ルソーと隠された《手》(4)

−宗教論を中心に−


1.
カントはルソーを、自然科学におけるニュートンとならべて高く評価した。
「ニュートンは彼以前には無秩序と不調和な多様とが見出された場所に、秩序と規 則性とが極度の単純性とともに在るのを、はじめて見た。(・・・)−−−ルソーは 人間の装う多様な姿の下に、深く隠れている人間の自然とその秘められた法則とを、 はじめて発見した。そしてその法則にもとづき彼は摂理が正しいことを示した。」(註1)
この断片で、カントはニュートンが神によって統治される秩序を自然界において発見し たように、ルソーが人間社会における神的秩序を発見したとして、ルソーを評価している 。カントによるルソー評価の意義についてはここでは置くとして、自然と人間とが神を原 因とし、神によって与えられ、統治されている秩序のなかにあるという理神論の様々な位 相を、ニュートンからスピノザを経て、ルソーへと比べてみると、ルソーの理神論の特徴 が浮き彫りにされるように思われる。
ニュートンの力学や光学における諸発見は、ヴォルテールの『哲学書簡』による紹介に よって、大陸の思想家たちに多大な影響を与えた。ニュートンは、神による統治が一定の 法則をもって自然界にも人間社会にも及んでいると考えており、いわゆる理神論に似た宗 教観をもっていた(註2)。しかし、ニュートン及びニュートン主義者の自然哲学や宗教観が理神 論者や共和主義者と対立する主要な点は、自然界にも人間社会にも神を頂点とするヒエラ ルキーが存在するとされていることにあった(註3)。つまり神は、自然法則によって精神をもた ない下等な物質の運動を統治するのと同様にして、自然法則と類似した、あるべき人倫の 法(自然法)によって、王権や英国国教会が人民(精神をもたぬ物質に類比される)を支 配するのを監督する、というわけである(註4)。このようにニュートンの神は、自然及び人間が その意志に従属しているとされるような神であり、人間に意志の自由は認められていない 。
さて、スピノザにおいては、神は自然界の外にあって、その運動や意志を司るような存 在ではなく、自然界がその統一性、法則性、必然性、無限性において、そのまま神である とみなされる。つまり、スピノザは、神はすべての事物のなかにあり、事物はすべて神の なかにあるという自然汎神論に到達した。そしてスピノザの汎神論の特徴は、すべての存 在はまったく等質的で、いっさいの価値的な区別や位階的区別をもたず、数学的で必然的 な連関と統一のみによって支配され、しかもその運動は目的がないというところにあった 。そして、精神と自然とは相同関係にあるとみなされるので、精神世界つまり人間世界に おいても目的論的な価値論は排除され、すべてが神の意志による(数学的必然性による) 必然的生起とみなされて、意志の自由は否定され、決定論が支配すると考えられた(註5)
もちろん、年代的に言うと、スピノザはニュートンよりも先行する時代に生きたのであ るが(註6)、18世紀の理神論へと合流していく宗教論のひとつの大きな流れにおいて見ると、 事物に階層性を認めず、神の前にすべてのものが等価値で、等質(言い換えれば対等、平 等)で、事物の運動を司る秩序は理性的な数学的(機械的)法則性に基づいていると考え るスピノザの宗教観は(註7)、ヒエラルキーをみとめ、すべてが神の意志に従属しているとみな すニュートンのそれを、ルソーの時代の理神論へと橋渡しするものだと考えることが可能 であろう。
ルソーは神の存在をみとめつつも、統治される側の自然にはヒエラルキーをみとめなか った点ではライブニッツなどの大陸の理神論に与するが、人間に関しては決定論を否定し た点では、彼らと対立している。人間社会に一定の法則性、規則性をみとめつつも、同時 に決定論を排するという「矛盾」をルソーはどのようにして解決するのだろうか。この問 題に焦点をしぼりつつ、ルソーの宗教観を検討するのが、この小論の意図するところであ る。

2.
一口に18世紀を啓蒙主義の時代と言っても、細部においてニュアンスの相違があるの は自明のことであるが、とりわけ、無神論にいきついたディドロ、ドルバックらに対して 神の存在をみとめるという点で、ヴォルテール、ルソーら神義論者は決定的な対立がある 。また、同じ神義論者といってもヴォルテールとルソーの間にも微妙な意見の違いがある (註8)。神の存在をみとめると言う以上、その存在証明をすることが必要になるのだが、ルソー はそれをどのようにして行うのだろうか。
『サヴォワの助任司祭の信仰告白』のなかで、ルソーはニュートンの天文学を頂点とす る自然科学の分野において獲得された体系的法則的自然(宇宙)観に依拠している。一見 混沌としていて、無秩序に存在し、運動しているように見える自然界に、実は一定の、秩 序だった法則があり、その法則にもとづいて自然界のすべての事物が存在し、かつ運動し ているというのが、当時の自然科学の示した自然観であった。ルソーはこのような当時の もっとも進んだ自然観を前提として、意志をもたぬ物質がこのような整然とした秩序的運 動を自ら行うことはできないはずだと考え、これとは別のところに全自然を見渡し、全て の関係を秩序だてている単一の意志を推論、想定しなければならないと結論する。そして 、この単一の意志をルソーは神と名付けるのである(註9)。ルソーによる神の存在証明の仕方は 、神とは何かから出発していくのではなく(註10)、認識に与えられている与件から出発して、複 雑な自然が少数の原理に還元できるのは、ある一人の存在によって組織されているからだ として、神の存在を証明していくという意味で、帰納法(註11)によっていると言うことができるだろう。
神の存在を証明するために用いられたこの方法は、推論された単一の意志をなぜ神と呼 ぶのかという疑問を引き起こす可能性を残すという意味での弱点をもっているとはいえ、 この方法はその結果としてルソーの神がどういうものであるかも明確にすることになる。 つまり、ルソーにとって神は現実に目で見たり、耳で聞いたり、手で触ったりすることこ とができる自然界の諸事物の有り方から推論的に想定されたものである以上、見ることも 触ることもできない存在であり、ただ、その偉大さを心で感じることができるだけという ような存在なのである。つまり、神はその意志の結果としての自然界の背後に隠れており (註12)、その隠された《手》でもって、自然を統治している。
また、意志をもたない自然は神の意図の忠実な現れであり、神の意図がそのまま反映し たものであるから、この意味において自然は人間にとって神の教えにならぶ絶対的規範と なる(註13)。ルソーのあらゆる著作に見られる、規範としての自然は、このような彼の宗教観、自然観にもとづいていると考えることができるだろう。
規範としての自然について言えば、ルソーは自然界にヒエラルキーを認めなかった。

「宇宙には、なんらかの点で、他のすべての存在の共通の中心とみなしえないよう な存在は一つもない。」(註14)
あらゆる事物が他のあらゆる事物と関係をもち、原因となったり結果となったりするよ うな関係においては、そのような関係がもつ秩序性、法則性そのものを神として上位者と みなすのでなければ、事物全体のなかのどこかに絶対的中心、絶対的上位者を認定するこ とは不可能なことであり、すべてが対等で平等ということになるだろう。このように、す べてが価値的に対等、平等だというルソーの自然観が、人間社会に関する彼の思想と照応 関係にあることは容易に予想することができることである(註15)

3.
神の意図の統一(単一)性によって、調和のとれた秩序だったひとつの全体をなす自然 の、華麗な景観から人間社会に目を転ずると様子は一変してしまう。あらゆる種類の悪が はびこり、調和や秩序というものはどこにも見られない。人間社会における悪をも必要悪 というような言い方で神の摂理に入れたライプニッツなどの神義論(人間の自由意志をみ とめず、すべてが神の意志によるものとみなす)とは違って、ルソーは、まず人間のみに 自由意志をみとめることで、人間の行為はすべて人間自身の責任において行われたものと して、神の摂理からいったん切り離してしまう(註16)
人間社会は、そのような自由意志によって行動する人間の行為の結果の総体であり、神 の摂理とは関わりがないとするならば、その結果ルソーにとって神とは一体何者になるの だろうか。つまり、自然界にみとめたような神的秩序は、人間社会には存在しないとルソ ーは考えているのだろうか。人間の幸福を意志しながら、その意志を実現できないような 神は、無に等しいものではないか。ところが、ルソーにとって人間に自由意志をみとめた のも、また神なのである。神の摂理と人間の意志の自由という、この相対立する原理をル ソーはどのようにして統一するのか、言い換えれば、ルソーの神は自らの意図(摂理)を 人間社会にも貫徹するためにどのような方法を用いるのか、これがここでの問題である。
自由な意志をもたず、本能のままにしか行動しない他の動物は、たとえば相手を傷つけ ようと、助けようと彼がそれを意図して行ったのではないという意味において、その行為 には善悪はない。しかし、人間の行為はすべて自由な意志による選択の結果であり、どう いう意図のもとになされた行為かによって善悪の区別が生じる。つまり、道徳性が問題に なる。ルソーの考えによれば、神は人間が善を選ぶようにと自由を与えており、また同時 に、人間が悪をなすことを不可能にするための手段はなんら講じていないと言うのだから (註17)、このままでは神の意図はなんら実現されないことになろう。また、ルソーは、人間には 善を知るために理性が与えられ、善を愛するために良心が与えられているとも言うけれど も(註18)、ルソーの理性ほど不安定なものはないし、良心は激しい情念のもとでは小さくなって しまうことは、すでにルソー自身が彼の著作で示していることである(註19)
ルソーにおいて、人間の行為を自ら善の方向へ向ける力を唯一もつのは、幸福追求の原 理であろう。自然人にとっての行動原理は、自己保存の原理と憐れみの情であった。この 自己保存の原理は、理性が確立し、善悪の判断が可能になると、理性によって善を選び、 それをなすことによって得られる幸福感を追求する原理へと変化する。そしてそれは同時 に、人間の行為を価値的にも高貴なものにする原理である(註20)
さらに、人間の諸能力の発展、展開ということについては、どうだろうか。ルソーは、 能力と欲望の関係に触れた際に、「野性の人が潜在的に持っていた能力は、それを発揮す る機会があってはじめて発達し、適当な時期以前に余分なものとなったり負担となったり 、必要なさいに間に合わなかったり、無駄にならないようにしたのは、非常に賢明な神の 摂理によるものであった」(註21)と説明する。つまり、神の摂理によって、人間は必要なときに 必要な能力が発展するようにできており、それによって様々な困難を克服して、幸福にな ることが出来るのだと、ルソーは考えていると言っていいだろう。
このようにして、個人のレヴェルでは、人間が本性的に持っている(ルソーの考えでは 、神によって与えられた)幸福追求の原理と、善をなすときに得られる幸福感とが結び付 いて、人間は自ら善をなす方向へと向かうだろう。人間は善をなすことも悪をなすことも あるが、人間は自由が尊重され、その本性的位置にとどまるかぎり、自ら善をなすだろう し、それが神の意図でもあるということになろう。神は、人間に自由、理性、良心を与え ることによって、人間自らが善を意志するように仕向けるという図式によって表されるル ソー的なこの方法を、われわれは隠された《手》の手法と呼ぶ。
では次に、人間社会のレヴェルに視点を移してみよう。ここでは歴史が問題になるだろ う。ルソーが『人間不平等起源論』や『社会契約論』等で描く彼なりの歴史観を概観する と次のようになるだろう。つまり、純粋な自然状態から腐敗、堕落した自然状態へ変質し 、その極点において社会契約によって国家が設立され、社会状態へ移行する。しかし、ふ たたび腐敗、堕落した社会状態に変質し、革命的な変動を引き起こすといったような、ら せん状構造をもったものとして描くことができるだろう(註22)
ルソーは『人間不平等起源論』において、人間の歴史を描きながら、理性の発達による 農耕や冶金の技術の獲得、私有財産制の発生へと展開していく人間関係から、人間の社会 化は、偶然的な要素も含めて不可避であったと考えているように思われる。そうであるか らこそ、ルソーは、自然状態の腐敗、堕落した極点としての戦争状態を描写したあとで、 「私は以下のごとく想定する、即ち、人々が自然状態において生存することを妨げる諸々 の障害の抵抗力が、自然状態にとどまろうとして各個人が用いる力に打ち勝つ地点にまで 到達した、と。その時には、この原始状態はもはや存在しえなくなる。そして、人類は、 もしも生存の仕方を変えなければ滅びるであろう」と述べており、社会契約による社会状 態への移行を、自然法の第一則であった自己保存の原理の視点から必然視しているのであ る(註23)
つまり、一つの真理を知るためには百の誤謬を知らねばならないと考えるルソーにとっ て、人間の行為は一歩前進が二歩後退であるようなものである。つまり、ルソーの歴史観 は、前進することによって純粋状態から離脱していくけれども、その極点においてなんら かの革命的変動によって純粋状態への揺りもどしがあるといった、まさにらせん状構造の イメージをもっているように思われる。
では、このような構造をもつ人間の歴史にルソーの神はどのような関わりをもっている のだろうか。ルソーは『人間不平等起源論』の序文で、人間の歴史は「一見すると、流砂 の上に立っているように見えるが」、実は「神の意志がつくった」確固とした基盤の上に 出来上がっているのであり、人間は人間だけで放置されていたのではなく、神が「慈悲深 い手でわれわれの制度を改め、それに揺るぎない基盤を与え、その結果生ずるに違いなか った無秩序を妨げ、われわれにこのうえない悲惨をもたらすに違いないと思われた手段に よってわれわれの幸福を生み出してくれた」(註24)のだと述べる。ここで、ルソーが「われわれ にこの上ない悲惨をもたらすに違いないと思われた手段」と言っているのは、人間に善も 悪も可能にした意志の自由性のことを指していると思われる。人類は自由をおう歌した結 果、不平等や戦争状態という悲惨をも生み出した。しかし、同時にこの自由があればこそ 、人間は本性として与えられていた自己保存の原理、幸福追求の原理にたちかえって、破 滅の道ではなく自己救済の道を自ら選びとることができるのであり、このように人類が自 らの意志でこれを可能にするのは神の摂理に添ったことなのだというのが、ルソーの論旨 であろう。
さらに、人類がたちいたった戦争状態から人類を救うことになる社会契約という行為に ついても、すでに拙論(註25)で論じたように人間の自由性、自律性を最大限に尊重しつつも、神 が遠隔操作をするかのように人間の意志そのものを動かすという図式になっていることに 注意しなければならない。
以上、ルソーにおける神と自然界の関係および神と人間社会との関係を個人のレヴェル と歴史のレヴェルとに分けて検討してきた。相手には自由な意志によって行為していると 思わせておいて、その実はこちらの思いのままに相手の意志を操作する手法を、われわれ は隠された《手》の手法と呼んできたが、これが最も当てはまるのは、神と人間社会との 関係においてである。ルソーによれば、人間は善をなすように神から造られており、悪き 情念に打ち勝って善を選び取る時に、人間は最も高貴になる。つまり人間がその本性に最 もたち帰るときには秩序は守られ、人間が輝くのである。神は人間に善を強制するのでは なく、その輝きを示すことによって、人間が自ら善を意志するように、またそれを実践す ることができるように仕向けている、というのがルソーの考えであろう。そうすると、善 を意志し、実践する際に障害として作用する悪き情念や悪の誘惑などは、人間が善をなし たときに、その喜び、高貴さを倍増させるためにあるもの、という役割をもつことになろ う。このようにルソーが考えていたとするならば、リスボンの大地震に際してヴォルテー ルが示した神にたいする懐疑にLe tout est bien(すべては善だ)と答えたルソーの態度 は、神が与えた本性的位置にたちかえることを主張し、それから逸脱した現状を激しく批 判したルソーの態度となんら矛盾することなくつながると言えるだろう(註26)

4.
すでに述べたように、一見無秩序に見える自然界に整然とした法則性があり、それがい くつかの少数の原理に還元されることから、自然の秩序的運動から想定される単一の意図 をルソーは神と名付けた。つまり、ルソーにおいては、神とは意図の統一性と同義的であ ると言えよう。ルソーの著作にはこれに類似した意図の統一性ないしは単一の意図を表す ものがいくつか見受けられる。
たとえば、『新エロイーズ』では、ヴォルマールによって統治されるヴォルマール家は 、神の統治する世界と類比される。そしてヴォルマール家における統治の方法は、すでに 拙論(註27)で明らかにしたように、隠された《手》の手法が用いられている。ここでは、ヴォル マール家の示す「各部分の協調と組織者の意図の統一性」が、統治における隠された《手 》の手法とともに、華麗さやそこに住む人々の幸福と結び付けて描かれていることに注意 しなければならない(註28)
二つ目の例は『社会契約論』の一般意志の概念に見ることができる。社会契約にさいし て市民は共同体に自己の全人格を譲渡し、そのことによって自己を全体の一部とする。こ うして生まれる共同体(国家)は人間の人格に似た、単一の意志をもった存在となる。こ の単一の意志を表すものが、ここで言う一般意志である(註29)。少なくとも『社会契約論』で描 かれる国家においては、一般意志は自然法則と同じ絶対的な力をもつことによって、一人 ひとりの市民の意志そのものとなり、個人の幸福追求の行為が全体の幸福追求の行為とな るような、いわば自由性と道徳性の理想的な一致した状態が生じることになる。この意味 で、一般意志の持つ作用は、強制によってではなく市民を全体の為の行為に向かわしめる という隠された《手》の手法を表していると言えよう(註30)。ここでもまたルソーは、意図の統 一性を、隠された《手》の手法とともに、市民の幸福の実現ということと結び付けて描い ている。
以上見てきたように、ルソーにおいては意図の統一性(単一性)は、その意図を実現す る際に用いられる隠された《手》の手法とともに、秩序を形成し、統治される側に幸福を もたらすものとしてイメージされていると結論することができるだろう。

《註》
使用したテキストは、J.-J.Rousseau,Oeuvres Completes, Gallimard,《Bibliotheque de la Pleiade》, t.I〜IVである。(ただし、以後は、O.C.と略記する。)
(註1) 『世界の名著』39(中央公論社)の野田又夫による解説から引用した。(31頁)
(註2) 佐々木力『ニュートンの宗教的、政治的世界』(『思想』第763号、1988年1月、岩波書店)の次のような解説を参考のこと。

「ニュートンによれば、もっと決定的なのは、未来の救世主の到来である。なぜなら 、それは堕落した現在の世界を終末に導いたうえで、真の宗教を持つ新世界を再建させ るであろうからである。このようなイエス観にウェストフォールは、18世紀に影響力 を持ち始める理神論に共通した語調を聴いている。」(103頁)
(註3) 同上書120頁に引用されている「予言者の言語」という遺稿のなかでニュートンは 次のように述べている。
「天と地から成り立っている全体的な自然世界は、王と人民からなる全体的な政治世 界のことを暗示している。〔・・・〕天はその中の事物とともに、王権と尊厳とそれら を享受するものを暗示し、また地はその中のあらゆる事物とともに下位の人民を、また 冥界とか地獄と呼ばれる地の最も下位の部分は人民の最も下位で悲惨な部分を暗示して いるのである。」
(註4) 同上、122頁を参照のこと。
(註5) 『世界の名著』30(中央公論社)の下村寅太郎による解説を参考にした。とくに41頁から44頁あたりを参照のこと。
(註6) スピノザは1632年ー1677年で、ニュートンは1643年ー1727年である。
(註7) スピノザの後に位置するライプニッツは、「予定調和」説によってこの考え方が徹底しており、全てが神の意志によるものであるとされ、人間の意志の自由はみとめられな い。
(註8) このあたりのことを分かり易く解説している最近の著作としては、川合清隆『ルソーの弁神論−その革命性』(『思想』第790号、1990年4月、岩波書店)があ る。
(註9) ルソー『エミール』O.C.t.IV, 580頁−581頁を参照のこと。
「この調和のすべてを、偶然に動かされる物質の盲目の機構から演繹するとは、なんと いう不条理な想定であることか。この偉大な全体の全部分の関係のなかに明らかにされ ている、意図の単一性を否定する人々は(・・・)」
「欲し、そして行いうるこの存在、それ自身が能動的なこの存在、要するに、それが どういうものであろうと、宇宙を動かし万物を秩序づけるこの存在、私はこれを神と呼 ぶ。」
(註10) 註(9)に引用した部分にあるように、ルソーにとって、神が「どういうものであろうと」問題ではなく、複雑で、一見無秩序に見える諸現象が少数の原理に還元されること が問題なのである。
(註11) ルソー自身、『新エロイーズ』でこの語を用いている。
「宇宙の秩序と、宇宙を構成しているもろもろの存在の統御ということについては、 あなたと新たに議論を始めるつもりはありません。ただ、これほど人間の力を超えた問 題については、目に見えぬ物事の判断は、見えることにもとづいて帰納的に行うほかは ないということ、あらゆる点から類推して、あなたが斥けておられるらしい一般的法則 は認められるということだけ申しておきます。」(O.C.t.II, 682頁)
また、神の存在証明が自然界における秩序性、法則性についての認識(高度に理性的 な認識)を前提としていることから、理性をもたない段階である子供には、信仰を要求 しないという態度が、ルソーにはある。
たとえば『エミール』のなかの次のような部分を参照されたい。
「信仰の義務は信仰の可能性を前提とする。信じない哲学者は間違っている。つちか ってきた理性を誤用し、真理を理解する力を持っているのにこれを拒否しているからだ 。しかし、キリスト教の信仰を告白する子供は、なにを信じているのか。(・・・)子 供が神を信ずると言うとき、彼が信じているのは神ではなくて、神と呼ばれるなにかが 存在すると彼に言ったピエールかジャックなのだ。」(555頁)
「だから、神を信じなくても救われる場合が存在するのであって、子供の時であるか 、痴呆であるか、いずれにしても、人間の精神が神性を認識するのに必要な働きをする 能力をもたない場合がこれに該当する。」(555頁)
(註12) 「しかしだからといって、この名を与えた存在〔神のこと・・・引用者注〕を私はいっそうよく知るわけではない。それは私の感官からも私の悟性からも同じように隠され ている。」(『エミール』O.C.t.IV, 581頁)
(註13) 「すべての人の眼に開かれている書物がただ一冊だけある。それは自然という書物だ。この偉大で崇高な書物によってこそ、私はその神聖な著者をあがめるすべを学ぶのだ。」(同上、625頁)
ルソーの宗教観では、自然の法則性を摂理として上位者とみなすとき神義論になるし 、自然の法則性をこの摂理の現れとみなすとき、自然は絶対的規範となる。
(註14) 同上、580頁。
(註15) 各部分が全体のなかに調和して関係しあう、このような対等、平等の関係を、『社会契約論』の国家を構成する市民の関係にも見ることができる。ここでも、市民の意志と しての一般意志以外には上位者を持たない。『社会契約論』O.C.t.III,361頁を参照 のこと。
(註16) 「人間は、能動的で自由だとすれば、自発的に行動する。人間が自由になすことは、 摂理によって秩序づけられた体系の中に入らないし、その責任を摂理に帰しえない。」 (『エミール』O.C.t.IV、587頁)
(註17) 「摂理は、それが人間に与えた自由を悪用して人間がなす悪を意志するわけではないが、かといって人間がこれをなすのを妨げもしない。」(同上、587頁)
(註18) ルソーはこのことを彼の著作のあちこちで述べている。ここでは『エミール』の例を引用ししておく。
「私は、善をなす力を要求することもしない。神がすでに私に与えているものを、な ぜ要求するのか。神は私に、善を愛するようにと良心を、善を知るようにと理性を、善 を選ぶようにと自由を与えているではないか。」(『エミール』605頁)
他に、『新エロイーズ』の683頁などを参照のこと。
(註19) これについてルソーの書いた最もよい例は、『新エロイーズ』のなかに出てくる。とりわけサン・プルーとの愛に負けたジュリが両親を裏切ったことを後悔する手紙にしば しば出てくる。
「私の心はひどく堕落しておりましたから、理性はあなたのおっしゃる哲学者たちの 議論に対抗できないのでした。」(O.C.t.I、351頁)
「情火の魔力よ! このようにしてお前は理性を惑わし(・・・)」(同上、353 頁)
「ほかに拠り所をもたない理性だけの理性の虚しい詭弁」(同上、359頁)
ルソーにとって理性とは、物事と物事との間の関係、関係と関係との間の関係を認識 する能力(『エミール』417頁を参照のこと)であるので、良心という基盤がなけれ ば、善のためにも悪のためにも利用される。つまり、理性だけでは人間を善に導くこと はできないとルソーは考えている。
(註20) たとえば『サヴォワの助任司祭の信仰告白』の次の一節は、このことをよく表している。
「悪をなすのを神が妨げはしないことに不平を言うのは、人間の本性をすぐれたもの にしたことに、また、行為を高貴なものにする道徳性を人間の行為に与えたことに不平 を言うことだ。至高の喜びは自分自身に満足することのなかにある。この満足に値する ためにこそ、私たちは、この地上におかれ、自由をさずけられたのであり、また、情念 によって誘惑され、良心によって制止されているのである。」(『エミール』587頁 )
(註21) 『人間不平等起源論』OCt.III、152頁。
ここで言う「野性の人が潜在的に持っていた能力」とは、「自己完成能力」のことである。ルソーによって人間の不幸の原因のように言われているこの能力は、ここでは神の摂理にそったものとして説明されている。
ところで、ルソーは『エミール』の中でも、能力と欲望との関係を幸福の問題とのか かわりで論じているが、もちろん彼の考えでは「能力と欲望とが釣り合っているような 存在は、絶対に幸福な存在である」(304頁)ということになる。
(註22) 拙論『ルソーと隠された《手》 その三−『社会契約論』を中心に−』(『りべるたす』第4号、1990年)を参照されたい。
(註23) ルソーの文明批判の力強さは、文明や学問、芸術そのものを批判しているかのように見えるが、実はそうではない。この場合も、人間が社会化したこと自体を批判している のではなくて、その純粋状態(自然状態)からの離脱を批判しているのであり、ルソー はつねに本性的自然状態の立場から腐敗、堕落した状態を批判しているのである。
(註24)『人間不平等起源論』127頁。
(註25)『ルソーと隠された《手》 その三−『社会契約論』を中心に−』
(註26)ルソーはライプニッツらオプティミストの「すべては善だ」( Tout est bien)に反対し、同時に、ヴォルテールのペシミスムにたいしてはオプティミスト擁護の側にまわった 。つまり、ルソーは「すべては善だ」として、地上の悪の存在を容認する立場を否定す るが、地上の悪の存在をもって摂理の否定ないしは神の善性を否定する立場にも与しな い。そこで、ルソーは地上の悪は人間の自由意志の結果として下位の原理にまわし、悪 をなすことを含めて人間に自由を与えたことを摂理として、メタ原理とみなし、それを 善と考えるのである。つまり、Le tout est bien「全体は善だ」ということになる。こ のことに示されるルソーにおける神の摂理のとらえ方の問題については、先に紹介した 川合清隆『ルソーの弁神論−その革命性』が詳しい。
(註27)『ルソーと隠された《手》−『新エロイーズ』を中心にして−』(『りべるた す』第2号、1988年)
(註28)「もし華麗ということがある種の物の豊かさにあるよりは、各部分の協調と組織者の意図の統一性を示す全体の美しい秩序にあることが真実ならば、この家にこそ実際に華麗 さがあるのです。」(『新エロイーズ』546頁)。またこの部分に付けられた原註に は「それゆえ考えうるかぎりの景観のうち、もっとも華麗なのは自然の景観だというこ とになる」とあり、ヴォルマール家が神の統治する自然と同列に考えられている。
(註29)「われわれのおのおのは、身体とすべての能力を共同のものとして、一般意志の最高の指導のもとにおく。」(『社会契約論』361頁)
(註30)「もし国家または都市が一個の精神的人格であって、この人格の生命がひとえに構成員の結合において成り立っているとすれば、また、国家の配慮のうちでいちばん重要なも のが自己保存の配慮であるとすれば、国家は、その各部分を全体にとって最も好都合な やり方で動かし配置するための、普遍的かつ強制的な力を持たなくてはならない。(・ ・・)そして、一般意志によって導かれるこの力が、まえに述べたように主権と名づけ られるものなのである。」(同上、372頁)
また、このあたりの隠された《手》の手法については、拙論
『ルソーと隠された《手 》 その三』を参照されたい。
[初出掲載誌 大阪千代田短期大学紀要第19号(1990年12月)]

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