naissance1
 フランス・オペラの誕生(その一)


1. はじめに
 リュリとキノーによってフランス・オペラは創始された。1673年に上演された『カドミュスとエルミオーヌ』によって、フランス・オペラは華々しい誕生をとげた。言うまでもなく、リュリとキノーが何もないところからフランス・オペラを創始したわけではなく、フランス・オペラという大河に流れ込んでいった支流はさまざまにある。
 古代ギリシャにおける演劇を近代に再現するという趣旨でフィレンツェのカメラータのグループによって創始されたイタリア・オペラはモンテヴェルディの出現によって一気に完成の域にまで達しただけでなく、イタリア全土にその流行を広めた。レチタティーヴォとアリアによって全編を歌うこの芸術形式は、当時のイタリア・オペラに固有の機械仕掛けとともに、宰相としてフランスに赴任したマザランによってフランスに持ち込まれた。全編をレチタティーヴォ形式とアリア形式で歌うオペラというジャンルはフランスにはなかなか根付かなかったが、遠近法を用いて舞台に奥行きを見せかけたり、舞台天上から雲や馬車にのった神々を登場させたり、ヴィーナスを貝から誕生させたりする機械仕掛けはフランス人を瞠目させた。こうしてマザランによって機会あるごとに上演されていたイタリア・オペラはフランス人の美意識に有形無形の影響を及ぼしたに違いない。
 歴代のフランス国王自らが一登場人物として踊ってきただけでなく、宮廷の貴族たちがその技をプロのダンサーたちと競ってきたバレ・ド・クールはバレをフランス固有の芸術ジャンルにした。もともとバレが常に、音楽を伴って、何かを表現するというジャンルであるだけに、のちには国王のバレとしてモリエールが創始したコメディ=バレにおいて筋の進行や歌と結びつくことで、喜劇・バレ・歌によって構成されるフランス・オペラのもとを形成することになる。
 今日では映画にその場を奪われたとはいえ、日常生活ではなかなか目にすることができないものを、舞台の上で見せる芝居は17世紀のフランスでも大変人気があったことは言うまでもない。そこでは、戦闘、拷問、殺人などの暴力シーンがリアルに再現されたり、地獄、怪物など想像上の世界がなまなましく描かれて、人気を博していた。
 貴族になるためにさまざまな修練をつむ町人のジュルダン氏は、歌の先生に「なぜいつも羊飼いなのです?どこにも羊飼いしかいないのです?」と尋ねる。イタリアから入ってきた牧歌劇は『アストレ』以降17世紀の流行となったが、歌うことと羊飼いの関連、絶対王政の確立によって変化していく王権と貴族階級の関係を牧歌劇が隠喩によってさまざまな形で反映していることを、町人のジュルダン氏は知らない。ダンスの先生はジュルダン氏に「登場人物に歌わせるときには、もっともらしくするために、羊飼いが喋っていることにするんですよ。昔から羊飼いは歌うものと決まっていますからね。それに、王さまや町の人が恋心を歌い上げるなんて不自然です」と答える。こうしてフランスでは、初期の音楽劇はパストラルとして作られる。
最後に、コルネイユとラシーヌがその黄金時代を築き上げた古典主義悲劇がくる。情念と情念のぶつかり合いに均衡するようにして確立された悲劇的朗唱は、リュリによって創始されたフランス風レシタティフに大いなる影響を与えた。
以上のようなさまざまな水脈は、けっしてどれがその本流というわけではないけれども、合流してフランス・オペラという大河を形成するにいたる。フランス・オペラの創始者の一人であるだけでなく、そのイニシアチブを握っていたリュリが直接にかかわってきたコメディ=バレから見ていくことにしよう。

2. コメディ=バレ
2−1.『はた迷惑な人たち』Les Fâcheux
 長いツール・ド・フランスを終えて、1658年にパリに帰ってきたモリエールの一座は、10月24日にルイ14世の前で『ニコメード』と『恋する学者先生』を上演し、国王の笑いを誘い出し、プティ=ブルボン劇場での上演許可を得る。1659年上演の『滑稽な才女たち』や60年の『スガナレル』で着実に宮廷やパリ市民のなかで人気を得たモリエールは、1661年6月24日に初演され、上演回数を重ねるごとに評判を高めていった『お婿さんの学校』(L'Ecole des maris)で、財務卿フーケの目に留まった。この年の3月に死去したばかりの宰相マザランの後釜を狙っていたフーケは、演劇祝祭の好きなルイ14世の歓心を買い、自分の存在をアピールするために、ルイ14世が主催する演劇祝祭を凌駕するような祝祭を、その居城ヴォー=ル=ヴィコント城で主催しようと考えた。その一環としてモリエールに、喜劇の中にバレを組み込んだ芝居を上演するように要請する。その結果できあがったのがコメディ=バレの第一作となる『はた迷惑な人たち』(Les Facheux)で、モリエール劇団は8月17日にこれを国王をはじめとする宮廷の貴族たちに披露した。
 この作品で初めてそれぞれの幕の最後にバレを挿入するというコメディ=バレの形式が誕生するが、それはある意味で偶然の産物でもあった。フーケはバレを組み込んだ喜劇を作るように求めたが、こういう形式になった理由としては、モリエールがバレを伴う作品を求められたのが初めてであったこと
(註1)、この作品が構想の練り上げから、執筆、リハーサル、上演というプロセスをわずか二週間でやり遂げなければならないという時間的余裕のなさなどから、バレに固有の筋書きを考慮に入れた作品を作り上げるためにバレ担当のボーシャンと相談する余裕がモリエールになかったことが挙げられる。この点についてモリエール自身が次のように説明している。
バレの上演も目的の一つだった.ところが優れた踊り手は少数しかいなかったので,このバレのアントレをいくつかに分けることが必要になった.そしてバレのアントレを喜劇の幕間に入れれば,それによって時間的余裕ができるので,同じ踊り手が別の衣装を着て戻ってくることができるという考えだった.その結果,これらの幕間によって作品の流れを分断することがないようにするために,それらをできるだけ主題に結びつけ,バレと喜劇の両方で一つものになるように考えた.だが、時間的に余裕がなかったし、一人の人間の頭で考えたことでもないので、バレには他の部分に比べて喜劇の主題としっくりこない個所もあるかもしれない。いずれにしても、これは、フランス演劇界においては新しい融合である。(『はた迷惑な人たち』への序文)

 待ち合わせ場所で恋人のオルフィーズを待っているエラストに、次から次へと「はた迷惑な人たち」がやってきて、二人の待ち合わせを邪魔するというこの芝居の作りは、この中心骨子さえ発想できれば、「はた迷惑な人たち」をいくらでも置き換えたり、追加したり、省いたりすることで、芝居を自由に作り変えることができる。この意味で時間のなかったモリエールにとって格好の構想となっているが、喜劇部分とバレ部分の連関という点から見ると、ペルメル球技をやる人たちのダンス、物見高い人たちのダンス(第一幕のバレ)、玉突きのポーズを取り入れたダンス、靴直し職人たちのダンス、庭師のダンス(第二幕のバレ)、羊飼いたちのダンス(第三幕のバレ)など、後から出てくるダンサーが前に踊っていたダンサーを「邪魔する」という点以外には、喜劇の主題に結びつく要素は見られない。最も筋にうまく組み込まれているのは、エラストの邪魔をする人たちの一人であるダンスの愛好家が自作のクーラントの曲や新しいステップを披露するという個所だけであろう。しかしこれもエピソードの一つとしての重みしか持っていない。したがって、『はた迷惑な人たち』が一般的にコメディ=バレの第一作と見なされているけれども、それは現代から過去を見ている我々の俯瞰的な視点による規定であって、モリエールの念頭にも、次作から本格的にモリエールと協力してコメディ=バレを作っていくことになるリュリの念頭にもなかったことである。

2−2.『強制結婚』Le Mariage forcé
 財務卿フーケは国王よりも豪華な祝祭を主催したことで、国王の怒りを買い、失脚する。しかしモリエールにはお咎めがあるどころか、逆に『はた迷惑な人たち』が大変気に入った国王は、新たな「はた迷惑な人」を提案し、モリエールに書きなおしをさせるほどだった。その結果、モリエールは「王のバレ」としての作品の依頼を受けることになった。バレ・ド・クールは歴代のフランス国王自らがダンスを踊るものとして長い伝統をもつが、ルイ14世がはじめて「太陽王」として金色の衣装をまとって太陽として踊った1653年の『夜のバレ』に代表されるような「王のバレ」はもっぱらバンスラード(1613年―1691年)に依頼されてきたが、今回は初めてモリエールが依頼を受けるこことになった。それが1664年1月19日にルーヴル宮で初演された『強制結婚』である。台本はモリエール、音楽とバレはリュリが担当した。これは従来のバレ・ド・クールとは違うとはいえ、「国王のバレ」であることに大きな意味がある。第二幕のバレでは国王自身がジプシーの役で踊っているという理由だけでなく、ルーヴル宮での宮廷人たちを相手にした初演の後、2月15日にはパレ=ロワイヤル劇場で一般の観客を相手にした公演が始まるが、この公演が一ヶ月12回で打ち切られた大きな理由に、バレ部分のコストがかさみすぎたことがある。このことは、それだけバレが大きな比重を占めていたことを示している(註2)
 そしてもう一つこの作品の重要な点は、初めて二人のバティストが手を組んで作った作品だということである。二人のバティストとは、ジャン=バティスト・ポクラン、すなわちモリエールとジャン=バティスト・リュリである。
 リュリは1632年にフィレンツェで生まれ、14歳のときに、ギーズ候の導きによって、後のモンパンシエ公爵夫人、すなわちアンヌ=マリー=ルイーズ・ドルレアンのイタリア人付き人としてフランスにやってきた(註3)。1752年までの8年間奉公しているあいだにその音楽的才能を開花させ、1653年の『夜のバレ』で若きルイ14世の心をつかみ、宮廷舞踏家、作曲家、舞踏振付師としてキャリアを踏み出した。1661年には国王つき音楽監督になり、さらにフランスに帰化して、翌年には音楽家ミシェル・ランベールの娘と結婚した。
以上のことを考えると、自ら親政を開始したばかりのルイ14世が、音楽監督になったばかりのリュリと、前作『はた迷惑な人たち』という毛色の変わったバレ付の喜劇で自分を大いに楽しませてくれたモリエールという二人のバティストに新作を依頼したのは、新しい時代の息吹を感じていたからかもしれない。
『強制結婚』は、50歳を超えて、遊び好きの若い娘ドリメーヌと結婚することになったスガナレルが、結婚も間近になって大きな不安を覚え、友人や、哲学者たち、ジプシーの占い師などに相談したところ、ますます不安に陥り、ドリメーヌの父親のもとに婚約解消を伝えに行くが、決闘するか結婚するかどちらかにするよう脅かされて、結局いやいやながら結婚させられるという筋書きである。
 バレはそれぞれの幕の最後にアントレのかたちで挿入される。第一幕は、婚約者のドリメーヌがスガナレルのところへ現れ、結婚したら父親の窮屈な支配から解放されて、好きなものが買ってもらえるし、好きなところへ行ったり、誰とでも話したり、好きなことができるから、本当にうれしいと言って、スガナレルを大いに不安がらせる場面で終わる。それを受けて第一幕間劇では、コケットリーなドリメーヌをそそのかしているようにも、あるいはそんな婚約者を見て戸惑っている初老のスガナレルをからかっているようにも読めるエールを「美」が歌う。ついでスガナレルの心の中を表すように、「嫉妬」、「悩み」、「疑い」のバレやおどけた人たちのバレが続く。
 第二幕間劇は、第二幕で二人の哲学者に相談に行きながら、話を聞いてもらえず相談にならなかったスガナレルが偶然出会ったジプシーたちが踊るダンスとして始まるというかたちをとっており、筋書き上は、無理なく移行している。ダンスが終わるとスガナレルがジプシー女に占いを頼むと、彼女たちは奥さんのおかげで友達やお客が増えるというが、浮気はどうかと聞かれると、ごまかしてしまう。スガナレルはそれで余計に不安が増す。こんどは魔法使いのところへ行ったスガナレルが浮気されないかどうか知りたいというと、魔法使いは悪魔を呼びし、悪魔のダンスが始まる。
 ドリメーヌの家に婚約解消のために行ったのに、逆に脅かされて結婚を承諾した第三幕の後の第三幕間劇ではダンスの先生がスガナレルにダンスを教えたり、いくつかのアントレの後に、結婚後のドリメーヌの姿を予告するかのように、四人の色男たちがスガナレルの妻を愛撫するアントレで終わる。
 以上見てきたように、前作の『はた迷惑な人たち』に比べると、モリエールは喜劇とバレのつながりの緊密性、必然性を強めるように努力している。しかしのちにモリエールがバレの部分を省いた喜劇だけで上演をしていることからも分かるように、音楽やバレの挿入がこの作品にとって不可欠の構成要素となるまでにはいたっていない。したがって、バレの部分に膨大なコストがかかったとはいえ、またルイ14世自身がジプシー役として踊ったとはいえ、これもまたバレ付きの喜劇でしかない。
 ところで、同時期(1664年1月26日、パレ=ロワイヤル宮)にリュリはランベールとともに、従来のバレ・ド・クールを革新するようなバレ、『ヴィーナスの誕生のバレ』を上演している。それは優雅な三人の女神たちの対話によるプレリュードで始まり、花の女神たちの入場、ニンフたちの登場のあと、蛇のピュトンとの栄光の戦いから帰還したアポロンがよろいと槍を身に付けたままで、武具を身に着けた愛の女神と出会う。そして決闘に負けてしまう。ダフネが現れるが、彼も負ける。バッカスがインドの国々から戻ってくる。彼は打ち捨てられたアリアーヌに出会う。バッカスはアリアーヌを慰め、彼らは踊る。ヴィーナスの殿堂という新しい装飾のなかで、四人の司祭が犠牲を差し出し、四人の哲学者が彼らの学問のすべては彼の力に何も反することはありえないと告白し、六人の詩人がヴィーナスがいなかったらは詩はなんでもないだろうと褒め称える。次に武器を放棄するのは英雄たちである。アレクサンドルとロクサーヌ、アキレスとブリゼ、ヘラクレスとオンファル、ジャゾンとメデ。オルフェ(オルフェウス)が地獄の装飾のなかを登場し、プリュトンとプロゼルピーヌに新しいエールで懇願する。だが、彼女を見たため、八人の亡霊が現れる。
一見すると従来のバレ・ド・クールと変わらないように見えるこのバレの新しい点は、ボーサンが指摘するように、「演劇化されたシークエンス形式のバレのアントレ構成を持った最初のものだということである」。アリアーヌのエールやオルフェのエールは継続する筋の中に組み込まれているだけでなく、オルフェのエールはさらに発展させられて、次々とオルフェのアントレ、オルフェのレシ、オルフェの合奏曲、レシの第二クープレ、プリュトンのダンス、プロゼルピーヌのダンス、オルフェとウリディス(エウリディーチェ)を伴うダンス、オルフェとウリディスのダンス、ウリディスを奪い去る亡霊たちの劇的アントレというように、「ちょっとしたミモドラム[せりふを伴わず、身振り,舞踏、器楽のみの劇作品・・・筆者]になっている」(註4)のだ。このことは、ダンス、エール、レシ、合奏曲というバレ・ド・クールを構成する諸要素のあいだにほとんど劇的な連関を持たず、たとえば『夜のバレ』のように夜がふけて最後には新たな太陽が昇ってくるという時間的進行にかかわるバレ以外は、たんなる仮装行列でしかないようなバレに比べて、このバレが格段に高度なの劇的構成を持っていることを示している。

2−3.『エリード姫』La Princesse d'Elide
さて、次にモリエールがリュリと協力して作ったコメディ=バレは、『エリード姫』である。1664年5月6日から13日まで、ヴェルサイユ宮殿のすばらしさを宮廷の貴族たちに印象づけるために(そして、言うまでもなく、フーケに奪われたお株を取り戻すために)、ルイ14世が主催した最初の大掛かりな祝典が行われた。コンサート、バレ、芝居、花火などさまざまなスペクタクル的要素によって構成されたこの祝典は、『魔法の島の悦楽』と名付けられたが、それはアリオストの叙事詩『狂乱したオルランド』に由来している。魔女アルシーヌの魔法にかけられて、魔法の島に幽閉され、ありとあらゆる悦楽に興じた騎士ロジェとその仲間たちのように、ルイ14世と貴族たちはヴェルサイユの庭園に造られた「魔法の島」でさまざまなスペクタクルを享受する。ロジェらがアルシーヌのために上演させた芝居という設定で二日目に上演されたのが、この『エリード姫』である。
エリード国王は、娘のエリード姫が年頃になっても狩りに夢中で、恋に関心を示さないのを心配して、娘が結婚する気になってくれるようにとの願いから、宮廷にイタク王子、メセーヌ王子、ピール王子を呼び寄せる。メセーヌ王子とピール王子が愛情を示そうと姫に付きまとい、逆に姫から冷たくあしらわれるのを見て、姫を恋しているイタク王子は、告白の勇気をくじかれ、王子の教育係アルバートに相談しているところへ、モロン(モリエールが演じている)がイノシシに追われて逃げてくる。
モロンはエリード姫の道化を勤めているが、エリード姫から一目置かれているので、イタク王子は同郷のモロンに頼んで、エリード姫に自分の気持ちを伝えてくれるように頼んでいた。愛の神キューピッドを馬鹿にして、恋をしないのを誇りにしているエリード姫の気持ちをつかむには、いろいろと難しいコツがあると、モロンが説明しているところへ、エリード姫の一行がやってくる。自分がイノシシを退治するつもりだったのに、他の王子たちに先を越されてかんかんに怒っているエリード姫が立ち去ると、これを見たイタク王子は、普通とは逆の自分なりのやり方で姫の心をつかんで見せる話す。
そのやり方とは、エリード姫と同じように、自分は恋とか結婚には全く関心がないという態度を示して、エリード姫を無視することだった。自分が無視されているのを見て、エリード姫は王子の気持ちを自分に向けさせようと懸命になり、他の王子を愛しているといえば、イタク王子の本心を引き出すことができるのではないかと期待して、じつはメセーヌ王子を愛していると打ち明ける。するとイタク王子のほうも、姫の従妹を見初めたので、エリード王に結婚を申し込むつもりだと告げる。思いがけない言葉に、動転したエリード姫はイタク王子の結婚を阻止しようとして、かえって自分の本当の気持ちを自らにも、また周囲の人たちにもさらけ出してしまうことになり、それを見たイタク王子も自分の本心を打ち明けて、ハッピーエンドになる。
この作品では、バレは道化のモロンと、彼が恋している羊飼いの娘フィリスの物語である。モロンはフィリスが好きなのだが、フィリスのほうは歌が上手なティルシスに心奪われている。自分も歌でフィリスの心をひきつけようと、歌の上手はサテュロスに歌を教えてくれと頼むが、教えてくれないし、ティルシスに話し掛けているフィリスのところへ行っては、邪魔者扱いされる。
以上が、『エリード姫』のあらすじであるが、ご覧のように、これまでのコメディ=バレと違って、モロンという喜劇的登場人物を蝶番にして喜劇と幕間劇をつなぎ、喜劇の主題と幕間劇の主題を平行させていることに特徴がある。幕間劇はもっぱら道化師のモロンと彼が恋しているフィリスの物語になっているが、本題で扱われる貴族同士の恋愛の相―愛は追えば追うほど逃げていく―を羊飼いの恋愛によって描くことで、本題での恋愛を浮き彫りする効果をもっている。このことは明らかにモリエールがバレの部分でもイニシアチブを取っていたことを示している。
さらにこの作品で注目すべき点は、歌と言葉の共存関係である。事実、『エリード姫』でのモリエールとリュリの仕事は音楽と言葉の接近にあった。彼らは共存の手段と限界を見極めようと試みていた。彼らは音楽的協力の手がかりを探求している。つまり、同一の作品のなかで語りと歌を連続させるにはどうしたらいいのか、二つの領域がぶつかることもなく、互いを台無しにすることもなく、反対に強めあい、目立たせあうようにするには、どうしたらいいのか、を探求しする。このとき、リュリはまだその独自の手法を確立してはおらず、歌う登場人物の介入はすべてエール・ド・クールまたは型どおりの対話形式のレシによって行われるが、歌と言葉の関係という問題に取り組まなければならなくなるだろう。歌が言葉との間に結ぶ関係はエールにおける関係と同じではありえないからである。この意味で『エリード姫』はリュリにとってオペラ作曲家への道の出発点だと言える。

2−4.『ジョルジュ・ダンダン』George Dandin
1668年5月フランスはスペインとエクス=ラ=シャペルの和約を結んだ。これによってフランスはフランドルの一部を獲得するなど、フランス側に有利な条約であった。これを慶賀する祝祭「ヴェルサイユにおける盛大な祝祭」が催され、モリエール劇団の『ジョルジュ・ダンダン』はその一環として、7月18日に上演された。このコメディ=バレも、例のごとく10日に王の命を受け、18日に初演するという、短期間で作られた作品である。
『ジョルジュ・ダンダン』は今日ではバレによるパストラルの部分を削除して上演されているため陰鬱な作品になってしまっているが、じつはパストラルが喜劇部分を縁取り、さらにフェリビアンの報告書にもあるように、この世のものとも思えぬような豪華な品々と人々を驚嘆させる機械仕掛けや花火の仕掛けがこのコメディ=バレを縁取ることで、滑稽なコキュを笑いのめし、またジョルジュ・ダンダンを追い詰める田舎貴族たちも笑いの対象とするという作品なのである。
 喜劇部分のあらすじそのものは簡単で、金持ちの農民ジョルジュ・ダンダンは貴族になれると信じて、田舎貴族ド・ソタンヴィル氏の娘アンジェリックを妻にするが、ジョルジュ・ダンダンに愛情のひとかけらも感じていないことに気づき、後悔し始めている。アンジェリックの不貞を両親のド・ソタンヴィル夫妻に見せて、離婚の口実としようとするが、逆にアンジェリックの策略にはまって、クリタンドルやアンジェリックに謝罪をしなければならなくなり、面目をつぶして、完全な絶望感に陥る。
これに対して、バレのほうでは、これとはまったく主題の異なるパストラルが演じられることになる。羊飼いのティルシスとフィレーヌはそれぞれ、羊飼いの娘クリメーヌとクロリスに恋している。ところが彼女たちは彼らの気持ちを冷たく拒否する。ティルシスとフィレーヌは思いが受け入れられないなら死んだほうがましだと言う(以上導入部)。喜劇の第一部が終わると、羊飼いの娘クロリスがやってきて、二人の羊飼いの絶望を伝える、自分の冷たい態度が一人の羊飼いを死なせてしまった苦しみの歌「嘆きの歌」を歌う(以上第一幕の最後)。逆に妻のアンジェリックにやり込められて落ち込んでいるジョルジュ・ダンダンのところへ羊飼いの娘クロリスがやってきて、自殺を試みたティルシスとフィレーヌは、船頭たちに助けられたことを話し、ジョルジュ・ダンダンに船頭たちを紹介する。船頭たちはお礼を受け取って喜び、踊り戯れる(第二幕の最後)。絶望的になっているジョルジュ・ダンダンの友人の一人が現れ、悩みなど酒で流せばいいと、仲間のところへ連れて行く。そこへ恋する羊飼いの集団がやってくる。羊飼いたちは古代の羊飼いに倣って、愛の神の力を歌とダンスで称える。羊飼いの男女が歌(クロリス、クリメーヌ、ティルシス、フィレーヌ、合唱で)にあわせてダンスをする。バッカスの一群が登場し、そのうちの一人が歌を歌い、合唱がそれに続く。バッカスの合唱と愛の神の合唱が歌いかわす。一人の羊飼いが進み出て、歌う。合唱。すべてのダンサーが入り混じって踊る(最後)。
ジョルジュ・ダンダンの喜劇のほうは、貴族の生まれであるということをかさにきて、自分に愛情のかけらも持っていない妻のアンジェリックとその両親をぎゃふんと言わせ、離婚してやろうと狙っているジョルジュ・ダンダンが逆にやり込められるという主題だけで成り立っている喜劇であって、物語としての主題の進展はまったくなく、それぞれの幕に独立したエピソードが積み重ねられているに過ぎない。この意味で、ジョルジュ・ダンダンは、はた迷惑な人たちを次々と登場させているだけの『はた迷惑な人たち』と同じ構造をもつ喜劇である。他方、バレのほうは喜劇の部分とはまったく異なった主題が展開するパストラルとなっているので、モリエールの作った喜劇だけを見ている現代の私たちが受けるイメージとは違って、当時の人々は「バレの幕間に喜劇を挿入した作品」、つまりパストラルが主であって、それに貴族になろうなどと大それたことを考えた馬鹿な農民の滑稽な姿のエピソードが挿入されている作品と見ていたのである(註5)
この作品のもう一つの特徴は、モリエールの喜劇とリュリのパストラルがまったく独立している点にある。これは従来この作品の欠点―不統一―として指摘されてきたことだが、ボーサンはこれに対して、リュリが書いたパストラルの意味をこれが作られた時代背景の中にきちんと置きなおすことによって、明らかにしている。それによれば、16世紀にイタリアから入ってきたパストラルは17世紀に『アストレ』の大流行でその地位を確立したが、パストラルの登場人物はまったく約束上の意味を付与されている。最終的にパストラルが音楽と結びつくのはフランスにおける音楽劇の初期の試みにパストラルが用いられたことが大きく、その後、登場人物の隠された意味と同様に、パストラルと音楽は必然的な関係を持つものと見なされるようになる。『町人貴族』でダンスの先生が貴族になりたがるジュルダン氏に「音楽によってしゃべる必要がある場合には、真実らしさのために、羊飼いの歌を用いなければならないのです。歌はいつの時代にも羊飼いのお気に入りだったからです。王子や市民が情念を対話の形でうたうのは自然でないのです」と説明してやるように。さらにボーサンは、パストラルは絶対王政の確立によって政治的に敗北し、町民階級の興隆によって社会的凋落しつつある貴族階級の「白昼夢」であるとして、パストラルに固有のメランコリックな雰囲気をそこから説明している。したがってパストラルは羊飼いの姿を借りて貴族の世界を描くものであり、それゆえに『ジョルジュ・ダンダン』のパストラルは冒頭で愛が主題であることを提示して、その直後にジョルジュ・ダンダンに粗野な言葉をしゃべらせることで、その落差によって、彼が愛に無縁の人間であるということを明瞭に浮かび上がらせる効果がある。

2−5.『プルソーニャク氏』Monsieur de Pourceaugnac
音楽牧歌劇の幕間に喜劇を挿入しようとした前作『ジョルジュ・ダンダン』とは反対に、喜劇の中に音楽的要素を有機的に取り込んだ成功作が、1669年10月6日、シャンボールで国王と宮廷の人々を初演された『プルソーニャク氏』である。ジュリーとエラストは恋人同士だが、ジュリーの父親がリモージュの田舎貴族のプルソーニャクと結婚させようとしているので、結婚のためにプルソーニャクが出てくるのを狙って、狡賢いネリーヌやスブリガニを使い、一芝居打ってこの縁談を破談にする。プルソーニャクはスブリガニが仕掛けた芝居にまんまと引っかかって、医者のところに連れて行かれてメランコリーの病気にされてしまい、浣腸をされる。やっとそこから逃げると、これまたスブリガニにだまされてプルソーニャクが借金返済のために娘のジュリーと結婚しようとしているという嘘を吹き込まれているジュリーの父親オロントと衝突する。そこへラングドック地方やピカルディー地方から出てきた、プルソーニャクが捨てた女房が登場する。プルソーニャクは弁護士に相談するためにスブリガニの紹介で弁護士のところへ行くが、早口で歌う弁護士とゆっくり歌う弁護士に腹を立てて出て行く。女装してパリから逃げようとするところを巡査長に見つかって連れて行かれる。エラストはプルソーニャクに連れて行かれたジュリーを取り戻したとオロントのところへ連れて行き、だまされてオロントは、エラストに感謝し、ジュリーを嫁がせることを約束する。
以上が『プルソーニャク氏』の喜劇部分のあらすじであるが、医者に扮装した歌手の歌や、薬剤師が浣腸しようとするときの彼らの歌や道化たちのダンスは、旧弊で訳のわからない医学用語を並べ立てる医者の滑稽さ、浣腸という行為自体の滑稽さとあいまって、滑稽さをうまく出している。またゆっくり歌う弁護士と早口で歌う弁護士は、かつて教会で、テノールがグレゴリオ聖歌の旋律を長く保持しながら歌っている間に、もう一つ上の声部が唐草模様のようにかろやかに動くオルガヌム書法を思わせるが、ここではまったく滑稽な雰囲気を出すのにふさわしい。芝居の最後では、仮面姿の者たちが大勢集まり、ジプシー女の歌、合唱、ジプシーの男女の歌、合唱、二人の老女、二人のスカラムーシュ、二人のパンタロン、二人の学者先生、二人の農民、四人の野蛮人、四人のビスカイの人によるバレと、にぎやかな締めくくりになっている。最後にプルソーニャクが女装するなど、どたばた喜劇の感があるが、こんな馬鹿な連中にだまされているプルソーニャクの滑稽さが歌の巧みな使い方とダンスによって強化されている。したがって前作とはまったく違った意味で、音楽やダンスを排除すれば、その有機的な構造を破壊してしまうことになるコメディ=バレであると言えよう。

2−6.『豪華な恋する者たち』Les Amants magnifiques
1670年2月7日にはサン=ジェルマン=アン=レイで『豪華な恋する者たち』が上演されたが、この作品はバレ部分のあまりの豪華さのせいで、またリュリがルイ14世に配役していたネプチューンとアポロンの役があり、ルイ14世は2月7日の初演のときだけそれを踊り、それ以降ダンスをやめてしまったこともあり、一般には公開されなかった。このコメディ=バレは劇中劇の手法を巧みに用いて、機械仕掛け、ダンス、合唱、パントマイム、牧歌劇などのスペクタクルの要素をふんだんに盛り込んだ作品として特筆すべきものである。さらにこの作品はボーサンが示すように完全なシンメトリー構造をもっている。
あらすじは次のようになっている。第一幕間劇については『モリエール全集』からそのまま引用しよう。
「さまざまな楽器が心地良い音楽を奏でると、それを合図にして幕が上がり、広大な海が真っ先に目に飛び込んでくる。海の両側には大きな岩が四つあり、それぞれの頂きには、川の神が、これらの神々に付き物の装飾品の上に肘をついている。岩の下のほうには、両側に一二の[海神]トリトンが控えており、海の中央には、キューピッドが四人、それぞれイルカにまたがっている。その後ろには風の神アイオロスが小さな雲に乗り、波の上空を漂っている。風の神アイオロスは、風に向かって「立ち去れ」と命じる。キューピッドも、トリトンも、川の神も、アイオロスに同調する。すると、海は静まり、波間から島が現れる。八人の漁師が、真珠貝や珊瑚の枝を手にして、海底から姿を現す。漁師たちは、ダンスで観客の目を楽しませると、それぞれ山石に僚り、川の神のド手に座る。すると合唱隊が、一海の神一ネプチューンの来訪を告げる。ネプチューンはお付きの仔たちと踊り、漁師、トリトン、川の神らも、ネプチューンのステップにあわせて、さまざまな仕草をしたり、真珠の装飾を施したほら貝を吹いたりする。この一連のスペクタクルは、求婚者の王子の一人が、二人の姫君[姫とその母親]の海上散歩にあわせて企画した豪勢な見せ物である。」

テッサリアの女王アリスティオーヌは娘のエリフィル姫の花婿候補として二人の王子を呼ぶ。彼らは豪勢な見世物を企画して二人を楽しませるが、姫は身分の低いソストラートを密かに愛しているし、ソストラートのほうも身分違いの恋に苦しんでいる。姫はあれこれ口実をつけて結論を引き延ばすが、占星術師の仕掛けた罠によって偽のヴィーナスのお告げがあり、女王の命を救った者と姫は結婚しなければならなくなる。ところが占星術師や二人の王子の狙いに反して偶然から、ソスクラートが女王の命を救うことになり、ハッピーエンドとなる。この芝居で上演されるバレやパストラルはすべて二人の王子が企画した見世物ということになっているが、それがまさに劇中劇となって喜劇の部分を照らし出したり、その機械仕掛けの豪華さによって喜劇部分を圧倒することで、これまでのコメディ=バレとは一線を画する作品となっている。バレやパストラルのほうが主であって、喜劇部分はたんなる狂言回しとしての役割しか持っていない(なぜなら二人の王子と結婚したくない姫と別の王子または男性とそれぞれ密かに恋しているが、「厳しすぎる名誉の掟」に縛られて打ち明けられないでいる、という図式は『エリード姫』のパターンと同じであるから)。とりわけ中心部分に置かれてかなりの大きさを持っているパストラルはリュリにとって音楽家としての経験に重要な意義をもった。というのは、ここではパストラルという限られて設定の中でとはいえ、エールとレシタティフが使われ、その後のオペラへの発展をうかがわせるからである。

2−7.『町人貴族』Le Bourgeois gentilhomme
1670年10月14日シャンボールの王の祝祭にて初演された。シャンボールで数回上演された後も、サン=ジェルマン=アン=レイでも数回上演され、11月23日、パリの一般観客に披露された。宮廷での上演と同じく豪華な衣装やバレを伴っての上演であった。この作品は、前年(69年)九月にトルコがヴェネチアに対して勝利し、フランス人のトルコへの関心が高まっていた。ちょうどフランスとの友好関係を回復しようとして、トルコ帝国は密使をフランスに送った。密使による文書を、ヨーロッパで初めて大使派遣の文書と勘違いして、大々的な歓迎の場を用意したが、密使が差し出した文書に大使の文字がないことに通訳が気づき、この失敗を隠すために、自分自身への怒りをほかに向けるために、ルイ14世はリュリにトルコを愚弄するような作品<>を作るように依頼したというエピソードは有名である。王の依頼を受けたリュリとモリエールがトルコ通のダルヴィユ騎士の協力を得て、『町人貴族』を作った。
『町人貴族』では二つの主題が交差している。一つは、言うまでもなく、貴族になりたがる町人の滑稽さである。裕福な町民のジュルダンは、とにかく貴族になりたくてしかたがない。そのためには貴族と同じ生活様式、同じ趣味、同じ服装、同じものの考え方をしなければならないと考え、先生についてそれらを習得しようとする。ダンスを習い、音楽会を催させ、豪華な料理を作らせ、「頭のてっぺんからつま先まで、本物の貴族みたい」に見える服装を仕立て屋に作らせる。彼らはジュルダンを金づるとしか考えていない。 もう一つの主題は、ルイ14世から与えられたトルコの主題である。モリエールは偽のトルコ人を登場させることでこの主題を取り入れた。ジュルダンの娘リュシルはクレオントと恋仲だが、ジュルダンはリュシルを貴族と結婚させようと考えている。ジュルダンの屋敷に行ったクレオントは、二人の仲を認めているジュルダン夫人の勧めに喜んで、ジュルダンにリュシルとの結婚を許してほしいと頼む。ジュルダンは貴族でないなら娘はやれないと断る。ジュルダンはリュシルを侯爵と結婚させて、侯爵夫人にしたいと言う。夫人、は身分違いの結婚では娘は幸せになれないし、自分たちだって肩身の狭い思いをしなければならないと反対する。貴族でもないのに、貴族だと嘘を言うのはいやだいうクレオントや、身分違いの結婚をしても幸せになれないという夫人の主張は、馬鹿げたことを夢見ているジュルダンとの対比で、至極まっとうに見える。そこで、クレオントの召使コヴィエルがジュルダンの父親の親友に変装し、長い航海から帰ってきて、ジュルダンの娘と結婚したがっているトルコ王子を連れてくる。トルコ王子にはクレオントが変装している。ジュルダンはトルコ王子から「ママムーシ」を授けられて有頂天になり、事情がわからなくて承諾を拒否していた娘のリュシルや母親のジュルダン夫人も事情がわかると、結婚を承諾する。何も知らないで喜んでいるのは、ジュルダン一人という締めくくりである。この主題での圧巻はなんと言っても、トルコ風儀式である。これはトルコ人の衣装や儀式をカリカチュアすることで、言語も風俗も分からない異国の文化を嘲笑し、かつ異国趣味を満足させることを狙ったものである。でたらめなトルコ語といっても、実際にはフランク語を使うことで、なんとなくフランス人にも分かるために、儀式で交わされる言葉の内容のばかばかしさによっても滑稽味が増すようになっている。
にもかかわらず、リュリは喜劇の部分とまったく関係のない「諸国民のバレ」を最後につけた。このバレの特徴は、スペイン人、イタリア人、フランス人という三つの国民の愛の捉え方の違いを、アントレによって表現したところにある。スペイン人は恋の苦しみを主題にした歌を歌い、イタリア人は恋の魅力・魔力を主題にした歌を歌い、フランス人とくにポワトゥー地方の男女がメヌエット形式で、牧歌劇風に純粋の愛を主題にした歌を歌い、フルート、オーボエの伴奏に合わせて、メヌエットを踊る。バレ・ド・クールではさまざまな国の特徴を示す衣装を着けた人物を登場させて異国趣味を満足させるという手法がよく使われた。


<註>
註1.このことはモリエールが音楽やダンスのことをまったく知らないド素人であったという意味ではない。逆に、モリエールは音楽やダンスに相当詳しかったと思われる。モリエールの母親の家系は代々音楽家を輩出していたし、叔父のミシェル・マジュエル(Michel Mazuel, 1603-1676)は、1654年にはCompositeur de la musique des Vingt-Quatre violons de la Chambreに任命され、1674年までその職にあったので、甥のモリエールによるコメディ=バレの創始に大きな影響を与えたと考えられている。またダンスの素養に関しては、モリエールが1637年から39年にかけて在籍したコレージュ・ド・クレルモンでは毎年ダンスを伴う悲劇を上演する慣例があり、これがモリエールの音楽やダンスに対する好みを決定的に影響づけたことは疑いない。さらに、モリエールが実家の装飾業の相続権を放棄して演劇の世界に入ったことは有名であるが、だからといって実家と絶縁していたわけではない。tapissierというのは室内装飾だけでなく,舞踏会,バレの装飾も行っていたのであって、そういう意味ではモリエールが演劇やバレを作っていたことは、父方、母方両方の家系的伝統を継承していることになる。
註2.Philippe Beaussant, Lully ou le musicien du soleil, Gallimard, 1992, p.289.
註3.ギーズ卿が偶然に芝居小屋でリュリを見出したという伝説があるが、ボーサンによると彼はフィレンツェに数日しか滞在しておらず、マザラン着任直後の当時はフィレンツェからフランスの宮廷にイタリア人音楽家が頻繁に行き来していたことから考えて、イタリア人音楽家の誰かがリュリを指名したのだと主張している。Ibid., p.23.
註4. Ibid., p.309.
註5. Ibid., p.349.

[初出掲載誌:りべるたすの会編,「りべるたす第16号」2002年]

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