ルソーと隠された《手》(5)

−音楽論を中心に−


1.
ルソーは終生、音楽を愛した。しかも彼はスタンダールのようなディレッタントではな く、作曲もすれば、クラヴサンを弾きながら歌も歌うし、写譜で生計をたてつつ、『音楽 辞典』を書くという、音楽の実践家であった。
ルソーが、大使の秘書として滞在したヴェネツィアで、イタリア・オペラの洗礼を受け て後、フランスに帰り、「前ロマン派」(註1)的と言われるような新しい音楽美学を確立していくのは、一七五〇年代の《ブッフォン論争》を通じてであった(註2)。この時期は、ちょうど彼が『学問芸術論』や『人間不平等起源論』をもってパリの文壇にデビューし、六〇年代に つぎつぎと出版される『新エロイーズ』『エミール』『社会契約論』を準備する時期でも あった。
これらの著作に描かれる理想的・原理的世界を解くうえで重要な概念であった隠された 《手》の手法や意図の統一性が(註3)、ルソーの音楽思想にも通底しているだろうことは容易に 予想できることであろう。これらの概念が彼の音楽思想にどのように表れているかを明ら かにするのが、この小論の目的である。

2.
先ず、ルソーが音楽の最も重要な原理と考えていた旋律の統一性(単一性)という概念 を中心にして、彼の音楽論を概観してみよう。
ルソーは、音楽をたんに耳に快いだけの音の連続としてとらえるのではなく、音を記号 として表される一種の言語と見なしている(註4)
ルソーによれば、旋律の一部をなす拍子は、話法における統辞法と同じ働きを持つもの であり(註5)、それによって単語と単語の脈絡がはっきりし、文章が区別され、全体に意味や関 係が与えられるように、拍子によって、旋律になんらかの意味づけが行われるのである。
また、音の高低によってイントネーションが、音の長短によって音節に似たものが、音 の強弱によって話し手の情感に似たものが与えられるのである。
このように旋律を言語的表現に類似したものとする考えの根拠は、『言語起源論』のな かで、言語・音楽同一起源論として説明されている。それによれば、原始的言語/音楽は 、情念の表現として、情念の持つ抑揚を模写するものとして生まれてきた(註6)。その後、古代 ギリシャ語あたりまではこの起源的性格が保持され、それゆえに、ギリシャ語においては 一定の韻律をもって語ることが、そのまま歌うことと同じであった(註7)。ところが、その後の ヨーロッパ諸言語においては、この語ること−ある明確な論理的意味の伝達−と 歌うこと−情念の表現−とが分離してしまう。いわゆる言語と音楽の分離が生じる ことになるのである(註8)
音楽は言語と同一の起源をもつがゆえに、音楽が聞く人の心や情念に強く語りかけ、心 を激しく揺さぶり、何故かは分からないが、心を感動させるという、音楽本来の不思議な 力を取り戻すためには、音楽を原初的な本来の姿に近付けることが必要であり、それは原 初の音楽がそうであったように、旋律に語らせることなのである(註9)
ここでルソーの音楽(旋律)模写説を説明しなければならないだろう。
ルソーは『言語起源論』を初めとして、一貫して、旋律を絵画におけるデッサンに、和 声を色彩に対比し、音楽におけるデッサンに相当する旋律こそが、音楽において人間の情 念を模写し、そのことによって聞き手のうちにも同じ情念を呼び起こすという精神的働き を有しているだけでなく、ある対象を見たり聞いたりしたときに心の中に起こる情感を旋 律によって描くことによって、可視的であれ不可視的であれ、なんらかの対象さえも描く −模写することができるとする。そしてこれこそが、精神的作用を生み出すことによ って音楽を芸術たらしめているものなのである。先に述べた、音楽の話法的表現にせよ、 ここでの模写的機能にせよ、論旨は情念の模写としての旋律という概念を中心軸として展 開されており、いかに旋律の模写的性格が、ルソーの音楽論にとって重要であるかが分か るのである(註10)
旋律が、聞き手の心になんらかの想念や情景を描いてみせるという表現力を持っている のにたいして、和声の方はこのような表現力を持たず、ただ耳に対してのみ物理的、肉体 的な作用を及ぼすにすぎないとルソーは考えた。和声にたいするルソーのこのような考え 方はおよそ一貫しているが、とりわけ『フランス音楽に関する手紙』や『ラモー氏の二つ の原理を吟味する』(以下『ラモー氏の二つの原理』と略記する)では、ルソーのそれと 真向から対立するラモーの主張が念頭にあるだけに、激しい調子を帯びている。
ここでルソーは、和声の原理が自然の原理を写しとっているわけではなく、非常に人為 性の高い約束事であり、それゆえに訓練された音楽家にしか分からないと主張する。また 、彼は歴史的な観点からも、ギリシャ時代には和声法というものは知られておらず、した がってラモーの主張するように、もし和声が音楽の唯一の基礎であり、唯一の効果の生み 手であるとするならば、和声を持たなかったギリシャ音楽とは一体何であったのか、ある いは先験的な和声感覚のようなものでもあったのかと論難するのである(註11)
その調子には、あたかも音楽にとって和声など無用であるとルソーが主張(註12)しているかの ような激しさがあるが、それはもちろんポレミックな情況のなかで、これらのパンフレッ トが書かれたという事情があったのであり、ルソーの音楽思想を全体として検討してみれ ば、必ずしもルソーは、和声が音楽的表現力において持つ役割を全面否定しているわけで はないことが分かる。
たとえば晩年の著作になるが、『バーニー氏に宛てて音楽を論ず』(以下『バーニー書 簡』と略記する)に収められた『グルック氏のイタリア語版「アルチュステ」に関する考 察の断章』(以下『「アルチュステ」考察断章』と略記する)においては、ルソーは、旋 律こそが音楽的表現力を持つのであり、和声はそれ自体としては模写する力がなく、感覚 にしか訴えることが出来ないという従来の主張を繰り返しつつも、同時に和声はそれ自体 ではいかなる感情も表現することがないが、旋律の性格を明らかにすることによって、旋 律による表現力を補強し、そのことで音楽的表現にあずかるのだと述べている(註13)
こうして、ルソーは音楽的表現の立場から、単一の想念を聞くものの心に引き起こすた めには、旋律は一つに統一されていなければならず、和声がそれを乱すようなことがあっ てはならないと考え、もちろん複数の声部が対等な関係でそれぞれに独自の旋律線を形成 していくポリフォニックな書法も否定するのである(註14)
これがルソーの主張する旋律の統一性(単一性)ということであるが、ルソーによれば 、いくつかの声部が同時に歌うことが必ずしも全面的に否定されるわけではないが、それ には複数の声部が交代で一つの旋律を歌うとか、それらが解け合って一つの旋律に聞こえ るように作られていることが要請されるのである(註15)

3.
ところでルソーは『告白』にも書いているように(註16)、ラモーの『和声論』で音楽理論を勉 強し、後年そのラモーと論争したり、『音楽辞典』を書いたりする音楽理論家でもあった 。ルソーがパリの知的世界にデビューしたのも『近代音楽論究』という新しい数字記譜法 に関する著作をもってであったし、『百科全書』に関わるきっかけも「音楽」の項目の執 筆を引き受けることによってであった。とりわけ、彼のデビュー作である『近代音楽論究 』という論文の持つ意義は、数字による記譜法の新しさにあるというよりは、むしろそこ で展開されている音楽理論にあるように思われる。
『近代音楽論究』の著者によれば、ある音をオルガンで鳴らすと、倍音(長三度音と五 度音)が共鳴によって得られる。その五度音を今度は基音として、共鳴する倍音をさがす 、というようにしていくと、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シという自然音階が得られる。 そして自然音階を得るために用いたこの方法が示しているように、どの音も基音にもなれ ば、そこから得られる相対音にもなることが出来るということが分かる。つまり、「自然 のなかには、それによって聞かれるたびごとにその音が見分けられるような特別で周知の 特性といったものを含んでいる音など存在していないのはすでに分かっている」(註17)というわ けである。したがってある音や音程の性格を決めるのは、それらが音階上のどの位置に属 するか、その音階の基音とどのような関係にあるのかによってなのである。つまり、「あ る旋法のすべての音は、その音がその旋法の基音とのあいだで有している関係によって、 いつでも考察されなければならないことを、確実な原則と考え」(註18)なければならないのである。
このように、音や音程は常に旋法との関係において規定されるとすると(註19)、それはさ らに旋法を規定する和声の原理によって支配されることになるのだが、ルソーは他の著作 で、和声または和声的なものによる旋律や歌の支配についてこう説明している。

「私たちの歌の性格を決めているのは、私たちの旋法であるし、また旋法は私たち の和声にもとづいている。したがって、和声が旋法と転調の感覚を補強し、確定する すべての場合に、和声はそれが歌を覆い隠しさえしなければ、歌の表現を補うのであ る。」(註20)
「単なる音程は歌ではない。それが歌となるのは、ただ、それが旋法中に指定され た自分の位置をもっている場合だけなのである。それに、低音は、旋法とこの音程が 占めている旋法の場所を確定しつつ、その時に、この音程がこれこれの歌であるとは っきり指示するのである。」(註21)
ルソーが『近代音楽論究』において新しい数字記譜法の根拠として確立しようとしてい た理論との関連からいけば、音や音程には絶対的な特性がないから、それの性格を決定す るのは常に、それらがどの旋法にあり、その旋法の基音とどのような和音関係にあり、ま たいかなる和声進行のなかに位置づけられているかによって決定されるのであり、この意 味において和声が旋律の性格を決定し、支配すると言えるのである(註22)
以上のことから、ルソーの主張は、音楽表現の側面と音楽理論の側面とのあいだで矛盾 しているようにみえるのである。旋律の統一性という原理と和声的なものによる他の声部 の支配という原理、一見すると相対立しているかに見える両者の関係が、ルソーの音楽思 想全体のなかでどのようになっているのか、いま少し検討してみよう。
旋律の統一性という原理は、ルソーにとって常に主題の提示ということと関わって説明 されている(註23)。つまり、声部が単一で、それがその旋律によって主題を提示するのが最も好 ましいのであるが(たとえば古代ギリシャの音楽はモノフォニーなので、この意味でルソ ーの最も評価するものである)、そうでなく、声部が複数の場合でも、たとえそれがいく つであろうとも、全体としてはそれらが統一されて単一の主題が聞く者に想起されなけれ ばならないのである。もしそうでなかったら、音楽がなにかを表現することはできない。 このなにかを表現するという精神的効果こそが音楽を芸術たらしめているのだから、主題 の統一されていない音楽は音楽とは言えないとさえ言いうるのである。このことを別の観 点から言えば、全体として提示される主題が統一されていればいいということを意味する のであって、このことは、ある一つの声部のみが主題の提示を専ら引き受けるべきだとか 、声部は一つしか認められないということを意味しない。ルソー自身、「野蛮さの残骸」(註24) だなどと酷論しているフーガなどのポリフォニー的書法においても、旋律の統一というこ とは不可能だとは限らないと言っているのである(註25)。以上のことから、旋律の統一性は主題 の統一性と言い変えることが可能であるような、あくまでも音楽表現に関わる原理なので ある。
旋律の統一性を音楽的表現力の最重要の原理としてとらえていたルソーは、和声的なも のがこの原理のためにどのように奉仕すべきだと考えていたのだろうか。ここで言う和声 的なものとは、和声的原理から生じる低音部や伴奏のことである。すでに述べたように、 低音部や伴奏はそれ自体としてはいかなる表現力も持たないが、他方でその和声的な動き は旋律の性格を確定し、その表現力を強める。しかし、ルソーが『フランス音楽に関する 手紙』のなかで口を酸っぱくしてまで繰り返したように、「低音は和声全体の基礎なので 、いつでも、他の声部を支配しなければならないし、また他の声部が低音をおえつけて、 覆ってしまうと、その結果としてそこから和声をいっそう鈍いものにしてしまう混乱が生 じる」(註26)が、かといって、「和声が細心の注意をはらって満たされている音楽はすべて、ま たあらゆる和音が全部そろった伴奏はすべて、大いに騒々しいものであるけれども、表現 力はまことにわずかなはずだとということが、確実で、自然にもとづいた原理」(註27)なのだと したら、いったいどのような伴奏が求められるのか、低音部はどうあるべきなのか。ルソ ーはそれにたいして次のような答えを出す。
「ある曲が人々の関心を引き付けるものとなるためには、その曲が引き起こしたい と望む感情をそれにもたらすには、全部の声部が主題の表現を強化すべく協力するこ とが必要です。(・・・)低音が、終始一貫した単純な歩みで、歌う者、聞く者をい わば導き、しかも両者のいずれもがそれに気がつかないことが必要です。要するに、 全体のアンサンブルが、同時に、耳には一つの旋律だけを、精神には一つの想念だけ をもたらすことが必要です。」(註28)
「低音の伴奏が、単純な叙唱で必要とされるのは、ただたんに、役者に手をかして やり、道案内をしてやるだけではなく、また同時に、音程の種類をはっきりとさせ、 すばらしい叙唱ではものすごく効果のあがる転調のからみあいを明確にするためでも ある。だが、この伴奏をひときわ鮮やかなものにする必要はなく、逆に私はそれがま ったく気づかれず、またまったくそれに注意を向けなくてもその効果が生じるのを望 みたいのである。」(註29)
ここに述べられているような、低音部や伴奏(つまり和声的な原理から生じるもの)に よる旋律への隠された支配、密かな操作について実際にルソーがイメージしているのは、 『フランス音楽に関する手紙』のなかで彼が評価しているイタリア式の単純な伴奏(註30)− 根音バスとそのオクターブのみを鳴らす方法−のことであるが、このように和音を単 純にすることによって、旋律の統一性は保持され、その上に和音にも表現力が備わるとい うのである。つまり、ルソーは和声による旋律の支配と、複数の声部が統一して一つの主 題を提示するように聞こえるという旋律の統一性の原理とを両立するために、和音を単純 化することによって、和声が旋律の性格を明確に指示するとともに、その単純化によって 自らは旋律による(上声部による)主題の単一な提示の妨げになることがないように身を 隠すという方法を主張するのである。我々はこの方法を隠された《手》の手法と呼びたい と思うのだが、一定の条件の下にでしかない。なぜなら、ルソーの他の著作においてこの テーマで検討した場合と違って、ここで対象になっている項は自由な意志というようなも のを持っているわけではないので、他の著作におけるように、AがBに自分の意志で行為 しているように見せ掛けておいて、実はBの意志を操作するという意味での隠された《手 》という手法と同じものをここに見出すわけにはいかないからである。この点について最 後に検討してみよう。

4.
ルソーの音楽美学が、ポリフォニーではなくホモフォニーに依拠していること(註31)、それを 最もよく表しているのがこの旋律の統一性という主張にあるということは、言うまでもな いことであろう。
この旋律の統一性は、筆者が隠された《手》のテーマの下に検討してきたようなルソー の世界における意図の統一性−支配と被支配の関係を隠された《手》の手法によって 調和的全体のなかに融合しようとする支配する側の意図の統一性−とどこかで通底す ると言えるのだろうか。
ルソーの意図の統一性の持つ意義は、統治する側が隠された《手》の手法によって、統 治−被統治の関係に対立のない調和的世界をつくる上で、この手法を成功裏に行使する のに必要だというだけではない。ルソーがこれによって作りあげる調和的世界の特徴は、 統治−被統治、支配−被支配の関係の解消になるのではなく、この関係を前提としつ つも、両者が自由な意志によってそのような関係に入り、自由な意志によって行為しなが らも、それらが連関しあい、調和のとれた全体が形成されるという点にある。そのために は個々の行為の総体を見渡し、個々の動きが全体のなかに調和するようにそれらを調整す る(隠された《手》の手法によって)単一の意志がなければならないのであって、それを ルソーは意図の統一性という概念で表したのであった。
したがって、意図の統一性という概念において最も重要な点は、個々の行為者(被統治 者)に自由な意志による行為を保証しつつ、同時に全体の調和をはかるためにこそ、全体 を統治する意志が単一なものに統一されていなければならないということにあると言うこ とができるだろう。
他方、旋律の統一性の概念の方は、どうであろうか。この統一性についての明確な定義 は、『音楽辞典』のなかの《旋律の統一性》の項目に見出すことができる。

「音楽はしたがって、感動させ、快感を与え、関心と注意力とを保持するためには 、ぜひとも歌わなければならない。だが、私たちの和音および和声の体系のなかでは 、歌うためにどうやって振舞ったらいいのだろうか。もし各声部がそれぞれ自分の固 有の歌を持っていたら、これらの歌がすべて、同時に聞こえてきたら、お互いにお互 いを破壊しない、もはや歌とはならないことだろう。もし、全部の声部が同じ歌を形 づくったら、もはや和声はなくなってしまうだろうし、それに奏楽はすべてユニゾン になってしまうだろう。
(・・・)旋律を窒息させるはずの和声が、旋律を生気づけ、補強し、明快なもの にする。諸声部はお互いにごっちゃにならずに、同じ効果をあげるべく協力する。そ して、声部のそれぞれが固有の歌を持っているように見えながらも、これらの声部の 全てが集合したものからは、ただ一つの同じ歌だけが立ち現れるのが聞こえるのであ る。これが、私が《旋律の統一性》と呼んでいるものである。」(註32)
つまり、和声体系によって、各声部が固有の歌をもって進行しているように見えても、 実はここに隠された《手》の手法が関与することによって、それらが統一され、単一の主 題が提示されるようにすべきであり、それによって初めて音楽が聞く人の心に語りかける ことができる、というわけである。
もちろんこの統一性という概念が、ここでは、「全ての芸術はなんらかの対象の《統一 性》を持っており、これが諸芸術が魂に与える快の源泉である」(註33)という、芸術論に限定さ れた考察に由来しているとはいえ、また他の著作では、個々の行為項は全てそれ自体で自 立的意志を持ったものであったのに対し、音楽においてはそうしたものではないという点 で異なるとはいえ、個々の行為項の外見的自立とそれを隠された《手》の手法によって統 一するという点において、意図の統一性と旋律の統一性とは通底する概念であると言える だろう。

《註》
使用したテキストは、J.-J. Rousseau, Ecrits sur la musique, in Oeuvres de J.J.Rousseau, t. XIII, Chez Lefevre, Paris, 1819.である。本文中および註における引用頁数はすべてここからのものである。
(註1) ジャン・クロード マルゴワール、『アルミードのモノローグに関するラモーの分析』(関根敏子・訳)、『季刊リコーダー』1983年第50号、44頁。
(註2) ルソーの音楽思想の成立や変化を、特にその模倣論を中心に跡づけているものとしては、海老沢 敏「ルソーの音楽模倣論」(『音楽の思想』昭和47年、音楽之友所収 、276頁−278頁)を参照されたい。
(註3) 次の拙論を参考にされたい。「ルソーと隠された《手》−『新エロイーズ』を中心 に−」『りべるたす』第2号、1988年。「ルソーと隠された《手》その二−エミール』を中心に−」『りべるたす』第3号、1989年。「ルソーと隠された《手》その三 −『社会契約論』を中心に−」『りべるたす』第4号、1990年。「ルソーと隠された《手》その四−宗教論を中心に−」『大阪千代田短期大学 紀要第19号、1991年。
(註4) 次のような文を参照のこと。

「旋律は話し言葉と同様、一つの言語である。なにも語らない歌は全て、何の値打 ちもないが、またそうしたものだけが和声に依存しうるのだ。高い音、低い音は話し の流れのなかでのアクセントに似たものを、短い音、長い音は韻律法のなかでの似た ような音節の音の長さを、等しくて変わらぬ拍子は詩句のリズムや脚韻を、弱い音、 強い音は話し手のゆっくりした、あるいは烈しい声を表している。」(『ラモー氏の 二つの原理』、335頁)
「音をそれが我々の神経のなかに引き起こす振動からのみ考察しようとする限りは 、音楽の原理をつかむことも、音楽の心情にたいする力をつかむことも全くないだろ う。旋律のなかの音はたんに音としてではなく、我々の情愛や感情の記号として我々 に働きかける。こうして、音はその表現するこころの動きを我々のうちに引き起こし 、我々はそのイメージをそこに認識する。」(『言語起源論』、220頁)
(註5) 『フランス音楽に関する手紙』、251頁を参照のこと。
(註6) 『言語起源論』、209頁。
(註7) 同上、210頁。
(註8) 同上、231頁。
(註9) 「言語が完成されていくにつれて、旋律に新たな規則がいくつも課されることになり、いつのまにか昔の生命力が失われていった。」(同上、230頁−231頁)
「旋律はもはや話し方に密着したものではなくなり、音楽はことばからしだいに独立し たものになっていった。それとともに、音楽が詩の抑揚であり、詩の調べでしかなか った頃、そして音楽によって詩が情念の上に強く働きかけていた頃の、あの不思議な 力は消えてしまった。」(同上、231頁)
(註10) ここに要約した旋律模写説は、全く同様の表現で、次のような箇所にも見出すことができる。
『言語起源論』、213頁。『ラモー氏の二つの原理』339頁。『バーニー書簡』 、380頁。
また対象の描写機能についてはこう述べている。
「耳で聞くことのできない事物を描けるというのは、音楽家の大きな有利のひとつ である。(・・・)しかし音楽はある感覚を通じて、他の感覚によって引き起こされ た情感にも似た情感を引き起こすことによって、さらに深く我々に働きかける。」( 同上、226頁)
「そして音楽家の技術とは、死んだような対象のイメージを、その光景を見ている 者のこころに引き起こされた動きのイメージに置き換え、表現するところにある。( ・・・)もちろん音楽家はそういったことを直接に表現するのではない。そのような 光景を見れば感ずるに違いない情感を、魂のなかに引き起こすのである。」(同上、 237頁)
(註11) たとえば、ルソーは、ある音にはいわゆる倍音の他に無数の部分音があるが、「芸術はそうしたものを和声から避けたのであり、まさにここで芸術はおのれの規則を自然 の規則のかわりに用いはじめたのである」(『ラモー氏の二つの原理』、327頁) として、そのためにそのようにして人為的に作られた和声体系は「訓練を受けた者や 職業的作曲家の導き手となりはしても、この芸術が発明されるずっと以前に自然が教 えてくれたあの歌のなかに和声などというものは決して聞いたこともなかったあの無 知な人たちの導き手は一体何だったのだろうか。すると彼らは経験に先んじる和声感 覚といったものを持っていたのだろうか。」(同上、329−330頁)と述べてい る。
(註12) 『ラモー氏の二つの原理』の方は当時公刊されなかったのだが、これに先だって、同様にポレミックな情況のなかで書かれた『フランス音楽に関する手紙』において、ル ソー自身「私は和声を犠牲にして旋律にあらゆる利点を認めてきたように見えるかも しれないが(・・・)」(279頁)と述べている。
(註13) 「ありとあらゆる音楽家の先入観に反して、和声それ自体では、耳にしか語りかけることができず、何も模写しないので、非常に弱い効果しか持ちえないということに、 ここで注意しておくことが大切である。和声が模写的音楽で成功する場合でも、それ は、伴奏の助けなしには、それ自体では十分明確にならないこともある旋律的抑揚を 表現したり、明確にしたり、強めたりすることによってでしかない。」(『バーニー 書簡』、380頁)
(註14) 『フランス音楽に関する手紙』のなかで、ルソーはフーガなどのポリフォニーによる音楽書法を「明らかに、野蛮さと悪趣味の残骸であって、私たちの国のゴシック式教 会の正門のように、今でも残っているのは、そうしたものを辛抱強く造った者の恥を さらすためだけなのです」(275頁)と全面否定している。
(註15) 『フランス音楽に関する手紙』のなかの次の部分を参照のこと。
「この旋律の統一性は必要不可欠で、音楽においては、劇における筋の統一性と同 じくらい重要な規則であるように私には思われます。なぜなら、それは同一原理にも とづき、同一目標を目指しているからです。」(270頁)
またポリフォニーと旋律の統一性の関わりについては、ポリフォニーを「私が打ち 立てたばかりの規則に対して、声部の増加と同じくらい有害なもう一つのもの」であ ると言い、「ある声部から別の声部へと、主題がそこを移動するにつれて、聞き手の 注意をたくみに導くことによって、フーガでも旋律の統一性を失わずにいることが全 く不可能だとは申しません。しかし、この仕事はまことに骨がおれるので、ほとんど 誰一人としてうまくいったことはない」(二七四頁)と、全く否定的に見ている。し かしこの「まことに骨のおれる」仕事を成し遂げた稀な作曲家がいないわけではない 。その一人はバッハであろう。
(註16) 『告白』、プレイアッド版『ルソー全集』第1巻、184頁。
(註17) 『近代音楽論究』、48頁。
また、基音、相対音に関して次の部分を参照のこと。
「その上、明らかに自然 自体が諸音における基音・相対音の区別へと我々を導いているのである。というのは 、どの音もその倍音、つまりそれが基音となっている調の基本和音である長三度と五 度を響かせるから、自ずと基音となる。また、どの音も自ずと相対音となりうるが、 それは、どの音でもある基音や基本和音のどれかになるからである。」(56頁−57頁)
(註18) 同上、102頁。
(註19) ここから、基音さえ明らかになれば、後は基音を1として、自然音階を7までの数字で表すことができるというルソーの数字記譜法が展開されるのである。
(註20) 『音楽辞典』の《旋律の統一性》の項。Oeuvres de J. J. Rousseau, t.XV, p.1819, Paris, Chez Lefevre.
(註21) 同上338頁。
(註22) 音や音程を旋法との関係でとらえるべきだというルソーの考えは、音楽表現にも関わるものとして、初期にも後期にも見られる。
「演奏の際に、音楽家はなにに一番注意しなければならないだろうか。おそらく、 それは作曲家の精神のなかに入り込むことであり、また曲の様式が要求するこの上な い忠実さでもって、彼の考えを表現すべく、その考えを自分のものとすることである 。ところが、作曲家の考えは、音を選ぶ際に、いつも基音に関係づけられている。そ れに、たとえば彼は《ファ・シャープ》音を、鍵盤のこのキイといったものとしてで はなく、その基音とこれこれの和音ないし、これこれの音程を形づくるものとして用 いることだろう。」(『近代音楽論究』、132貢)
「絶対音程はそれ自体ではいかなる性格も持たない。増二度、増六度(・・・)が 、それらを限定する感情を持つのは、音の動きのなかでそれらの位置によってに他な らず、歌だけではしばしば曖昧なままなこの位置を決定するのは、伴奏なのである。 模写的、演劇的音楽における和声の使用と効果とはこれである。」(『バーニー書簡 』、380頁)
(註23) 『音楽辞典』の《デッサン》の項を参考のこと。
「美しい歌や優れた和声を作るだけでは不充分で、これら全てを一つの主要な主題 によって結合し、作品の全部分が主題に関係し、主題によって作品が一つにならなけ ればならないのである。」Oeuvres de J. J. Rousseau, t. XIV, p.229,1819,Paris, Chez Lefevre.
(註24) 註(14)に引用した部分を参照のこと。
(註25) 註(15)に引用した部分を参照のこと。
(註26) 『フランス音楽に関する手紙』、281頁。
(註27) 同上、284頁。
(註28) 同上、275頁。
(註29) 『バーニー書簡』、375頁。
(註30) 『フランス音楽に関する手紙』、280頁を参照のこと。これにたいしてルソーは「何ひとつ欠けていない和声が、ずたずたの和声よりも印象が弱いし、私たちの伴奏の 弾き手たちは和音を全部いっぱいにしてやっとごちゃごちゃの雑音しか生み出さない のに、この子はもっとわずかな音でもって、より以上の和音を作りだし、あるいはせ めて自分の伴奏をもっと感じやすく、もっと気持のよいものにしているのだ」(280頁)という感想を述べている。
(註31) 西洋音楽史の大きな流れから見ると、古代ギリシャの和声のないモノフォニー、ルネッサンスのポリフォニー、ポリフォニー的要素とホモフォニー的要素の混ざり合った バロック、そしてホモフォニー的要素の強い古典派、ロマン派という変遷のなかで、 ルソーの音楽美学はバロックとロマン派の過渡期に位置づけられるだろう。
(註32) 前掲書、336ー337頁。
(註33) 同上、335頁。
(註34) 唯一の例外は、自然である。ルソーによれば、自然は意志を持たない。一見、個々ばらばらに運動しているように見えるが、神という単一の意志によって支配されている というのが、ルソーの考えであった。(拙論「ルソーと隠された《手》その4」を参 照のこと)
[初出掲載誌 りべるたす第5号(1991年9月)]

INDEXに戻る
inserted by FC2 system