができるのだろうか。ルソーはこの問題に「各構成員は自分の持つすべ ての権利とともに自分を共同体全体に完全に譲渡する」という方法によって解決を与える 。その結果、譲渡の完全さから各構成員の平等が実現される。また上位者をもたないこと から結社は自立的となり、しかも結社そのものはひとつの強大な力を持つことになる。

「 要するに、各人はすべての人に自分を与えるから、だれにも自分を与えないこと になる。そして、各構成員は自分に対する権利を他人に譲り渡すが、それと同じ 権利を他人から受け取らないような構成員はだれもいないのだから、人は失うす べてのものと等価のものを手に入れ、また持っているものを保存するための力をよ り多く手に入れるのである。」(註16)
共同体への各人の完全譲渡という方法は、各人と共同体との間に不即不離の有機的関係 を生み出すことによって、各人の自由を傷つけることなく共同の力を生み出すという困難 な要請に応えている(註17)
社会契約による社会的結合の結果、各構成員の有機的結合のゆえに、共同体のなかでは 自己の利益を図ることがそのまま他人の利益にもなるという「利益と正義のすばらしい合 致」(註18)が生じる。ルソーは、『社会契約論』第2篇第4章で、社会契約という行為はその相互的性質(註19)のゆえに、「人がそれを果たそうとして他人のために働けば、それが同時に自分のためにも働くことになる、といった性質のものである」(註20)と言う。われわれはこれに、行為の自由性と道徳性の両立という規定を与えることができるだろう。いずれにせよ、自己保存のためにする行為が、そのまま利他的な道徳的行為にもなるという自由性と道徳性の両立は、ルソーが『社会契約論』を書くにあたって重要な目標にしたものだった(註21)。そして、われわれにとってここで重要なことは、ルソーが、社会契約によって生じた共同体での市民の行為の自由性と道徳性の両立は、人間の本性に由来するものだと考えている点である(註22)
しかしながら、人間本性に合致した状態という意味での純粋状態(自然状態)に人間が いたのは、なにもこの社会契約によってもたらされる共同体のなかにおいてだけではなか った。『人間不平等起源論』の第1部が描く自然状態における人間も、自己保存のために 行為する自由性と、同時に自然的善性のあらわれとしての「憐れみ」によって、他者のた めに行動をおこすような道徳性をあわせもっていたのである。ルソーによれば、そのどち らもが人間の本性に由来する本源的なものである(註23)。ところが『人間不平等起源論』の 第2部が描くところによれば、この純粋状態は、私的所有によって終わり、戦争状態にい たる(註24)。そしてこの戦争状態を断ち切って、新たに社会状態に人間を導くことになる契 機こそ社会契約なのである。しかし、社会契約によって人間がおかれることになる社会状 態にも、実は『社会契約論』で描かれたような本質的、純粋な状態(ここではこれをも自 然状態という呼び方をする)と、『人間不平等起源論』、『学問芸術論』に描かれたよう な堕落した状態とがある(註25)。したがってルソーがこれらの政治的著作によって描きだし た人類の歴史的展開をまとめると次のようになろう。

自然状態原初の純粋状態 (自然状態)
『人間不平等起源論』第一部、 『エミール』
私的所有の発生
戦争状態(腐敗・堕落した状態)
『人間不平等起源論』第二部
社会契約による共同体(国家)の設立
社会状態社会契約のもたらす純粋状態(自然状態)
『社会契約論』第二篇
専制国家(腐敗・堕落した状態)
『社会契約論』第四篇 、『学問芸術論』、『人間不平等起源論』第二部
革 命
純粋状態(?)

ここで若干の用語解説が必要であろう。というのは、ルソーが使用する自然状態(自然 )という語には二重の意味が与えられているからである。NATUREというフランス語 には、もともと1)本性、2)自然(社会の対意語としての)という意味がある。ルソーも自 然状態を1)人間の本性に由来する状態、人間が本来あるべき状態という意味での純粋状態 の意味と、2)社会にたいする自然という意味での物理的力関係、自然法則の支配する状態 の意味とに用いている(註26)。『社会契約論』によれば、2)の意味での自然状態は、社会契 約による国家の設立によって終わることになる(註27)
したがって自然状態1)に対応するものとして、腐敗、堕落した状態がある。人間本性か ら遊離しているという意味で腐敗・堕落していると見なされる。私的所有の発生によって 生じた戦争状態や、社会契約の本来の精神から逸脱した専制国家・独裁国家などがそれに あたる(註28)。社会状態は社会契約による国家設立以降の、国家内存在としておかれた人間 の相互的依存関係の状態を指している。これは社会契約の相互性によって、人間関係に権 利と義務が生じ、権利を守り義務を履行させるために法が支配する状態である。
ルソーの歴史観の特徴は、自然状態2)も社会状態も、均質な通時態をもつのではないと いう点にある。人間本性に合致した純粋状態(自然状態1))から出発しながらも、私的所 有の発生などによって、それから逸脱した状態に変質していくのである。しかし、社会契 約によって再び純粋状態にひきもどされことになるが、それは人間を国家内存在とするこ とによって質的に異なった純粋状態におくのである。そしてこの純粋状態もいずれ変質し ていく。したがって、純粋状態A→変質→純粋状態B→変質といった螺旋的発展 としてルソーの歴史観を規定することができるだろう(註29)
ここでわれわれにとって重要なことは、純粋状態からいったん起こった変質、腐敗、堕 落の無限的な進行を断ち切って、質的に異なるが、再び人間本性に由来する純粋状態に人 間をひきもどす契機として、社会契約という行為が位置づけられているということである 。

3.『社会契約論』における隠された《手》
『新エロイーズ』や『エミール』で用いられていた隠された《手》の手法をその目的に 則して分類すると、次の二つに分けられる。
(a)純粋状態を維持するため・・・家庭教師とエミール(註30)、妻と夫(女と男)、ヴォルマールとジュリ、ジュリと召使たち。
(b)堕落した状態から純粋状態へひきもどすため・・・ジュリの《内的革命》(註31) (a)に関して言えば、純粋状態とは、前節から繰り返しのべているように、人間にとって 、その本性に合致しているという意味で、最も自然な状態のことである。人間の自然な本 性を純粋なままで維持するためには、社会制度(註32)のもとでは隠された《手》という方法が 必要だからである。この方法は、意志そのものの操作を目指すことによって、人間本性と しての善を社会制度から守り、理想的状態へ導くということと、もうひとつの人間本性で ある行為の自由性を守るという、相矛盾する二つの要請を同時に満たしている。
他方、(b)の場合、純粋状態へのひきもどしという突然の大激変は、堕落した対象の内的 な論理をもって起きるというような必然性が付与されていないので、ジュリの《内的革命 》に見られるように、「神」という超越的な存在の《手》を必要とするという意味での人 為性がむき出しになる。
以上の分類をもとにして、『社会契約論』のなかで隠された《手》の方法がどのように 展開されているかを検討しよう。
『社会契約論』によれば、立法は主権者のみが成し得る行為である。ところが、主権者 たる人民は、社会契約によってまさに生まれたばかりの状態であり、まだ啓蒙されておら ず、自分たちにとってどんな法が合っており、どんな法が幸福に導くことができるのか分 かっていない。そこで立法者が必要になる。ルソーは立法者に神のイメージを与えた(註33)
ルソーによれば、生まれたばかりの人民に、いくら立法者が彼らにふさわしい法を提示 するにしても、彼らには言葉でそれを説明することはできない。理性の言葉を理解しうる 人民とは、法によって教育された人民なのであり、それは「制度の所産」、教育目標であ る。それゆえに「立法者は、力も理屈も用いることができないので、暴力を用いることも なしに誘導し、説き伏せなくても納得させるような特別の秩序に属する権威に頼らざるを えない。」(註34) そこで立法者は「神の権威」を用いることによって「人民が自然の法則に従 うのと同じように国家の法律に従い、人間の形成にも都市国家のそれにも同じ力の働きを 認め、自由な心で服従し、公共の福祉という を素直に身に着けるようにする。」(註35)
ここに、エミールの教育に用いられた方法と同じものを見出すのは容易であろう。すな わち、理性がまだ育っていないエミールに理性の声によって教育することはできないので 、家庭教師は、自然(法則)そのものがエミールを教育するように配慮をほどこす。この ようにして、エミール自身の主体的な行動の自由性は守られ、同時に家庭教師はエミール を自分の思う方向へ導くことができたのである。立法者は「神の権威」を用いることによ って、彼の提示した法を人民が、自然を受け入れるように受け入れて自己立法し、その法 に自然法則と同じ絶対てき支配力を認めるようにする。
その結果、人民は、立法者がどのような目標をもち、どのような配慮から法を提示した かは分からないが、その法を 分たちの幸福のために与えてくれたことだけは分かってい るのである。そしてこの法に自然法則と同じ絶対的支配力を認めるとき、エミールが自然 から学んだように、人民は法を通じて自己を教育することになる。このような立法者の人 民に対する関係を、エミールの場合と同じように隠された《手》の手法による関係と呼ん でいいだろう(註36)
他方、ジュリが経験した《内的革命》のような、純粋状態への突然の転換を、個々ばら ばらだった自然人にもたらし、一般意志という精神的人格をもった一個の政治体として、 新たに存在と生命をあたえるものが、社会契約であるということは、前節で述べた。社会 契約という重大な行為が、自然状態内部での変質の必然的結果としてではなく、逆に、人 類の滅亡という危機的状況に誘発されたとはいえ突然の転換として描かれているという意 味での人為性の強調は、他でも指摘されている(註37)。しかし人類を破滅から救うほどの重大 な行為はいったいだれによって、どのようにしてなされたのか。「だれ」が「どのように して」社会契約という方法を人々に周知させたのか。『社会契約論』のなかではこの点に ついては何ら明記されていない。われわれが推測しうることは、それまで個々ばらばらだ ったうえに、自己保存のことしか念頭にない自然人たちに自己の完全譲渡によってそれ以 上のものを得ることになるという社会契約の思想を理解させるには、立法者が立法にあた って人民に用いた方法−隠された《手》の手法−を用いなければならなかったであろ うということである。

4. 最後に
社会契約によってもたらされる共同体のなかでは、法の絶対的支配によっても、また人 間関係の特性そのものからも、ルソーが「正義と効用のすばらしい合致」という言葉で表 した行動の自由性と道徳性の両立がもたらされる。しかし、そういった人間本性に合致し た純粋状態をもたらす社会契約や法の制定は、神に喩えられるような立法者やそれに類す る超越的存在による隠された《手》の手法によって成り立っている。そして『社会契約論 』においても、この手法は、自然的本性的状態を導くための「人為」とされていることが 指摘できるだろう。

《註》
使用したテキストは、J.-J.Rousseau,Oeuvres completes,Gallimard,《Bibliotheque de la Pleiade》, t,Vである。本文中にある引用ページ数は、すべてここからのもので ある。訳出に際しては白水社版『ルソー全集』を利用した。
(註1) ルソーは、妻を結婚前の家庭教師とともに、男性の導き手のひとりに数えている。『 エミール』J.-J.Rousseau,Oeuvres completes,Gallimard,《Bibliotheque de la Pleiade》, t,W,p.867.
(註2) 「自然の男性をつくることに努めたあとでは、私たちの仕事を未完成に終わらせない ために、自然の男性に適合した女性は、どのようにしてつくられるのかを見ることにしよ う。」『エミール』p.700.
(註3) たとえば次のような記述を参考のこと。

「あなたがたの子どもが、人々の判断を判断して彼らの誤謬を見分けることがで きなければ、どうして彼は人間を知ることができようか。人々が考えていること が真実なのか、それとも虚偽なのかも知らないのに、彼らの考えていることを知るの は有害なだけだ。(・・・)ところが、世論を評価することを子どもに教えるま えに、彼に世論を教えこむならば、どんなことをしても、世論が彼の意見となり、も うそれを打ち破ることはできないと確信するがいい。私は、結論として、若者を 判断力をもつ人間にするためには、彼に私たちの判断を教えこむのではなく、彼の判 断力を十分鍛えてやらねばならない、と言おう。」『エミール』p.458.
(註4) 「女性が私たちなしで生存するのはずっと難しい。女性が必要なものを得るため、そ の職分を果たすためには、私たちがこれを彼女たちにあたえることが、あたえようと欲す ることが、彼女たちにその値打ちがあると評価することが必要である。彼女たちは、私た ちの感情に、私たちが彼女たちの美点にあたえる価値に、私たちが彼女たちの魅力と徳に あたえる敬意に依存する。自然の法そのものによって、女性は、自分についてもまた子ど もたちについても、男性の判断の如何に左右される。彼女たちには価値があるだけでは十 分ではなく、それを評価されなければならない。」『エミール』p.702.
(註5) 『エミール』p.703.
(註6) 『エミール』p.693.
(註7) 『エミール』p.695.
(註8) 「女性に与えられているこの特殊な技量は、女性の力が小さいことに対するきわめて 公正な償いである。これがなければ、女性は男性の伴侶ではなく奴隷となるであろう。こ の才能がすぐれていることによって、女性は男性と同等の存在として自己を維持し、男性 に服従しつつ男性を支配するのだ。」『エミール』p.712.
(註9) この技術によって、サロンの女主人は「食卓をはなれたとき、だれも自分のことだけ を彼女が考えていてくれたのだ」という満足感をもって、どの客も送り出すことができる のだとルソーは言う。『エミール』p.732を参照のこと。
(註10) 『エミール』p.733.
(註11) 『エミール』p.737.
(註12) 拙論「ルソーと隠された《手》その一」(『りべるたす』第2号、1988年)、「ルソーと隠された《手》その二」(『りべるたす』第3号、1989年)を参 照のこと。
(註13) 『エミール』p.695.
(註14) 『エミール』p.311.
「社会においてこの悪を治療するなんらかの方法があるとすれば、それは人間の 代わりに法をおき、一般意志に、あらゆる特殊意志の作用を越える現実の力をあ たえることである。諸国民の法が、自然の法則と同じように、どんな人間の力をもう ち勝ちえない強固さをもつことができれは、人間への依存はふたたび事物への依 存となる。こうして、共和国のうちに、自然状態のあらゆる利益と社会状態のそれと を結合し、人間を悪からまぬがれさせておく自由に、人間を徳へと高める道徳性 を結びつけることになる。」
(註15) このパラグラフの全体は『社会契約論』第1篇第4章を参照のこと。
(註16) 『社会契約論』p.361.
(註17) 社会契約によって人民がうる社会的自由とは、一般意志によって制限された自由のことなのだが、一般意志とは、すなわち人民自身の意志のことなので、共同体への 完 全譲渡は自由の喪失を意味しない。また一般意志のもとへ共同体の全ての力が集中する ので、これが強大な力を発揮することになる。
(註18) 『社会契約論』p.374.
「以上述べてきたことから、意志を一般的なものたらしめるのは、投票者の数より も、むしろ投票者を一致させる共同の利益であることが理解されなければならない。 なぜなら、この制度においては、各人は、自分が他人に課する条件に自分もかならず従 うからである。この利益と正義のすばらしい合致が、公共の議決に公平という性格を 与える。」
(註19) 「相互性」という表現を使うこともある。註(註15)で記述されているような、社会契約の特徴の一つである。
(註20) 『社会契約論』p.373.
(註21) たとへば、ルソーは『社会契約論』第1篇の冒頭でこの著述を行うにあたっての態 度をこう述べている。
「私は、人間をあるがままの姿でとらえ、法律をありうる姿でとらえた場合、社会秩 序のなかに、正当で確実な統治上のなんらかの規則があるのかどうかを研究したいと 思う。私は、正義と効用とがけっして分離しないように、この研究のなかで権利が許す ことと利益が命ずることとをつねに結びつけるように努めよう。」(p.351)
(註22) 人間にとって最も自然な在り方は自己保存のために行動する事であるが、社会契約 によって新たに生じた社会化された人間関係の中では、各人は分割不可能な全体の部 分となるので、各人の自己保存とは、すなわち全体の自己保存につながる。したがって 、共同体の中では、各人が全体を考慮にいれる道徳的行為は、自己保存という人間本 性にかなった行為となるのである。このことをルソーは次のように述べた。
「なぜ、一般意志はつねに正しく、しかも、なぜ、すべての人はたえず各人の幸福を 願うのであろうか。それは、各人という語を自分のことと考えない者はなく、またす べての人のために投票するにあたって、自分自身のことを考慮しない者はいないからで はないか。このことから、次のことが明らかとなる。すなわち、権利の平等および、 これから生ずる正義の観念は、各人がまず自分自身を優先させるということから、した がって人間の本性から出てくるということ(・・・)」(『社会契約論』p.373)
(註23) 自然人における自己保存のための行為の自由性について、次のように述べている。
「すべての動物に精巧な機械だけを私は見ており、自然はこの機械に、自分でねじを まき、それを破壊したり調子を狂わせたりしそうなものすべてから、ある程度まで身 をまもれるようにと、感覚を与えたのであった。人間という機械も同じだと気づくが、 獣の活動においては自然のみがすべてをなしたのに、人間は、自由な行為者として、 自然の活動に協力するという相違がある。」(『人間不平等起源論』p.141)
また、この自由性を内的にセーブするものとして「憐れみ」という自然な感情を位 置づけている。
「したがって、憐れみは自然の感情であることはたしかで、各個人において自己愛の 活動を和らげ、種全体の相互保存に協力している。われわれが苦しんでいる人々を見 て、よく考えもしないでわれわれに助けに向かわせるのは憐れみであり、自然状態にお いて、法律や習俗や美徳の代わりに、だれもがその優しい声に逆らう気にならないと いう...」(Ibid.,p.156)
(註24) 次のような箇所を参考のこと。
「しかし、一人の人間がほかの人間の助けを必要とし、たった一人のために二人分の 蓄えを持つことが有益だと気付くとすぐに、平等は消え去り、私有が導入され、労働 が必要となり、(・・・)そこにはやがて収穫とともに、奴隷状態と悲惨とが芽生え、 成長するのが見られたのであった。」(Ibid.,p.171)
「生まれたばかりの社会にもっとも恐るべき戦争状態がとってかわり、堕落して悲嘆 にくれた人類は、もはやもと来た道を引き返すこともできず、(・・・)みずから破 滅の前夜に臨んだのであった。」(Ibid.,p.176)
この「破滅の前夜」が、『社会契約論』の「各個人が自然状態にとどまろうとして用いる力よりも、それにさからって自然状態のなかでの人間の自己保存を妨げる障害のほうが優勢となる時点」に一致することは、容易に見てとれるだろう。
(註25) 『人間不平等起源論』のなかで社会契約について記述した箇所で(p.177−178)、ルソーは社会契約があたかも私有を固定化し、不平等を拡大するための方便で あるかのように論じているように見えるが、「政府はただたんに専制的な権力から始ま ったのではなく、専制的な権力は政府の腐敗したもの、行き着く極限にすぎず、(・・・)最初はそれをすくうものとして政府がつくられたのであり、さらには、たとえ政府がそのようにして始まったとしても、この権力はその本性からして非合法であり、 (・・・)」(p.184)という論述からも分かるように、社会契約による政府の 本性的状態(純粋状態)と腐敗・堕落した状態とを区別して考えていることに注意し なければならない。
(註26) たとえば、『エミール』では、ルソーは性的情念の目覚める第二の誕生までのエミ ールを「物理的存在」とみなし、自然状態(2)にあるものとして教育する。
また自然状態(1)の使い方について言うと、自然状態、社会状態のそれぞれに、人間 本性に由来する純粋性を保持しているという意味での自然状態が存在することになる。自然状態における自然状態の例は枚挙にいとまがないが、社会状態におけるそれの用 例は、『学問芸術論』に見出されるだろう。というのは、『学問芸術論』におけるル ソーの文明批評は、社会契約によってもたらされる国家のもとでの人間の純粋状態から のそれであるからだ。このことは、ルソーが常に学問・芸術によって堕落した社会に たいして、粗野ではあるが、自然な習俗や美徳、祖国愛にあふれていたスパルタを対置 していたことからもうかがうことができよう。
(註27) 『社会契約論』によれば、自然状態から社会状態への移行は、社会契約によって自 らを共同体内の分割不可能な部分とすることによって起こる。
(註28) 社会契約以前の自然状態(2)において、本来自立しているべき人間が、私的所有の発 生によって依存関係に入ることは、人間本性から逸脱した堕落した状態である。
(註29) 『人間不平等起源論』に描かれているように、自然状態から社会状態への移行にあ たって、社会契約がそのまま純粋状態をもたらすわけではない場合が多いのだが、ル ソーは常にもどるべき状態、人間があるべき状態として純粋状態をイメージしていたと 言うべきだろう。
(註30) 前節からの見方にそって考えれば、『エミール』における教育の目的は、エミール が情念の目覚めによって第二の誕生をとげるまでは、自然状態における純粋状態を維 持することによって自然人をつくることにあり、また第二の誕生以降は、社会状態にお かれているエミールが、社会状態が必然的に彼に要請してくる人間としての義務と権 利を理性の力で両立させることのできるような状態、すなわち社会状態における純粋状 態を維持しておくことにあったと言えるだろう。
(註31) 拙論「ルソーと隠された《手》−『新エロイーズ』を中心に−」を参照の こと。
(註32) この「社会制度」とは、ルソーが『エミール』のなかで「私たちが埋没しているあ らゆる社会制度は、人間のなかの自然を圧殺し、そのかわりになにも与えないことに なろう」(『エミール』p.247)と述べたのと同じものである。
(註33) 「それぞれの国民に適した最良の社会規範を発見するためには、すぐれた知性が必要 であろう。その知性は、人間のあらゆる情念をよく知っているのに、そのいずれにも 動かされず、われわれの性質とまったく似ていないのに、それを底まで知りつくし、(・ ・・)。人間に法を与えるためには神々が必要であろう。」(p.381)
(註34) 『社会契約論』p.383.
(註35) Ibid.,p.383.
(註36) ルソーがこの方法によって配慮していることは、立法に際しては、人民の自己立法(立法の自律性)ということであり、法が制定された後では人民の行動の自由性と道徳 性の両立ということである。これこそが、対象となる主体の外見上の行動の自由性を尊 重しながら、その意志そのものを操作しようとする隠された《手》の方法をルソーが ここでも用いている所以である。
(註37) たとえば、白水社版『ルソー全集』第5巻『社会契約論』第1篇の訳注19を参照のこと。
[初出掲載誌 りべるたす第4号(1990年10月)]

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