ルソーの音楽思想の現代性


「仮に観念なるものが言語の価値となる以前に、あらかじめ人間精神のうちに作られているものだとしたら、かならず起こるであろうことの一つとして、言語が異なっても、諸事項は正確に一致するはずである。・・・正確な照応などというものはないのである。」(ソシュール)(註1)

1.はじめに
ルソーの政治思想や文学思想における現代性について、論じられることは多いが、彼の音楽思想がもつ現代性について語られることは、ほとんどない。しかし皆無というわけではない。
その数少ない研究者の一人であるマリー=エリザベト・デュシェは、ルソーによる近代西洋音楽批判が音楽行為の原点を求める現代の音楽思想と共通するという点で、その現代性を指摘している。たとえば、第一に、近代西洋の音楽体系で記譜できるもののみが楽音と見なされ、それ以外のものは雑音として排除されているというルソーの批判は、楽音というものは、特定の文化の認知を受けたものであると考え、それ以前の「原音響」への回帰を主張する現代の音楽思想にかなり近い。第二に、理論的考察にたいするルソーの信頼の欠如は、音楽に関する伝統的な諸概念の相対性を明るみに出しただけでなく、音楽に関する客観的な知などというものが果たして存在するのかという現代思想が抱える問題を先取りするものである。第三に、近代西洋が行き着いた音楽の物理学的合理化を拒否することによってルソーが到達した音楽と言語の本質的連関という思想が、ルソーに近代西洋の音楽的民族中心主義にたいする批判に行き着かせた(註2)
もう一人はジャック・デリダである。彼はレヴィ=ストロースによる人類学の創始者としてのルソーという評価(註3)を念頭におきつつ、レヴィ=ストロースが評価したようなルソーの西欧民族中心主義批判の裏にはそれと対をなす西欧民族中心主義が潜んでいることを指摘しただけでなく、ルソーの言語論がロゴス=音声中心主義という古代ギリシャ哲学からつづく西洋知に根を張っていることを指摘した(註4)
当然のことながら、18世紀の思想家であるルソーが、それ以降の約2世紀におよぶ思想的営為の到達点としての現代思想のもっとも先端的な問題を扱ったとか、18世紀には想像もつかなかったような現代的な問題を論じたなどということはありえまい。ただ、哲学とか思想というものが人間の本質を問題にするものであるかぎり、18世紀の思想家の鋭い問題意識がそれから2世紀後になって始めて解明されるような人間の営みや文化総体の本質についてのおおざっぱにせよ素描であることは、決してないとは言えないだろう。本論の目的は、そのような観点から、ルソーの最初の著書である『近代音楽論究』で浮き彫りにされた近代西洋のエピステーメーがラモーとの論争を通じてどのようにして乗り越えられたか、そして新たに形成されたルソーの音楽思想がどの点で現代思想とりわけソシュールの思想を先取りするものであるかを解明することにある。


2.『近代音楽論究』における近代西洋音楽認識
ルソーの処女論文である『近代音楽論究』がもっている意義は、数字による新しい記譜法を提案したということにあるよりも、その本来の目的を超えて近代西洋音楽が内包するエピステーメーを明るみに出したことにある。


2-1.体系性
近代西洋音楽が用いる楽音はそれぞれが絶対音度をもっているが、そのことは言語における音節のようなもので、楽音それ自体にはなんの意味=価値もない。一点ハ音は、ある時には主音となり、別の場合には属音とか上中音になったりする。ルソーはこのことを次のように述べた。

「すでに知られているように、自然のなかには、よく知られた個別の特性を持っていて、そのために何度聞いてもそれだと区別できるような音はまったく存在しない。たったひとつの音だけでは、それがラやレではなくてドであると確定できないし、その音だけを聞いているかぎりでは、あの音ではなくこの音だとあなたに断定させるようなものはなにも見つけることはできない。」(註5)
楽音が何らかの意味=価値を持つには、一定の関係の中に置かれなければならない。その関係とは、近代西洋音楽に固有の音響体系である。ある音を主音として生じるオクターヴをさらに上下方向に5回から8回繰り返すことによって一つの音列が形成される。C音を主音とすればハ調が形成され、G音を主音とすればト調が形成される。オクターヴ内の12音のそれぞれを主音とすることで12の調が形成される。個々の調の違いは、主音をオクターヴ上のどの音においたかという点にあるだけで、そこから形成される音列はすべての調において相同性を持っている。そこでオクターヴ内の自然音階を主音ドを1として以下7までの数字で表すことをルソーは着想した。通常、曲は転調するまでは同一の調の中を動くので、何調であるかということと、最初の音がどのオクターヴ内にあるかをAからEまでの記号で指示してやれば、すべての曲を数字によって記譜することができるとルソーは考えたのである。さらに転調する場合には、転調後の最初の音が新しい調のどの音階名にあたるかを指示することによって、新しい調にスムースに移行できると考えた。ルソーが作った《全調・全音部記号表》は、この方法の前提になっている平均律によって形成される全楽音の関係の網の目を表している。この表は、絶対音度では同一の音が、異なった調におかれることによってまったく異なった意味=価値をもつこと、そしてそれぞれの調がどのような関係にあるかを一目瞭然のもとに表している。
第二に、近代西洋音楽を支配しているのは調性である。二つの音が形成する音程もそれ自体ではなんの意味=価値ももたない。たとえば、絶対音度一点ハ音と一点ト音の連続はそれ自体ではいかなる意味ももたず、いかなる和音も形成しないが、それらがト調におかれれば、完全終止となって、決着、終了、安定の意味をもつ。ところが、変イ調におかれれば、不完全終止となり、不安定、未決の意義をもつようになる。このように、近代西洋和声では、いくつかの音の連続でさえ、それ自体では固有の意味=価値をもたず、それを確定するのは調性である。調性音楽を成り立たせているのは、主音・主和音を終止音・終止和音とすることで、これらに支配的な位置づけを与え、それ以外の音や和音はこれらにたいする対立、経過、代理としての従属的な機能を与えることによって、音階中の諸音がつねに主音や主和音を中心にして、これの支配の下に統一的な音程関係を形成するような音楽のことである。調性は、音と音の関係を和声的に規定する関係の網の目構造である。
このような縦の関係においてもルソーの方法は、その本質を明らかにする。通常の楽譜では、音域が変わると音部記号が変わり、それに伴って五線譜の各線が持つ意味が変わるので、ト音記号譜の第一線上の音符はファなのに、ヘ音記号譜の第一線上の音符はソになるということが起こる上に、和音は複数の音部記号譜にまたがって表記されるし、調が変わってシャープやフラットが音部記号に付いていたりすると、まったく様相を変えるため、和声関係を一目瞭然に表すことはない。それにたいしてルソーの方法は、数字がつねに主音との関係を示していることから、たとえパート譜が並べてあっても、数字を見れば、どういう和音なのか一目で分かることになる。ルソーの数字記譜法ではつねに主音は1によって表わされるので、あるいはそれがどんな音部記号譜にあろうと、どんな調にあろうと、ド−ミ−ソという主和音は、1−3−5によって表される。またそれを転回しても、5−1−3、3−1−5というようにその和音が主和音の転回形であることを、明瞭に表すことになる。
旋律を作るにせよ、和音を付けるにせよ、音を動かすということは、音を一定の関係のなかに置くことである。近代西洋音楽を支配するそのような関係の中にはいることによって、楽音は主音となったり、属音となったりする。すなわち機能=価値をもつことになる。この関係の網の目の中に置かれる以前の楽音は、それ自体では何ら固有の価値をもたない。ルソーの数字記譜法は、楽音がもつこのような機能=価値をそのまま表示する方法なのである。こうして、ルソーの記譜法は記譜という本来の働きを超えて、通常の楽譜が決して明らかにすることのない近代西洋音楽の内包する体系構造を明るみに出すことになった。『近代音楽論究』のルソーがたちいたった認識は、近代西洋の楽音はそれ自体でできあがった価値をもっているのではなく、網の目状の音響体系が形成する関係の中におかれて始めてその意味=価値をもつ価値の体系にほかならないということである。
音楽を、それ自体ではなんの意味も価値ももたず、関係の中に置かれて始めてその価値を顕現するような単位によって構成される体系としてとらえたのは、なにもルソーの独創ではなく、すでにラモーが獲得していたものである(註6)。その上、近代西洋音楽の音響体系を自然に存在する客観的な音響構造の直接的な反映だと考えるという点において、『近代音楽論究』のルソーはまだラモーを超えてはいない。次にこの点について検討してみよう。


2−2.和声体系の必然性
近代西洋音楽を構成する単位である楽音の生成について、ルソーは、長三度と五度の共鳴によってオクターヴ内の自然音階を導き出していることから分かるように、純正律を用いている。ある音を基音としてもっとも協和度の高い音を求める方法としては自然倍音列があるが、この方法だと、イ音とヘ音の生成に問題がある。そこで、ギリシャの音律論からすでに存在した調和分割の方法を用いて自然倍音列の不十分さを補ったのが、純正律である。純正律の基本的な原理は、自然倍音列の中から、3和音を構成するのに最も協和度の高い純正五度と純正長三度を組み合わせて、すべての音律を決定することである。それゆえ純正律では音の比率が非常に単純になる。

「自然は、すべての調で正確な音程で音を動かすことを私たちに教えている。自然によって導かれた声は正確にそれを実践する。欠陥に満ちた実践に従うために自然が命じるところから離れなければならないだろうか。そして、楽器の長所のためではなく、欠点のために、すべてのなかで最も完全なものの自然な表現を犠牲にしなければならないだろうか。いまこそ、音の生成について私が先に述べたことをすべて思い出すべきである。そして、そうすることによってこそ、わたしの記号の使用が、自然の働きの非常に忠実で非常に正確な表現に他ならないということが納得されるだろう。」(註7)
これはルソーが平均律を批判するために述べている箇所であるが、ここで自然という言葉を多用していることからも分かるように、ルソーは純正律によって示される音響体系が自然を最も忠実に反映したものであると考えている。
しかしながら、純正律は実際の運用に当たってはさまざまな困難があった。たとえば主和音は大全音+小全音+半音+大全音という組み合わせでできているため、ハ長調からト長調に転調したときに、そのままでは主和音が小全音+大全音+半音+大全音という組み合わせになり、イ音を1シントニック・コンマだけ上げてやらなければならない。ピアノやオルガンのようなあらかじめ音が固定した楽器では12個の鍵だけでは結局完全な純正律を保つことができるのはハ長調だけということになる。
では無伴奏合唱や弦楽合奏ならこれらの難点も現れないで純粋な和音を保つことができるかというと、必ずしもそうではない。たとえば、不協和な五度(ニ音〜イ音の五度は1シントニック・コンマだけ狭い)の存在が原因となって、和声の純粋さを保っていると音高が動く(一般には低くなる)という現象が生じる。純正律は和音の純粋さを表しているが、実際の運用には向かない、一種の理想的基準であったといえる。
したがってルソーが近代西洋音楽を構成する楽音の生成を説明するために用いた共鳴という方法と、ルソーの作った《全調・全音部記号表》が表す平均律という方法とは必ずしも一致しないのである。それゆえ『近代音楽論究』のルソーは、ある場合には「まずはじめに、音を探求する場合、私たちは実践のためにのみ仕事をしているので、私たちの音楽に関係のない音は無と見なし、さらに平均律からもたらされる和音はすべて例外なしに純正であると考えて、広く採用されている平均律化された体系を構成する諸音だけを取り上げることにする。」(註8)と平均律を前提と見なす発言をしてみたり、また別の場合には「第一に、平均律は真の欠陥である。これはそれ以上にはよい方法がなかったので芸術が和声にもたらした変化である。ある音の倍音が平均律化した五度をもたらすことはない」(註9)と平均律を否定するという矛盾をさらけ出している。
 ルソーの記譜法は、音列の生成にあたっては純正律をもとにしていながら、その実践においては平均律に最もかなった体系であるという意味において、二面性をもっている。実を言えば、純正律のような合理的な音響体系は実在しないし、自然はこのような音律を生成することはない。また近代西洋音楽が用いる音響体系は自然をストレートに反映しているわけでもない。したがって、ルソーが直面した矛盾は、ルソーが、古典主義者ラモー(註10)と同じく、近代西洋音楽の音響体系は合理的自然にもとづいていると考えて、実際には存在しないし、実際の近代西洋音楽が依拠しているわけでもない合理的で調和的な方法によって音響体系の生成を説明しようとしたところから生じているのである。近代西洋音楽を構成する諸音の生成を合理的に説明しようとすればするほど、実践には向かない理論的理想に行き着いてしまう。また、逆に議論が実践的になればなるだけ平均律という純正律とまったく相容れない妥協の産物に行き着いてしまう。
「平均律、最初のドの恣意的な選択、基音をレにしたときの三度のファは実際にはファ♯であることなど、ルソーが彼の方法を完全に自然に根拠をおくものだと言うのが正しいためには、自然法則にはあまりにも例外が多すぎる。」(註11)
しかしながら、同時に次のことも確認しておかなければ片手落ちということになるだろう。ルソーは近代西洋の音響体系の生成を説明するために自然な共鳴にということにこだわったからこそ、逆に、近代西洋の音響体系は自然が共鳴によって生成するさまざまな音の中から、平均律という網の目に引っかからないでこぼれ落ちた音をすべて「無と見なす」という「合理化」によって成り立っていることが浮き彫りになったと言えるのである。それゆえに、『近代音楽論究』のルソーが抱える矛盾は、近代西洋の音響体系は決して生の自然を映し出しているわけではなく、多くの部分を捨象することによって成り立っているという後年のルソーが到達することになる相対性の認識を準備したという意味において重要な意義をもっていると言うことができよう。


3.ラモーとの論争の意義
『近代音楽論究』のルソーが依拠していた原理は、ほぼラモーが確立したものであった。それゆえに、ルソーがラモーとの論争において、ルソー固有の音楽原理を確立していく過程は、ある意味ではラモーの原理に立脚していた自分自身を乗り越えることでもあったと言える。


3−1.恣意的価値体系としての音楽
ラモーは、近代西洋音楽がもつ和声原理は、物理学の原理のように、超越的であり、どの時代のどの民族にも共通する普遍的原理であると考えていた。なぜかといえば、ラモーの考えでは、それは自然の中に実在する客観的な音響原理にもとづいているからである(註12) 。ラモーとの論争はルソーに、近代西洋音楽がもつと考えられてきた和声原理の普遍性、客観性にたいする疑問を抱かせることになった。
その結果、ラモーによる和声原理の普遍性という主張をルソーは二つの視点から否定するにいたる。第一に、長三度と五度の共鳴だけを特化する近代西洋和声のもっとも基本的な音響原理に関する否定である。ラモーの原理によれば、ある音響体の共鳴から、長三度と五度が生成されるという。しかし実際には無数の不協和音も同時に生成されているのであり、なぜ長三度と五度だけを特権化するのか、とルソーは疑問を投げかけ、ラモーの原理が自分の体系に都合のいいものだけを取り上げ、その他は捨象していると批判する。つまり、ラモーの主張する近代西洋和声の原理は普遍的ではなく、まったく恣意的操作の上に成り立っているという批判である。ルソーはそれを証明するために、古代ギリシャ音楽には近代西洋音楽と同じ根音バスをつけることはできないという例をあげ、それゆえに古代ギリシャ音楽はまったく別の和声原理にもとづいて作られていたはずだと論証する(註13)
第二に、歴史的視点からの否定である。ラモーは、みずからの和声原理の普遍性を根拠づけるために本能というものを持ち出し、和声原理は本能に書き込まれているものであるから、ラモーが和声原理を発見する以前の人たちの場合には、それが古代ギリシャ人であれリュリであれ、そのような知識を持ってはいなかったのもかかわらず、本能的にこの原理に従っていたのだと主張した(註14) 。ルソーは、それにたいして、言語=音楽の起源にまでさかのぼり、そもそも旋律は情念の発露としてあらゆる音楽の原理である(註15) のにたいして、和声のほうは、音楽が情念の発露としての旋律そのものであった純粋状態から堕落し、近代の西洋という、時代的にも民族的にも限定された一社会でのみ成立する原理であるということを明らかにした(註16)

「一つの音楽か一つの歌を持っている地球上の全ての国民のうち、ヨーロッパ人は唯一、和声と和音を持っており、この混合を快いと思っているということを考えると、また、世界は何世紀も続いてきたが、芸術を開拓してきた全ての国民のなかにはいかなる国民も和声を知ることがなかったことを考えると、いかなる動物も、いかなる鳥も、自然のいかなる存在もユニゾン以外の和音を、旋律以外の音楽を作りはしないということ、東洋の非常によく響き、非常に音楽的な言語も、またギリシャの非常に繊細で、非常に感じやすく、かくも多くの技術で訓練された耳も、これらの快楽好きで情熱的な国民をわれわれの和声のほうへむけることはなかったこと、和声がなくても彼らの音楽は非常に豊かな効果をもっていたこと、和声を持っていてもわれわれの音楽は非常に弱い効果しか持たないこと、最後にこの偉大な発見をし、それを芸術の全規則の原理として与えることは、その粗野で大雑把な器官が抑揚の甘美さや旋律によりも大声やわめき声に感動するような北方の諸国民に残されたということなどを考えてみれば、要するにこういったことに注意してみれば、われわれの和声というものはゴートと蛮人の発明で、われわれがもし芸術の真の美や本当に自然な音楽にもっと感じやすかったとしたら決して思いつかなかっただろうということは疑ういようがない。」(註17)
ルソーは、近代西洋における音響体系はけっして唯一絶対の音響体系ではないこと、時代と民族が変われば、またその音響体系も変わるものであること、すなわちある民族のある時代の音楽において諸音がもつ価値の構造は、客観的に存在する音響構造の直接的な反映ではないし、そもそも、そのような客観的音響構造なるものは存在しないのだということを明らかにしたのである。それぞれの民族がそれぞれに固有の音響体系をもっており、それぞれの音響体系は自然の音響的実質から固有の方法で切り取ってきた価値の体系を形成しており、そのあいだに優劣の差は存在しない。これを一言で言えば、音楽は恣意的な価値体系にほかならないということである。
恣意的な価値体系としての言語を文化事象に固有の記号論のもっとも重要な柱として提示したのは、ソシュールであった。ソシュールの言語思想としてあげられるいくつかの特徴のうちもっとも人々を驚嘆させ、しかも困惑させたのが、次の文に示されるような言語構造の恣意性ということである。
「仮に観念なるものが言語の価値となる以前に、あらかじめ人間精神のうちに作られているものだとしたら、かならず起こるであろうことの一つとして、言語が異なっても、諸事項は正確に一致するはずである。・・・正確な照応などというものはないのである。」
ここでの恣意性は、通常よく言われるシニフィアンとシニフィエのあいだの恣意性ではなく、この恣意性を生み出している一次的で本質的恣意性、すなわち言語の価値構造と客観的な事物のあいだの関係の恣意性である。つまり、体系としての言語の価値の構造は、客観的に存在する事物の構造の直接的な反映ではないということである。したがって最も直接的に事物の構造を反映している言語、つまり普遍言語などというものは存在しない。ルソーはこのような恣意性の概念に音楽の分野において到達していたと言える。


3−2.「構成された構造」のもとでの必然性
ルソーの音楽思想が20世紀のソシュールの言語思想を予感させる現代性を持っているのは、先の音楽体系の恣意性の問題にかんしてだけではない。ソシュールはラングのもつ二面性を解明した。それによると、ラングには、客観的に存在する事物の実質を網の目状に切り取ってきた恣意的な価値の体系としての側面があると同時に、いったんこの構造が確定した後の「構成された構造」としての側面がある。後者においては、シニフィアンとシニフィエの関係が必然性を帯びてくることになる(註18) 。実はルソーは音楽体系がもつこの後者の側面に関しても鋭い考察を行っている。
『フランス音楽に関する手紙』においてルソーは、主題を提示するという音楽表現の点から旋律に和声を支配すべきものという位置づけを与えた(註19) 。ラモーは、それにたいして、和声こそが音の流れをつなぐものであり、音楽における情緒作用をになうものであることを音楽理論の側面から主張して、ルソーが≪旋律の統一性≫の名において主張した和声の単純化に反論をおこなったのであった(註20) 。そこでルソーは『言語起源論』において、ラモーが主張するような和声による旋律の拘束関係は、古代ギリシャにおける音楽の純粋状態から徐々に堕落してきた結果、和声体系が確立され、旋律がもっていた位置を和声が簒奪したために生じた特殊な状態、言い換えれば音楽の純粋状態から逸脱した堕落の極限状況なのであって、けっして普遍的なものではないという認識を、歴史的な視角にもとづいて与えたのである。このような特殊な状況下ではたしかに旋律は和声によって拘束されている。

「和声は上手に用いれば、それ〔音楽的模倣・・・引用者〕に協力することができる。いくつかの転調の法則によって後に続く音を結び付け、音程の上がり下がりを正確にし、その正確な音程を耳に確かなものとして与え、耳でとらえにくい調子の変化を、連続した協和音程にあわせて固定する。けれども、そのために旋律は拘束され、力強さと表現力が弱まり、和声の音程が幅を利かせて情熱のこもった抑揚を消してしまう。和声は、情熱的な口調と同じほどあるはずの歌を、ただ長調と短調のどちらかに従えさせ、自分の体系に入らない多様な音や音程を消し去り、破壊してしまう。」(註21)
和声体系というものが、たとえ西欧ヨーロッパだけに固有の特殊な体系であって、けっして自然の音響的実質の普遍的な反映ではないとしても、いったんそのような体系が確立されると、その文化共同体のなかでは、旋律をはじめとする音楽の全てはそれにもとづいて規則づけられることになり、この体系を無視してはだれも音楽活動をすることは不可能である。
近代西洋音楽という時代的にも民族的にも限られた音楽体系は歴史的に形成されてきた特殊な恣意的価値体系であるけれども、これがいったん確立されると、あたかも和声と情念のあいだには必然的な結びつきがあるかのように、この特殊な価値体系、すなわち和声構造が支配力をもつことになるという認識が、ソシュールにおける「構成された構造」というラング概念を先取りしたものであることは明らかであろう。
以上のように20世紀の初頭になって始めてソシュールの言語思想がその解明の扉を開いた人間の文化事象一般に共通する特徴である恣意的価値体系とその惰性化した「構成された構造」といった概念を、音楽思想に限定されるとはいえ、18世紀中葉のルソーが着想していたということは、驚異的と言うほかないだろう。近代西洋音楽の普遍性を否定することによって、ルソーは、200年後にレヴィ=ストロースによって人類学の創始者と称えられることになる。だが、ルソーの音楽思想の現代性はそこに限られるものではない。


4.感じる主体の言語論−結論にかえて
古典主義的音楽美学では、模倣の対象とされるのは、生のままの自然の音でもなければ、それの聴覚映像でもない。それは、近代西洋和声という一つのものさしによって生の自然から抽出されたところの理性化され理想化された音響の形−美しい自然−である。音楽家は、生の自然現象の中に近代和声と一致する音響現象を聞き取り、それをさまざまな楽器で実現することになる。したがって古典主義的音楽美学では、生の自然にたいして和声的な耳で加工をほどこす行為そのものが、模倣ということになる(註22)
模倣の対象が自然現象に伴う音響現象ではなく、情念といった心理的なものでも、同様である。つまり、情念を模倣の対象とする場合でも、模倣すべきは生の雑多な情念ではなく、和声と結びついている情念である。なぜなら、デカルトの『情念論』が示すように、古典主義者にとって情念は、肉体の生理的作用の心的現われである。ラモーにとって、和声と情念の関係は本能というかたちで肉体に刻み込まれている客観的現実だからである(註23) 。 したがって、情念を模倣することは、それを表すのに最もふさわしい和声を探し出すことに他ならない。
古典主義者にとって模倣とは、生の自然(生の情念も含めて)から、彼らにとって普遍的なものと考えられていた「構成された構造」=網の目を切り取ってくる作業であるといっていいだろう。それは自然科学者が自然の諸現象の中から法則を抽出する行為に似て、主観をできるだけ排除することによって成り立っている。
これに対して、ルソーの模倣論の特徴は模倣過程に感じる主体を位置づけたことにある。ルソーの模倣論で直接に模倣の対象となるのは、本来の意味での対象ではなく、この対象によって引き起こされた感じる主体内の心的印象である。しかも、この心的印象は、和声的なものではなく、抑揚、アクセント、響き、リズムによって表されるもの、つまり旋律的なものである。この心的印象を音声あるいは楽器で模倣することによって、これを聞くもののなかにも同様の心的印象を引き起こす。これが最初に感じる主体に現前したのと同じ対象を音楽を聴くものにも現前させることになる(註24)
このような模倣論が成り立つためには、模倣の対象と心的印象の間、さらに心的印象とそれを模倣する音響行為の間に必然性が存在しなければならない。なぜなら、自然現象とそこに内在するとされる和声体系の関係にしても、情念と和声体系の結びつきにしても、ラモーによれば、それは客観的で普遍的な原理であって、そこには何ら主体的主観的なものは介在しないのにたいして、ルソーの方法は、感じる主体を介在させることによって、それらのあいだにある客観的必然性の連鎖を断ちきったからである。ルソーのように、対象としての自然とそれを模倣した音響行為の間に客観的な必然性を否定したにもかかわらず、音楽行為になんらかの情報伝達の機能を認めるとすれば、複数の感じる主体の間に、制度(約束)以前に何らかの必然性が存在しなければならない。つまりある種の音楽行為が同一のイメージを複数の聞き手にたいして喚起するのでなければ、そこには模倣という行為は成り立たないからである。したがって、ルソーの方法には、ラモーのような万人に共通する普遍的な必然性ではなく、複数の感じる主体のあいだいにのみ成立する必然性、すなわち共同主観的必然性が存在することが前提とされるのである。そのような必然性は共同体の内部においてのみ必然的なのであって、その外では恣意的なものにほかならない。
ルソーの思想は、このように言語をも含めた全ての文化事象が特定文化共同体ごとの共同主観によって成り立っていることを明らかにすることによって、西欧知の普遍性を否定したところにこそその意義がある。したがってルソーの西洋民族中心主義批判は、デリダやあるいはレヴィ=ストロースが指摘したような世界の多様性の認識といったものではないと言わなければならない。
さらに、ロゴス=音声言語中心主義という批判に関しては、ルソーはランガージュ能力を人間に固有の能力であり、これがあればこそ言語が生まれたのであり、そのために音声を用いるか身振りを用いるかということは二次的な問題だと考えていたことを指摘しておこう(註25) 。音声を用いる方法はその起源においては何かの記号ではなく、情念そのものであった。ルソーは、情念そのものが音声だったのであり、原初の言語においては表現と内容とは不可分離のものであったと考えている(註26)。 ルソーの音楽論=言語論は、感じる主体を原理の中心に据えていたからこそ、主知主義にも言語命名論にもからめとらることがなかったのである。またそれゆえにこそ、「構成された構造」内での心的表象と聴覚映像との結びつきの必然性と、構造の外部から見た場合のこの関係の恣意性、すなわち価値体系の恣意性という20世紀になって初めて解き明かされる文化事象の特質を、18世紀においてすでに予告していたと言える。


《註》
註1.ソシュール、コンスタンタンのノート、断章番号1887番、丸山圭三郎、『ソシュールの思想』、岩波書店、1981年、p.324.ソシュールの理論に関しては、本書ならびにソシュールに関する丸山の諸論を参考にした。とりわけここで用いている恣意的価値体系の概念については、同書「V ソシュール学説の諸問題」を参照のこと。
註2.Marie-Elisabeth Duchez, "Modernite du discours de Jean-Jacques Rousseau sur la musique", in Rousseau, after two hundred years, Proceedings of the Cambridge Bicentennial Colloquium, edited by R.A.Leigh, Cambridge University Press, 1982, pp266-267, pp.268-269. p.272.
註3.レヴィ=ストロース、「人類学の創始者ルソー」、塙 嘉彦訳、山口昌男編『未開と文明』、平凡社(現代人の思想15)、1969年、pp.56-68.
註4.Jacques Derrida, De la grammatologie, Les Editions de Minuit, 1967. ジャック・デリダ,『根源の彼方に―グラマトロジーについて(上・下)』,足立和浩訳,現代思潮社,1983年・1986年
註5.Jean-Jacques Rousseau, Dissertation sur la musique moderne, in Oeuvres Completes, Bibliotheque de la Pleiade, tome V, Paris, Gallimard, 1995, p.175(以下 OCV. と略す).
註6.ラモーは、和声が変われば、音程のもつ意味は変わるという言い方で、この考え表明している。次の箇所を参考にせよ。Jean-Philippe Rameau, Demonstration du principe de l'harmonie, in Musique raisonnee, Textes choisis, presentes et commentes par Catherine Kintzler et Jean-Claude Malgoire, Stock, 1980, pp.80-81. Erreurs sur la musique dans l'Encyclopedie, 1755, Broude Brothers Limited, New York, 1969, p.53. またカンツレールはラモーの体系概念を的確に説明している。

「同一の音が、別の和声的な連続のなかに取り込まれると、性質を変え、別の効果を生みだすのは、楽音というものが内在的な特性をもつ孤立した実在物ではないからである。楽音の真の特性は純粋で単純な音の放出とか聴取のなかにあるのではなく、音の相互的関係、水平的・垂直的な組み合わせ、音程の相対的な差異のなかにある。音楽はなによりも、一定の関係の総体として姿をみせるので、その本性を理解しようとするひとは、音楽を関係の網の目としてとらえ、一つの文法として全体をひとわたり見渡せていなければならない。」(C. Kintzler, Jean-Philippe Rameau, Splendeur et naufrage de l'esthetique du plaisir a l'age classique, Deuxieme edition revue et augmentee, Minerve, 1988, pp.30-31)

註7.Jean-Jacques Rousseau, op.cit., pp.206-207.
註8.Ibid., p.176.
註9.Ibid., pp.206-207.
註10.古典主義者ラモーについては、カンツレールの前掲書の第一部第一章及び第二章、特にpp.21-24を参照のこと。
註11."Introductions" par Kleinmann, in OCV.,p.1396.
註12.Jean-Philippe Rameau, Demonstration du principe de l'harmonie, in Musique raisonnee, op.cit., pp.66-67.
註13. Jean-Jacques Rousseau, Examen de deux principes avances par M. Rameau, in OCV., p.351et p.353.
註14.Jean-Philippe Rameau, Observations sur notre instinct pour la musique et sur son principe, Paris, 1754, Slatkine, Geneve, 1971, p.1, pp.10-11, p.21et p.76. Demonstration du principe de l'harmonie, op.cit., pp.64-65.
註15.Jean-Jacques Rousseau, Essai sur l'origine des langues, in OCV., pp.380-381 et p.416.
註16.Jean-Jacques Rousseau, ibid., p.426.
註17. L'article HARMONIE, Dictionnaire de musique, in OCV., pp.850-851.
註18.「構成された構造」およびラングの二面性に関しては、丸山『ソシュールの思想』「V ソシュール学説の諸問題」第一章を参照のこと。
註19.Jean-Jacques Rousseau, Lettre sur la musique francaise, in OCV., p.305 et pp.313-314.
註20.Jean-Philippe Rameau, Erreur sur la musique dans l'Encyclopedie, op.cit., pp.14-15, p.19 et pp.34-35.
註21.Jean-Jacques Rousseau, Essai sur l'origine des langues, in OCV.,p.416.
註22.C. Kintzler, op.cit., p.44.
註23.Jean-Philippe Rameau, Observations sur notre instinct pour la musique, op.cit., p.vj et p.1.
註24.Jean-Jacques Rousseau, Lettre a d'Alembert, in Correspondance Complete de J.-J. Rosseau, Edition critique, etablie et annotee par R.A.Leigh, Oxford, tome II, pp.159-160. Essai sur l'origine des langues, op.cit., p.422. L'article IMITATION du Dictionnaire de musique, in OCV., p.861.
註25.Jean-Jacques Rousseau, Essai sur l'origine des langues, in OCV.,p.379.
註26.Ibid., p.383.

[初出掲載誌 りるべるたす第11号(1997年12月)]

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