ルソーと隠された《手》(6)

−まとめとして−


1.隠された《手》と自然状態
ルソーの自然状態の概念には二種類あり、それらが明確に区別されなければならない(註1)。その一つは、社会状態に対立する(歴史的位相では社会状態の前段階に位置づけられる)ものとしての自然状態である(註2)。人間が、結合契約によって一つの共同体に糾合される以前の、精神的であれ経済的であれ、完全に独立した存在としてある状態である。富者と貧者とを問わず、他者に依存しなければ生きていけない文明人を批判する視点として、ルソーが確立した概念である。
一般には、ルソーの自然状態と言うとこの概念をさす。しかしながら、ルソーの自然状 態の概念には、これとは別に時間的位相をもつと同時に共時的な視点から文明批判の力と なるような自然状態の概念があり、これが二つめのものである。この概念における自然状 態は、あるものの本来の、純粋な状態、それの本来あるべき姿を意味する。ルソーが『学 問芸術論』で、スパルタを理想社会として評価し、これを基準に18世紀のヨーロッパ社 会の文明批判をした際に依拠した視点が、これである(註3)。つまりこの概念に対置される状態 は、あるものがその純粋さを失って、腐敗・堕落した状態なのである。したがって、この 意味での自然状態から見るならば、前者の意味での自然状態にも、社会契約によって生じ た社会状態にも、その本来のあるべき姿としての純粋状態(自然状態)と腐敗・堕落した 状態とが存在し、この対立は通時的にも共時的にも現れうるのである(註4)
このようなルソーの自然状態についての二種類の概念との関わりから見ると、ルソーが 彼の著作のあちこちで用いてきた隠された《手》の手法は、大きく二つに分類される。そ の一つは、人間ないしは事物が本来もつべき純粋な状態という意味での自然状態を維持し 、そのことによってそれらの関係に調和的な世界をつくり出すために、この手法が用いら れる場合である。例えば、『エミール』においては、ルソーは子供が常に自分の意志で行 動し、事物の抵抗に出会い、そこから感覚器官としての体を鍛え、感覚を通して理性を培 い、判断力を身につけていくことを目指した。これは子供を社会状態にではなく、自然状 態に置くことを意味する。しかしそのためには子供の自然を歪める社会諸制度を排除し、 子供の成長段階に必要な事物の抵抗が子供の環境となるようにしなければならない。ここ に家庭教師の役割があり、家庭教師がこのような環境を整えるために用いるのが、隠され た《手》の手法なのであった。これを換言すれば、ルソーが『エミール』において用いた 方法は、隠された《手》によって《自然状態における子供》というような、社会状態にお いては普通あり得ない状況を仮装的に作り出すことにあったと言える。
『新エロイーズ』に描かれたヴォルマール家という共同体が、封建的荘園の啓蒙主義的 な理想像であるかどうかはここでは置くとして、ここに描かれた世界の特異性が主人と使 用人のあいだに存在している調和的関係に由来していることは疑いのないことである。ヴ ォルマール夫妻が使用人に対応する際の原則について、サン・プルーは手紙のなかで次の ように説明している。
「共和国においては、習俗、原理、徳によって市民に歯止めをかけます。しかし、 召使は、金で雇われた者は、強制と拘束をもってする以外にいかにして、抑制する ことができましょうか。主人の技術は、この拘束を楽しみあるいは利益のヴェール のもとに隠し、彼らに強制させられているすべてのことを自ら欲していると思わせ るところにあります。」(註5)
ここでルソーはヴォルマール家を共和国(おそらく彼が最も理想とするスパルタ)と比 較している。換言するなら、ヴォルマール夫妻が用いた隠された《手》の手法によって作 り出された調和的共同体を、優れた習俗と高貴な徳の支配する共和国と同列に置いて見て いるのである。つまり、ルソーにとってスパルタは社会状態に置かれた都市国家の本来あ るべき姿、自然状態を表しており、『新エロイーズ』においてはこのような国家の自然状 態を隠された《手》の手法によって、ヴォルマール家という封建的荘園を舞台にして虚構 的に作り出しているのだと言うことができるだろう。このような観点から見ると、ヴォル マール家における主人と使用人との関係は通常考えられるような上下の関係ではないこと が理解される。例えば、ヴォルマール夫妻の使用人に対する対応の仕方が一時的な感情や 目先の利益などに左右されないで、確固とした方針と力強さに基づいていることによって 、ちょうどそれは自然法則の力のようなものとして使用人に作用するのである(註6)。それはま た国家という観点から見るならば、ルソーが『社会契約論』において描いた一般意志に似 ていると考えることもできるであろう。ルソーの一般意志は共同体に共通な利益を表すも のとして措定されると、自然法則にも似た絶対的な力が付与され、悪に対して事物の抵抗 のような懲罰が与えられるので、こうして市民の善性が守られ、習俗が純化されるのであ った(註7)。ルソーは一般意志と市民の関係を自然法則と人間の関係と同じようなものにするこ とで(これをわれわれは隠された《手》の手法と呼んだのであった)、市民の純粋状態( 自然状態)を維持しようとしたのであった。なぜならルソーによれば、悪き情念を生み出 すのは人間と人間の関係においてなのであり、事物との関係は悪徳を生み出すことはない からである(註8)。一般意志と市民という関係が、ヴォルマール夫妻と使用人の関係と同じであ ること、しかも市民、使用人がともに隠された《手》によって自然状態に置かれていると いう点で相同的なのである。したがってヴォルマール家という小さな共同体に『社会契約 論』で描かれる国家という大きな共同体の雛形を見出すことができるのである。
さて、ルソーの自然状態の概念を社会状態との対比において歴史的位相のもとに見るこ とによって、隠された《手》の手法がよりダイナミックに用いられているケースがあるこ とが分かる。それは先のいくつかのケースのように自然状態の維持にではなく、腐敗・堕 落した状態から自然状態(純粋状態)にもどす際に隠された《手》の手法が用いられるケ ースなのである。そしてこの場合、この揺りもどしがさらにそれ以前とは質的に異なった 状態をもたらすという意味で、非常にダイナミックなのである。その例としては、ジュリ の《内的革命》と社会契約があげられる。この二つのケースは、その急激な変化を相手( ジュリおよび自然人)に引き起こす部分だけを見ても類似は明白であるが、この急激な変 化−自然状態への揺りもどし−の前後の状態を検討してみると、この点でも両者 は酷似している。
まず『新エロイーズ』におけるジュリの過程から検討してみよう。感じやすい魂を持っ て生まれ、両親から愛情をもっ育てられたジュリは、言わば少女としてもっとも自然な状 態にあった。しかしサン・プルーとの恋愛によって、情念が理性をおしころし、ジュリは サン・プルーとの関係をつなぎ止めるためなら姦通をしてもいいのだと考えるところまで 、堕落してしまうのである。このような状態で、ヴォルマールとの結婚式に臨んだジュリ の内部に、突然の急激な変化が起きたのは教会のなかでであった。この急激な変化は彼女 を理性の働く状態、少なくともサン・プルーとの恋愛によって堕落する以前の自然な状態 につれもどすことになる。この突然の変化、つまりジュリの《内的革命》がジュリの人生 を(もちろん物語をも多様な側面において)二つの部分に分かつ重要な断層の働きをして いることは言うまでもない。つまりここでジュリは生まれ変わったと言ってもいいのであ る(註9)。物語のなかでは、つまりジュリの書簡のなかでは彼女は「神」がそれを引き起こした のだと説明しているが、もちろんその心理学的実質は分からないのである(註10)。そこでわれわ れはこれを神の隠された《手》によるジュリの《内的革命》と呼ぶのである。その後、ヴ ォルマールとの結婚生活において、ジュリはヴォルマールの導きによって、理性と感情の 釣り合いのとれた状態、自己に確信を持った状態に自己回復していくのである。そしてこ のジュリの自己回復を導く際にヴォルマールが用いた方法も、実は隠された《手》の手法 であることはすでに拙論で述べたとおりである。
他方、『人間不平等起源論』および『社会契約論』に描かれたルソーの歴史観を素描し てみよう。人間が自己に充足している純粋な意味での自然状態は、私有財産の発生などに よって不平等を引き起こし、ついには戦争という堕落した状態にいたる。その極限状況に おいて、だれかのかけ声によって社会契約がなされ(『人間不平等起源論』では「富める 者」とされているが、『社会契約論』では何ら記されていない)、自然人は、共同体の一 員としての社会的存在(市民)に質的に変化する(註11)。すでに述べたように、この社会契約こ そが人間の歴史を自然状態と社会状態という二つの部分に分かつ断層なのである。そして それが誰の手でどのようにしてなされたのか分からないという意味で、われわれはこれを 隠された《手》の手法と呼ぶのである。その後、市民たちは自分たちの手で立法を行うの であるが、まだ彼らは社会状態におかれた人間としては出発点に位置する未熟な存在であ り、立法者の導きによって自己立法をなしつつ、自己教育をしていかなければならない。 そして立法者が市民たちを導く際の方法もまた隠された《手》の手法によっていることは すでに述べたところである。
これら両者に共通することは、その通時的な位相において、自然状態→腐敗・堕落し た状態→急激な変化による自然状態へのゆりもどし→他者の導きによる自己教育・自 己回復という図式をもっていることである。そして自然状態へのゆりもどしに際してルソ ーは隠された《手》の手法を用いるのだが、この急激な変化をこう呼ぶのは、どのように して、このような急激な変化が引き起こされたのか分からないという意味においてなので ある。
以上のことから、ルソーの自然状態論と隠された《手》の手法とはたんに不可分のもの であるというだけでなく、ジュリの人生という物語的記述と人類の歴史という学問的な記 述とに相同関係が認められるということから、これらの概念の思想的連関がルソーのなか でそうとう根源的なものであると考えることができるのである。
ところで、ルソーが自然状態を「もはや存在せず、おそらく存在しなかったし、たぶん 今後も存在することはけっしてなく、しかしながらわれわれの現状をよく判断するために は正しい考えを持つ必要のあるその状態」と言っていることから、自然状態をたんなる理 論上の作業仮説としてとらえる見方がある。しかしこれがたんなる作業仮説だとしたら、 文明批判において徹底した力をそれは持ちえなかったと思われる。というのは、たしかに 自然状態に生きる自然人−通時的に社会状態の前段階に位置づけられる−をルソ ーがいかに自然だとして文明人に提示しても、ヴォルテールの「あなたの著作を読むと人 は四足で歩きたくなります」という反応に代表されるように、進歩思想にとらえられた文 明人にとっては、ルソーの提示する自然人は過去のもの、決して我々がたちかえることの できない状態に過ぎないのであって、その立場からの文明批判は時の経過を非難するよう なもので、それほどの批判力を持ちうるとは思われないのである。しかしルソーが『新エ ロイーズ』や『エミール』『社会契約論』によって提示したものは、ルソーの同時代人達 の生活(腐敗・堕落した状態)をもとにして、そこから隠された《手》の手法によってル ソーが具体的記述のもとに虚構的・仮装的に作り出した自然状態のイメージであった。そ れゆえにルソーの同時代人たちがこのイメージに魅了されればされるほど、かえってそれ は彼らの矛盾を照らし出す光となって彼らに自己検討を迫るはずである。この意味での批 判力の大きさは、これら三著作がともに発禁処分、焚書処分に遇っていることから、逆に 推し量ることができるのである。またそのためには、これら三著作の最もすぐれた部分が 、先に示してきたように、意味内容の点でほぼ同じことを多様な分野において描き出して いるにすぎないのだということが明らかになるとき、その影響力の大きさがいっそうよく理解されるだろう。

2.隠された《手》と自由
ルソーにおける自由概念をわれわれは二つの側面からとらえることができると思う。一 つめは、内在的な側面で、ルソーが『エミール』において述べた欲望(欲求)と能力(力 )のつり合い関係に関わるものである。ルソーはそこで、人間にとっての真の幸福とは何 かという問題を論じつつ、人間の欲求と力のつり合い関係の如何にしたがって、人間は自 由な存在にも不自由な存在にもなることを指摘したが(註12)、彼の説明を図式すると次のように なる。

自然状態社会状態
大人子供大人子供
力=欲求力<欲求力=欲求に見えるが、
実は力<欲求
力<欲求
自由な存在親の助けを借りなければ、欲求が
満たされないという意味で、不自
由な存在。ただし事物の抵抗が自
然なので、この依存は自然なものである。
社会関係に由来する
他者への依存のため
に、実質上の不完全
な自由。
自然的および社会的依存
のため、二重の意味で不自由。

自然状態における大人、つまり自然人は、自分の力につり合った欲求しか持たないとい う意味で、完全に自由な存在であると見なされる。また子供の場合には、力<欲求である とはいえ、これは子供であるがゆえに必然的に生じる事態である。事物の自然な抵抗にた いしては親がそれを助けてくれるばかりでない。この事物の抵抗そのものによって子供は 体を鍛え、感覚をとおして判断力を身につけ、そのことによって、これを自己の力につり 合った欲求しか持たない自然人へと成長していく契機とするのである。この意味において 子供の不自由は自然な不自由なのである。したがって、ルソーの考えでは、自然状態にお ける力と欲求のつり合い関係こそが最も理想的なものなのである。
それに対して、社会状態になると、生産の分業化、貨幣の流通などによって、何ひとつ として自分一人でなしたと言えるものはなく、この意味において人間は不完全な自由しか 享受しえない(註13)。とりわけ、自由な存在だと思われている富者や権力者を、ルソーはこのよ うな視点から最も不自由な存在であると規定する。なぜなら、彼らは多くの使用人を使う ことによって、逆に多くの他者に依存して生きているからである(註14)。社会状態に置かれた子 供の場合には、子供もこのような社会的存在であるがゆえの社会的依存の上に、先に述べ た自然的依存が重なり、二重の意味で不自由な存在だと見なされる。
ルソーが『エミール』で問題にしたのは、もちろん自然状態というものは存在しないの であるから、社会状態に置かれた子供の教育の方法であった。これを依存と自由の観点か ら見直してみると、次のようにまとめることができるだろう。つまり、子供が経験する抵 抗には、自然の事物による抵抗と人間の意志による抵抗とがあり、人間の意志による抵抗 は子供が本来持つはずのない悪き情念を子供の心にうえつけることになる。換言すれば、 社会制度によって子供の自然な成長が歪められてしまうことになる。そこで、子供には子 供の行動に他者の意志が介入しないように完全に自由な状況を与えると同時に、子供の成 長段階に見合った必要な自然の抵抗を環境として設定してやることによって、子供が自分 の力と欲求の関係を把握し、自分の限界や力の及ぶ範囲を理解するようになることを目指 すのである。それは自然人がそうであったし(とルソーは言う)(註15)、エミールがそうなるよ うな人間、つまり自分の感覚や理性で確かめ、判断し、自分の意志と自分の能力によって のみ行動する人間をつくりあげる過程の第一歩である。これは、要するに、自然的及び社 会的という二重の依存関係を、自然的依存、つまり事物にたいする依存しか存在しないよ うな状態、すなわち《自然状態におかれた子供》が直面する状態を仮装的に作り出すこと だと言える。
自然の事物にのみ依存した状態というのは、客観的な視点からは確かに不自由なのであ るが、社会的諸制度、社会的人間関係にたいする依存がないので、この状態に置かれた子 供自身の主体の側から見るならば、自由なのである。つまり、自由な意志を妨げたり,強 制したりするものは、だれもいない。そうであればこそ彼は自分の意志に抵抗するものを 事物のなかにのみ見出すことになる。その結果彼は悪に染まることはない。なぜなら前章 でも指摘したように、ルソーによれば事物との関係は悪き情念を生み出すことはないから である。したがって子供は完全な自由に置かれなければならないのである。しかし社会状 態においてはそれは不可能であるため、そこでルソーは隠された《手》の手法を用いて、 子供の意志の完全な自由という状態を仮装的につくりだすのである。この自然状態の虚構 的設定という方法はルソーの教育論の本質をなす部分であると言ってもよく、それを成り 立たせているのが他ならぬ隠された《手》の手法なのである。『エミール』においてはこ の手法が一貫して用いられていることは言うまでもない。
さて、社会状態に置かれた大人の自由の問題をルソーはどのように扱っているのだろう か。この問題のためにわれわれは『社会契約論』を検討の対象とすることができるだろう 。ルソーは、先に述べた『エミール』のなかの二重の依存に関する部分で、諸国民の法で ある実定法が自然法則と同じように人間の意志を超えたものであれば、人間への依存( 換 言すると、人間相互の関係) は事物への依存( 事物と人間の関係) となんらかわるところ がなく、自由性と道徳性という相反するものが、両立することができるだろうと考えた(註16)。 換言すれば、ここでルソーは、社会状態に置かれた大人の場合にも、先の子供の場合につ いて『エミール』で行ったのと同じように、人間の意志の介入しない、事物の抵抗しか存 在しないような社会制度がいかにしたら可能かを模索し、それにたいして人間相互の関係 に人間の意志を超えたものを一貫させることによって達成されるという一応の答えを出し ているのである。そしてこの答えが『社会契約論』よりもいち早く、すでに『エミール』 のなかに記されているということは、この方法に対する基本的な態度が社会のなかの自然 人養成のための方法に対するそれと同じであることを意味していると言っていいだろう。
そして、ルソーが『エミール』において示唆していた社会制度の理想的なあり方を、わ れわれは『社会契約論』に描かれている共同体に見出すことができるのである。つまり、 そこでは共同体への市民の全面譲渡(「各構成員は自分の持つすべての権利とともに自分 を共同体全体に完全に譲渡する」(註17))、及び一般意志への絶対的力の付与(「一般意志への 服従を拒む者はだれでも、団体全体によって服従を強制される」(註18))とによって、他者を利 することが自己を利することにつながるような状況、自由であることのみが強制されるよ うな状況、自由に善のみを意志するようになるので、自由性と道徳性が両立するような状 況が生じるのである。
このような社会においては、ちょうど仮装された自然状態に置かれた子供が事物にしか 依存しないことによって、自由な意志によって行動しながらも、自づと自立した人間らし い人間(自然人)に成長していくように、市民は善を強制されることはないのに、善をな すことが自己を利すること、共同体を利することになるということを自然と学んでいき、 そのことによって、自由な意志によって善をなすようになる。言い換えれば、習俗が純化 されるのである。この意味において『社会契約論』の描く社会においては、市民は自由な のである。また、他者にたいする依存ということについてはどうであろうか。社会状態で は他者にたいする依存は不可避である。なぜなら自己を彼が属する共同体の不可分の一部 分にすることが、すなわち自然状態から社会状態への移行を意味するのであるから。した がってそれが解決されなければ自由の問題に全面的に答えたことにならないわけだが、ル ソーはそれを共同体への市民の全面譲渡という方法によって解決する。

「要するに、各人はすべての人に自分を与えるから、だれにも自分を与えないこと になる。そして、各構成員は自分にたいする権利を他人に譲り渡すが、それと同じ権 利を他人から受け取らないような構成員はだれもいないのだから、人は失うすべての ものと等価のものを手に入れ、また、持っているものを保存するための力をより多く 手に入れるのである。」(註19)
結合契約に際して、市民は自己を共同体に全面譲渡する。そして必要なものを完全に共 同体から還元される。このことは自己の存在を共同体に全部担保することによって、欲求 =力の状態を制度的に現出することなのである。そしてこれが意味する市民の自由という のは、質的に異なるとはいえ、欲求=力の状態にあるという意味で自然人の享受する完全 な自由と同じく完全な自由であると言えるだろう。
さて、隠された《手》の手法と自由の関係についてとらえる上での、第二の側面は、主 体外からの強制にたいする自由の問題である。ここで取り上げるのは、ヴォルマール夫妻 と使用人、神と人間の関係である。
ヴォルマール夫妻と使用人の関係において特徴的なことは、彼らの関係が公然とした統 治−被統治の関係であるということである。ヴォルマール夫妻は使用人を必要な仕事を してもらうために金で雇っているわけだから、仕事に関して命令、監督を行うし、他方使 用人は彼らの命令に従わなければならない。したがってこの意味で、使用人は不自由な存 在であるはずなのだが、しかしルソーの描くヴォルマール家では事情がまったく異なって いる。ここに見られるのは、ヴォルマール家という共同体の繁栄のために、みんなが各人 の能力に応じて必要な仕事を分担し、自分が何をすべきかを自分で判断し、自分の自由な 意志によって行動している姿である。被統治者たちの主体性の強さの点から判断すると、 彼らは決して自由を抑圧された被支配者には見えない。そして彼らの自由意志による主体 的な行動の調和のとれた世界の側から見ると、ヴォルマール夫妻も主人ではなく、その共 同体の一員にすぎず、ただたんに全体の動きを調整するという監督的な役割を分担してい るだけであるように見えるのである。もちろんこのような状況を作り出すために、ヴォル マール夫妻が隠された《手》の手法を用いていることについては、拙論で明らかにした。 隠された《手》の手法によって仮装された使用人の自由−自己以外の人間の意志によ る強制から解放された状態−は支配の隠蔽とも封建的荘園の理想的姿とも規定できる ように見えるが、ここでわれわれが問題にしている自由に関する観点から見るならば、ヴ ォルマール夫妻を啓蒙主義的領主とする解釈とは別の読み方が可能になる。その際に注目 しなければならないことは、ルソーがヴォルマールを神のレヴェルに位置づけていたこと である。そこで神と人間の関係にたいするルソーの見方とここでのヴォルマール夫妻と使 用人との関係の類似性が問題になるのである。
ルソーの摂理論は、すでに拙論で明らかにしたところであるが、ニュートンやライプニ ッツらの決定論にたいしても、摂理の存在に疑問を持つヴォルテールや神の存在を否定す る無神論者らにたいしても対立するものであった。つまり、人間に完全な自由意志を認め 、人間のなす全ての行為は人間の責任によるものだとするが、悪もふくめて、あらゆるこ とをなす自由を与えたのはほかならぬ神であり、神は人間が個人としても、歴史的にも自 らの自由意志で善をなすようになる存在として作ったという点で、摂理は全体として善な のだとみなすところにルソーの摂理論の特徴があったのである。そしてわれわれは、善を なすために必要なものが人間には神から与えられており、人間は自由意志によって善をな すようになるという人間と神との関係のあり方そのものを、隠された《手》の手法と呼ん だのであった。
必要なものを与えた後は、人間の自由意志に任せるという、このルソーの規定による神 と人間の関係は、はじめに仕事に関する必要な指示を与えた後は彼らの自主的な意志に任 せるという点で、先程検討したヴォルマール夫妻と使用人の関係に酷似している。さらに サヴォワの助任司祭が神のつくりだした秩序のなかに自分も位置づけられ、自己の本分を 全うすることで、神の秩序にあづかっていることに大きな喜びを見出しているように、ヴ ォルマール家の使用人たちも、主体的な働きによってヴォルマール家の繁栄に自分が寄与 していることに大きな喜びを見出しているのである。ルソーがヴォルマールを神に比肩し うる人物として位置づけていることも考えあわせるならば、『新エロイーズ』におけるヴ ォルマール夫妻と使用人の関係は、ルソーの摂理論−その本質をなすのは、隠された 《手》の手法にある−のイメージの realisation であると言えるのではないだろう か。したがって、ヴォルマール夫妻による使用人統治のあり方は、たんなる支配の隠蔽の ようなものではないことが理解されるである。
それは前章で指摘したように、主人としてのヴォルマール(ジュリ)の使用人たちに対 する対応の仕方が、ちょうど『社会契約論』の一般意志の市民に対する対応の仕方と同じ く、自然法則が事物や人間に対するがごとくであったように見える点からも指摘すること ができる。、その結果としてルソーの自由論の視点からも『エミール』と『社会契約論』 の間、ヴォルマール家における主人−使用人関係と摂理論における神−人間関係との 間に相同関係が認められると言えるのである。

3.隠された《手》と意図の統一性
ルソーが意図の統一性について述べたのは、おもに神の存在証明のためであった。意志 を持たない自然の事物が、それ自体の力によって、整然とした秩序だった規則的な運動を するということは考えられないので、別のところ、つまり自然を超越したところに、全自 然の関係を秩序づけ、少数の原理に還元している単一の意志を想定しなければならないと ルソーは考え、これを彼は神と名付けたのであった(註20)。この場合に神と名付けられた意図の 統一性すなわち秩序は、無秩序な運動をしているように見える諸事物のうらに隠れてそれ らを支配し、統治しているとみなされ、われわれはこのような統治の方法を隠された《手 》の手法と呼んだのである。
したがってルソー的な調和は常に、神の存在証明の仕方の逆向きに表される。つまり諸 事物を支配する創造者、組織者、統治者の統一された意図は常に隠されていなければなら ず、それゆえに外見上では無秩序に見える世界にこそ自然な調和があるということになる 。ルソー的な調和が描かれるところには必ず、自由が支配しているのはそのためである。 例えば、『新エロイーズ』におけるヴォルマール家の使用人たちの動きがそうであるし、 ジュリのつくったエリゼの庭の植物がそうである。それらはいかなる強制も受けず、自由 に働き、勝手きままに成長したように見えるが、実はその裏にヴォルマール夫妻の統一さ れた意図があり、またジュリの造園方針があるのである。そしてそうした秩序と呼べるも のが、目に見える無秩序な部分を支配しながらも、隠されているのはまさに彼らが隠され た《手》の手法を用いているからに他ならない。そして重要なことはヴォルマール夫妻の 統治によって作られたヴォルマール家という小世界やジュリによって作られたエリゼの庭 が自然な調和的世界として神の統治する自然界と同列に置かれていることである(註21)。以上の ことから、ルソー的な調和の世界は、意図の統一性というルソーの言葉によって表される 秩序化への指向が決してストレートに現れるのではなく、統治される側における無秩序、 自由の支配というように現れる世界であり、それを成り立たせているのが隠された《手》 という手法であると言うことができるだろう。
こうしてルソーは一見無秩序が支配していると思われるところに、秩序を求め、そこに 意図の統一性としての神の隠された《手》を見出そうとするのである。このような観点に 立つならば、例えば、『人間不平等起源論』をわれわれはそのような試みとして新たに見 直すことができるのである。というのは、ルソー自身その序文で、人間の歴史は「一見す ると、流砂の上に成り立っているようにみえるが」、実は「神の意志がつくった」確固と した基盤の上にできあがっているのだ述べており(註22)、これは要するに、人間の自由意志の錯 綜の総体としての歴史に、それを貫いている神の隠された《手》、つまり人間の自由意志 という下位原理を包括するメタ原理としての、人間の不平等の起源及びそこからの救済( 社会契約)という過程そのものが示す規則性−ルソーにはそれが神の《手》に見える(註23) −を明らかにしようとしているからである。また『社会契約論』が同じ意図にもとづ いて書かれたものであることも、その冒頭で「私は、人間をあるがままの姿でとらえ、法 律をありうる姿でとらえた場合、社会秩序のなかに、正当で確実な統治上のなんらかの規 則があるのかどうかを研究したいと思う」(註24)と述べていることからも窺うことができる。も ちろんこれらの著作では人間の自由意志のうらに隠されたメタ原理の姿が問題にされてい るという意味で、神に言及されることはないために、この著作から神の隠された《手》の 手法を直接的に引き出すことはできない。しかし、ルソーにとって人間が神に統治される 存在であることは『ヴォルテールへの手紙』において明らかである。この神−人間とい う図式は神−自然という図式と同じであり、そこからルソーは自然における秩序である 意図の統一性にあたるものを指向して、人間の歴史における規則性を問題にするだと考え ることができるのではないだろうか。そしてルソーが『人間不平等起源論』および『社会 契約論』においてわれわれに提示する規則性をわれわれは第一章において、純粋な自然状 態→その腐敗・堕落した状態→社会契約→純粋な社会状態→その腐敗・堕落した 状態というらせん的図式においてまとめたのであった。
第一章においては、自然状態の二つのとらえ方ということから、『エミール』における 家庭教師とエミールの関係、『新エロイーズ』のヴォルマール夫妻と使用人の関係、『社 会契約論』の一般意志と市民の関係のあいだに相同性を見出し、またジュリの人生史とル ソーの歴史観のあいだにも相同性を指摘した。第二章では、自由概念をもとにしても、家 庭教師とエミールの関係、一般意志と市民の関係のあいだに相同性が再び指摘しうること 、さらにヴォルマール夫妻と使用人の関係が神と人間の関係のルソー的イメージの現れで あることを明らかにした。このことはこの章で明らかにしたように、意図の統一性という 視点からでも指摘することができるのである。このように見ると、ルソーが彼の著作のあ ちこちで作り上げた大世界、小世界のほとんどが、隠された《手》の手法による調和的世 界という点で、同じ構造をもった世界であるということが指摘できるのである。

統治者被統治者隠された《手》の目的
ヴォルマール夫妻使用人自然状態(どちらの意味においても)を虚構的に作り上げ、それを維持する。(ヴォルマールとジュリ、立法者と市民の関係も含まれる。)
家庭教師エミール
一般意志市民
人間
妻(女)夫(男)両者の関係は相互的である。左の項が外見的には支配されていても、実質上は支配している。
和声(低音)旋律
ジュリ堕落した状態から突然の変化によって自然な状態に戻す。
?(富者)自然人

4.隠された《手》の思想的形成について
以上の検討によって、ルソーの思想を解明するうえでのキーワードとなる自然状態、意 図の統一性、自由といった諸概念にルソー的な特徴づけをするものが、隠された《手》の 手法であることが明らかになったと思われる。この隠された《手》の手法が、ルソーのな かで、いったいいつ頃、何を契機として形成されてきたか(註25)を検討するのが、この章の目的 である。
社会状態に対する自然状態と、腐敗・堕落した状態に対する自然状態という二重の意味 での自然状態という概念を、ルソーは必ずしも当初から持っていたわけではない。『学問 芸術論』の段階では、まだそれは腐敗・堕落した状態を批判する視点としての自然、つま り純粋状態を提示していたにすぎなかった。それゆえに彼の言う自然の概念のなかでは、 いわゆるスパルタをはじめとして彼が理想とする古代の都市国家における人間像と、後で ルソーの意識のなかで明確な像を結ぶことになる自然人とがはっきりとは分離していなか ったのである。しかし、『学問芸術論』に続く論争のなかで、不平等や悪の成立過程を明 らかにする必要が生じ、それに取り組む過程から、自然という語がもつ二重性、つまり本 来の姿(本性)と社会に対する自然という意味が、ルソーの自然状態の概念のなかでも分 化し、『人間不平等起源論』において彼独特の歴史観が形成されていったのである(註26)。もち ろんこの時点ではまだ、この歴史観と隠された《手》の手法は結びついていないが、その 二年後の『ヴォルテールへの手紙』において、摂理という大きな枠のなかで神と人間が結 び付けられることによってこの両者が結び付く手掛かりが生じてくるのである。
自然状態(1)→腐敗・堕落した状態→社会契約→社会状態→腐敗・堕落した状態 というルソー独特の歴史観の成立があって、始めて自然状態の場合にせよ(『エミール』 の場合)社会状態の場合にせよ(『社会契約論』の場合)、それぞれの純粋状態の虚構的 、仮装的設定によって調和的世界を現出しようとする試みが可能になってくるのだと言え よう。そしてこれらの調和的世界を成り立たせているのが隠された《手》の手法であるわ けだから、これら両者は不可分の関係にあると言えるのである。したがって隠された《手 》の手法が最も典型的な形をとっている『新エロイーズ』、『エミール』、『社会契約論 』の時期、1760年前後がこの手法の確立された時期だと考えられる。ではその形成は いつ頃に確定することができるだろうか。
先に、ルソーの自然状態論の確立(それはとりもなおさず、ルソー独特の歴史観の確立 でもあるのだが)が『人間不平等起源論』の時期であると述べたが、それだけでは直接隠 された《手》の手法と結び付くものではない。つまりこの手法がルソーの内部で連結すべ き問題意識が熟成していなければならないのである。われわれはそのような問題意識のル ソー内部での明確化を1755年前後の著作に見ることができる。例えば、『百科全書』 第五巻のために書かれた『政治経済論』がそれである。ここでルソーは、「人民の利益を 目的とする統治の、第一の、最も重要な格率は、すでに述べたように、あらゆることに関 して一般意志に従うこと」であり、そのためには「公共の自由と政府の権威とを同時に保 証」しなければならないと規定しながらも、そのような非常に困難な問題の解決を「天上 の声」とか「天上の霊感」に預けている。

「人間を自由にするために服従させ、その全成員に強制を加えることも相談もするこ となしに、彼ら全員の財産や労力や生命さえをも国家のために使用し、彼ら全員の同 意によって彼らを束縛し、彼らの拒否にもかかわらず彼らの同意を主張し、彼らが欲 しなかったことを行った時には、彼らが自分自身で罰するように強制する−この ような手段を、人はいかなる驚くべきわざによって見出すことができたであろうか。 また人々が服従しながら、しかも誰も命令するものがなく、仕えてはいるが主人を持 たないようなこと、要するに外見上は拘束の下に置かれてはいるが、誰も自分の自由 のうちで他人の自由を害しうるものしか失わないので、実際にはそれだけいっそう自 由であるというようなことは、どうして可能なのであろうか。」(註27)
ここでルソーは国家の本来あるべき姿を描きつつ、後に『社会契約論』において明確に なる社会契約後の純粋な社会状態を導き出す際に提起したのと同じ問題意識によって論を すすめている。人民の結合と統治において人民の自由と彼らが本来持つ善性とがいかにし たら保証されるかという問題意識はここにおいて、すでに熟していると言うことができる 。そして後はその手段を見つけ出すことだけが問題なのである。
他方、隠された《手》の手法の思想的形成の契機を確定するのは非常に困難であるが、 ただわれわれはルソーの音楽論−1753年前後の著作において明確な姿を表してく る−のなかにその雛形を見ることができる。音楽論における隠された《手》の手法の 特徴は、他の場合が統治する側からの一方的な意志操作にあったのに対して、これらの場 合にはどちらもが対等な関係にありつつも、全体としての調和、全体として統一されたも のになるためのものであり、しかもこれらの場合両者のこのような関係が、ルソーの考え では、自然な原理に基づいているという点にあった。この論点から再度、音楽論における この手法を概観してみよう。
音楽論においてはラモーに対する批判から、旋律が優位か和声が優位かの問題を設定し たのであるが、しかしこの問題は規定性の問題ではなかった。つまり、旋律が和声を規定 するか、和声が旋律を規定するのかの問題ではないのである。というのは、ある旋律に二 つ以上の和声進行を与えることもできるし(バッハのシャコンヌにメンデルスゾーン、シ ューマンがピアノ伴奏を付けた例)、また逆にある和声進行に二つ以上の旋律を付けるこ ともできる(ビートルズの" I GOT A FEELING の例)。したがって規定性という点から見 ると、どちらも同等なのであり、どちらが優位ということは決定することができない。実 際数多くの作曲家、シンガー・ソング・ライターたちはどちらの方法でも作曲しているの である。
しかし音楽をなにかを表現する芸術という視点から見るならば、事情は違ってくる。と いうのは、ある和声進行から異なった二つの旋律を引き出したからといって、その和声進 行に対して別の解釈が行なわれたとは見なされない。和声進行とそこから引き出される旋 律との関係には、多様な可能性があるにすぎないのであって、旋律の違いが解釈の違いを 意味しない。つまり、和声進行そのものには何ら表現力はないのである(註28)
ところが、ある旋律にどのような和声進行をつけるかということは、この旋律に対する フレージング(曲想の捉え方)の違い、つまりこの旋律がなにを表現しようとしているの かの解釈の違いとして現れてくる。それが複数の伴奏を可能にするのである。したがって 音楽をなにかを表現するものとして見るかぎりにおいては、旋律にどのような和声を付与 するかは、たんに可能性の問題ではなくて、解釈の問題−音楽において最も重要な問題 −に関わっており、それゆえに、旋律が和声に対して優位なのである。
さらに、旋律に作曲家がある和声進行を当てはめてしまうと、その旋律のもつ解釈の複 数可能性の中から、ある解釈のみが固定されることになる。いったんそうなると、それを 演奏する際には、伴奏が旋律の解釈を誘導することになる。しかし表現力を損なわないた めには、伴奏が旋律をじゃますることがあってはならない。換言すれば伴奏は密かに旋律 の性格を規定していかなければならないのである。これがルソーのいう旋律の統一性とい うことである。つまり表現のレヴェルでは旋律が唯一その力をもつのであり、伴奏にはそ の力はない。しかし旋律と伴奏の関係のレヴェルでは、外見上では旋律が自由に表現をし ているように見えて、実は伴奏が密かに旋律の表現力や内容を統御しているという関係が 成り立つのである(註29)
ルソーが『フランス音楽に関する手紙』で表明したこのような音楽論をしてなぜ隠され た《手》の手法の雛形だと呼ぶかと言うと、隠された《手》の手法が用いられている他の 諸ケースが、腐敗・堕落した社会状態という現状においていかに純粋な社会状態(または 自然状態)を虚構的・仮装的に現出するかということが問題になっているという意味で人 為的であるのにたいして、ルソーは音楽論における旋律と和声のこの関係が自然な原理に 基づいていると考えているからである。(これと同じ隠された《手》の形態をもつ夫婦関 係においてもルソーはそれを自然的と見なしていることに注意されたい(註30)。自然的原理の 発見があって、その後に人為的な適用が行われるのが自然な思想形成のあり方だと考える からである。そしてルソーの場合もそうだったと思われる。
したがって、『人間不平等起源論』において自然状態論が確立し、そしてそれに基づい て生じた問題意識−いかにしたら純粋な社会状態を構築することができるか−と 、音楽論のなかで発見された自然な原理としての隠された《手》の手法の雛形とが結合す ることによって、ルソーは一応の答えをつかんだと考えることができるのではないだろう か。こうして1760年前後にルソーの主要著作に現れた隠された《手》の手法が思想的 に確立されたと推論することができるのである。

《註》
使用したテキストは、J.-J. Rousseau, Oeuvres Completes,《Bibliotheque de la Pleiade》, t.I〜IV, Gallimard.である。以下OCI、II、III、IVと略記する。
(註1) このテーマでの各論については、以下の拙論を参照されたい。
「ルソーと隠された《手》−『新エロイーズ』を中心に−」「りべるたす」第2号、1988年。
「ルソーと隠された《手》その二−『エミール』を中心に−」「りべるたす」第3号、1989年。
「ルソーと隠された《手》その三−『社会契約論』を中心に−」「りべるたす」第4号、1990年。
「ルソーと隠された《手》その四−宗教論を中心に−」「大阪千代田短期大学紀要」第19号、1990年。
「ルソーと隠された《手》その五−音楽論を中心に−」「りべるたす」第5号、1991年。
(註2) 『人間不平等起源論』および『社会契約論』のそれぞれの社会契約を論じた部分の直前には、共通して自然状態の究極状況が描かれ、自然状態を社会状態の前段階と思わせ る論述の仕方になっている。『社会契約論』OCIII、360頁。『人間不平等起源論』 OCIII、176頁。
(註3) 『学問芸術論』OCIII、12頁。『学問芸術論』で描かれたスパルタを始めとして、まだその習俗が学問や芸術によって腐敗させられていない状態を、自然人の状態であると言うことはできないので、ここで対置されているのは社会状態における純粋状態とみ なさなければならない。
(註4) 「というのは、人間の現在の性質の中に最初からあったものと人為によるものとを区別し、さらに、もはや存在せず、おそらくは少しも存在したことがなく、たぶん今後も けっして存在しないであろうような一つの状態、しかしながらそれについて正しい観念 を持つことが、われわれの現在の状態をよりよく判断するためには必要であるような状 態を十分によく知ることは、取るに足らぬ企てではないからである。」(OCIII、12 3頁)
「われわれがこの主題について立ち入ることができる探究は、歴史的な真理ではなく 、たんに仮説的で、条件的な推理であると考えなければならない。その方が、事物の真 の起源を示すよりも、事物の本性を明らかにするのに適切であり、・・・」(同上、1 33頁)
(註5) 『新エロイーズ』、OCII、453頁。
(註6) たとえば、サン・プルーの手紙によれば、ヴォルマール氏は「公明正大、峻厳な人」であり、けっして「気紛れをおこしたり、不機嫌になったりせず」、また懲罰について もヴォルマール氏から暇が出されても、ジュリがとりなしをしてくれれば、それが取り 消されることもあるが、ジュリから暇を出されたらそれは決して取消のきかないものと いう「ルール」があるという点がこれにあたる。(第4部手紙10を参照のこと)
(註7) 「実際、人間としての各個人は、市民としての彼の持っている一般意志に反したり、 あるいはそれと異なる特殊意志を持つことがある。(・・・)そして、彼は、(・・・ )臣民の義務を果たそうともしないで、市民の権利を享受するかもしれない。このよう な不正が進めば、政治体の破滅を招くだろう。したがって、社会契約を空虚な公式とし ないために、一般意志への服従を拒む者はだれでも、団体全体によって服従を強制され る」(OCIII、363ー364頁)が、それは自由であるように強制されるということ であり、市民は一般意志の絶対的力のもとで自由に置かれるのである。またスパルタの 例としては次のような記述がある。

「自然は子供にたいして、まさしくスパルタの法律がその市民の子供にたいするよう に働きかけて、自然は立派な体格の人々を丈夫にし、ほかのすべての人々を滅ぼしてし まい、・・・」(『人間不平等起源論』、OCIII、135頁)
(註8) 「事物への依存は、なんら道徳性を有せず、自由をそこなわなず、悪を生み出さない。人間への依存は、無秩序なものであり、あらゆる悪を生み出し、・・・」(『エミー ル』、OCIV、311頁)
(註9) 「私は自分が再生する思いでした。」(『新エロイーズ』、OCII、355頁) なお、ここで言う心理学的とは、例えばある宗教者が突然の啓示によって改心をしたと いうような場合に、この改心を心理学的に説明するのは困難であるというのと同じ意味 においてである。ただしジュリの「回心」が物語の転回の過程で、どのような事態を契 機として起きたのかという問題、この「回心」のカルヴィニスム的な意味づけについて は、論ずることが可能である。この点については戸部松実氏の論文「小説『新エロイー ズ』研究覚書−ジュリの回心とカルヴィニズムの論理−」(青山学院大学文学 部紀要第22号)が詳しい。
(註10) 同上、364頁。
(註11) 『社会契約論』第1篇第八章「社会状態について」を参照のこと。
(註12) 『エミール』、OCIV、304ー311頁。
(註13) 自然状態と社会状態の決定的な違いは、人間と事物の関係が直接的であったのが、生産の分業化や貨幣の流通により重層化されている点である。ルソーがこのような重層的 な人間関係を嫌い、心と心が直接通い合うような人間関係を求めたことは有名で、また 彼の著作にはそのような交友があちこちに描かれている。金銭に関しても、それゆえに ルソーは「金銭は、人が考えているほど貴重なものとはけっして思えなかった。それだ けではない。ひどく便利なものとさえも思えなかった。」と述べている。(『告白』O CI、36頁。)
(註14) 「私たち人間はみな、他人なしにすますことができず、この点ではふたたび弱くみじめな存在にもどっている。私たらは大人になるために作られていた。法律と社会は、私 たちをふたたび子供の状態に投げ込んでしまった。金持も貴族も王侯もみんな子供だ。 」(『エミール』、OCIV、310頁)
(註15) 『エミール』、OCIV、360頁。
(註16) 同上、311頁。
(註17) 『社会契約論』、OCIII、360頁。
(註18) 同上、364頁。
(註19) 同上、361頁。
(註20) 『エミール』、OCIV、580ー581頁。
(註21) 「もし華麗ということがある種の物の豊かさにあるよりは、各部分の協調と組織者の意図の統一性を示す全体の美しい秩序にあることが真実ならば、この家にこそ実際に華 麗さがあるのです。」(『新エロイーズ』、OCII、546頁)
またこの部分に付けられた原注には「それゆえ考えうるかぎりの景観のうち、もっとも華麗なのは自然の景 観だということになる」とあり、ヴォルマール家が神の統治する自然と同列に考えられ ている。
またエリゼの庭に関しては、サン・プルーとヴォルマール夫妻の会話のなかで、夫妻 は彼らがこの庭園のためにかけた労力が見えないようにしたのは「自然はほんとうの魅 力を人の目から隠したがっている」からであり、また「とりわけ自然が作るものに関し ては」そうするのが「真の趣味」に適うからだと説明している。つまりエリゼの庭の造 園原理は自然を真似ることなのである。それはもちろん、できあがった庭の様相がそう であるというだけでなく、その奥に隠された夫妻の意図や造園の手法−それを隠され た《手》の手法と呼んだのであるが−においても、そうなのである。(この部分に関 しては『新エロイーズ』、第4部手紙11を参照のこと。
(註22) 『人間不平等起源論』、OCIII、127頁。
(註23) ルソーが『ヴォルテールへの手紙』で展開した摂理論−全体としては摂理は善− とルソーがこの序文において書いていることを結び付けて考えるならば、人間の歴史に ある種の規則性を見出すことによって神の摂理が善であることを証明しようとしている と見なすこともできるのではないだろうか。そしてカントがある断片のなかで自然科学 における法則性、規則性の発見者であるニュートンとルソーとを並べて、「ルソーは人 間の装う多様な姿の下に、深く隠れている人間の自然とその秘められた法則とを、はじ めて発見した。そしてその法則にもとづき彼は摂理が正しいことを示した」(『美と崇 高の感情に関する考察覚え書き』、理想社版カント全集、第16巻、306頁)と書い たとき、カントのルソー読解は、ルソーの規則性指向をよくとらえているという点で、 評価しうるものだと思われる。
(註24) 『社会契約論』、OCIII、351頁。
(註25) 隠された《手》の手法のルソー内部での無意識的な意識構造が、ルソーをとりまく時代的、環境的、地域的なコンテキストのどのような部分と結び付いているのかという問 題、要するに隠された《手》の思想的起源の問題については稿を改めて論ずる予定であ る。
(註26) 小笠原弘親、『初期ルソーの政治思想』(御茶の水書房、1979年)の次のような箇所を参考のこと。
例えば、氏は『学問芸術論』においてルソーが学問批判のために「学問対<徳>を対 置させ、そこからさらに学問、芸術の進歩を 歌する現代にたいする<徳>と<無知> 代、原始(あるいは未開)という図式を設定して」(60頁)おり、現代に対して と未開が同列に置かれていたことを明らかにした。さらに、『人間不平等起源論』 になると、自然状態を二つの段階に分け、「まず第一部において純粋な自然状態を描き 、つづく第二部の前半では、この第一自然状態から人間が離脱していくプロセスを政治 社会の成立以前の状態まであとづけ、このプロセス全体が第二自然状態として位置づけ られる」(107ー8頁)と自然状態の概念に分化が現れることを指摘している。
(註27) 『政治経済論』、OCIII、248頁。
(註28) 「したがって、和声が細心の注意をはらって満たされている音楽はすべて、またあらゆる和音が全部そろった伴奏はすべて、大いに騒々しいものではあるが、表現力はまこ とにわずかなはずだということが、確実で、自然にもとづいた原理なのです。」『フラ ンス音楽に関する手紙』J.-J. Rousseau, Examen de deux principes avances par M. Rameau, in Oeuvres de J.-J. Rousseau, t. XIII, p.339, Chez Lefevre, Paris, 1819.
「最も美しい和音は、最も美しい色彩と同様に、感覚に快い印象をもたらすことがで きるが、それ以上のことはなにもない。」 『ラモー氏が主張する二つの原理を吟味す る』、J.-J. Rousseau, Examen de deux principes avances par M. Rameau, in Oeuvres de J.-J. Rousseau, t.XIII, p.339, Chez Lefevre, Paris, 1819.
(註29) 「ある曲が人々の関心をひきつけるものとなるためには、その曲が魂に引き起こしたいと望む感情をそれにもたらすには、全部の声部が主題の表現を強化すべく協力するこ とが必要です。(・・・)低音が、終始一貫した単純な歩みで、歌う者、聴く者を言わ ば導き、しかも両者のいずれもがそれに気がつかないことが必要です。要するに、全体 のアンサンブルが、同時には、耳には一つだけの旋律を、精神には一つだけの想念をも たらすことが必要です。」『フランス音楽に関する手紙』、270頁。
(註30) 「こうして、両性の構成に由来する第三の帰結が導き出される。それは、強者が外見では主人公だが、じつは弱者に依存しているということである。そして、それは情事の 軽薄な習慣によるのでも、保護者の寛大さによるのでもなく、不変の自然法則によるも のである。」(『エミール』、OCIII、695頁)
[初出掲載誌 大阪千代田短期大学紀要第20号(1991年12月)]

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