poetique
 ルソーにおけるオペラの詩学



1. はじめに
 オペラの詩学とは,オペラがさまざまな要素を取り込んでその構成要素とするさいに用いられる原理のことである.それはまたオペラの構成要素がオペラのなかでどのような機能を果たしているかを明らかにするさいの原理ともなりうる.『オペラの詩学─コルネイユからルソー』を書いたカンツレールは,1659年という年を,フランスのオペラの創設者であるピエール・ペランが,トリノ大司教への書簡のなかで,これから創始されるべきフランス・オペラについて,それは真の詩学的方針やこのジャンルを他のジャンルやイタリアオペラと区別するような体系的な考察にもとづいて創設されるべきだと主張したということから,「初めて,《古典主義時代のフランス・オペラ》が詩学理論の観点から論じられた」という意味で,フランス・オペラの起点と見なすことができると述べている
(註1).フランス・オペラは,実践されるより先に論じられたのであり,あるいはむしろ,自然発生的に生じたのではなく,一定の理論にもとづいて創造されたのである(註2).このようにフランスには古典主義思想にその土台をおいたオペラの長い伝統があり,18世紀に三度行われた音楽論争(リュリ=ラモー論争,ブッフォン論争,グルック=ピッチンニ論争)はそのいずれもがオペラを主題にしたものであった.それゆえに,ルソーも音楽について論じる場合にほとんどつねにオペラを問題にしてきたし,古典主義的オペラ美学と対決することによって新しいオペラ論を提示しようとしたと考えられる.本論では,古典主義美学のなかで重要な位置をしてめていた幻想という概念を中心に,ルソーが提示した新たなオペラ観を明らかにしたいと考える.

2.古典主義美学における幻想概念
 まず古典主義美学における幻想概念とはどういうものだったのだろうか(註3).古典主義思想においては科学と芸術は自然のうらに隠された真実をあばきだすという共通の目的を持っていた.自然の真実とはありのままの自然でもなく,知覚されたままの自然でもなく,感覚的な世界を越え,知性によってしかとらえられことができないような,計算可能な抽象的関係である.科学はそれを物理=数学的操作によって導きだし,記述することができる.ありのままの自然のうらに隠された抽象的関係の認識という点では芸術も同じである.したがって,古典主義美学が公然たる目標としている「自然の模倣」とは,ありのままの自然の再現,模写ではない(註4).ありのままの自然から抽出された抽象的関係を知覚可能な状態に加工していくことが模倣という行為にあたる.
 こうして作りだされた作品は,虚構であったり,今日的な意味で「自然らしい」とは言えなかったりするとしても,自然の本質に近いのであって,これこそが芸術の目的だと言えるのである.ありのままの自然は無秩序に見える.たとえば天体の運行のなかで火星や木星は行ったり戻ったり,円運動を描いたりと一定の法則に沿って運行しているようには見えない.しかし天文学によってはじめてその一見無秩序な運行もすべての惑星に共通する法則のもとに運行していることが示される.それと同じように,ありのままの森のなかに隠された比例関係や法則を導き出すことによって目に見える形に表したフランス式庭園は,ありのままの自然とは似ても似つかないかもしれないが,自然の真実には近いのである(註5)
 科学も芸術も同じように自然の真実を明らかにすることを目的としているのなら,芸術の存在理由はどこにあるのだろうか.ここに芸術を科学から峻別するものとして幻想が位置づけられる.科学が相手にするのは知性だけであるが,そうした抽象的世界に耐えられるのはごくわずかの知性だけであって,通常はそうした抽象的世界に肉体が抵抗する.いくら地球が回っているのだということが頭で理解できても,肉体のほうはやはり太陽が地球の周りを回っていると感じる.それが幻想である.肉体があるかぎり幻想の効果は存続するのであって,幻想をなくすことはできない.幻想をなくすることができないのだとしたら,幻想を真理の付属物にすることで,真実の認識に感覚的な喜びを与えることはできないだろうか.普遍的なものを特殊的なものによって感覚可能にするための手段,精神的喜びを肉体的喜びに転換するための手段,それが古典主義美学における幻想である.
 では古典主義美学のおける幻想はどのように機能するのだろうか? 第一に視聴覚を総動員した感覚的手段によって驚異の世界を構築することである.人は驚異の世界が作りだす幻想のなかに入り込むと同時に,それが機械仕掛けによって動かされていることを知る.驚異という感覚的感動の境位にたっすることで感覚的快感を満たすと同時に,それが幻想であること,それを作り上げているのは機械仕掛けという自然のメカニズムであることを意識することによって,それに虜になることなく,それを虚構として楽しむという知的快感をも満たすことが可能になる(註6)
 17世紀後半から18世紀前半までのフランス・オペラは,驚異と機械仕掛けを幻想の手段とすることによって,古典主義思想に土台をおいたオペラの美学を完成させてきたのである.

3. オペラの歴史
 『音楽辞典』の《オペラ》にはオペラの歴史に関する記述があるが,これはたんなるオペラの年代記ではなく,ルソーによるオペラの詩学の歴史的記述であり,ルソーのオペラ論を見るための格好の資料である.まずこれから検討してみよう(註7)
 ルソーはまずオペラの創始について述べる前に,近代におけるオペラの創始者たちがモデルとした古代ギリシャの演劇について言及し,古代ギリシャでは言語そのものが音楽的だったので,彼らは本当に歌ったのであり,リラかシタールによる伴奏は言語そのものがもつ音楽性を引き出し,支えるためものにすぎず,したがって古代ギリシャの演劇は「音楽的に支えられた説話」であり,エールとレシタティフによって構成される近代オペラとはこの点でまったく発想が異なるものだと説明する(註8)
 近代オペラの創始にあたっては二つの問題が克服されなければならなかったとルソーは分析する.その第一は音楽に合わせた言語を作ること,すなわち poème lyriqueと呼ばれる,オペラ固有の韻文を作ることである.古代ギリシャ語と違って言語がまったく音楽的でないので,音楽のリズムと言語のそれとが一致せず,さまざまな努力の末,最終的には韻文が採用されることになった(註9).第二は音楽を言葉に近づけるための努力である.近代の諸言語においては音楽をそれらに合わせることは不可能なので,和声の導入によって,感覚的な喜びによっては満たされない精神的喜びを補うという操作が行われるようになった(註10)
 オペラの題材や登場人物に天上や地獄,神や悪魔が選ばれたのは,ひとえに音楽と説話の統一が人間に関しては不自然だというところからきている.そしてその結果として,魔法と奇跡がオペラの基礎となり,そうした題材での幻想を維持するための大がかりな機械仕掛けが必要となったのである(註11).創生期のオペラに関しては,さまざまに趣向を凝らした機械仕掛けと大音量の楽器と声とによって人々の眼と耳を驚嘆させるようなものであったが,精神的な感動という点では,まったく不十分であった(註12)
 しかしそのうちに音楽は言語と離れて,まったく独自に精神的な効果をもつことができるということが発見されるにいたる.その結果,音楽は「第三の模倣芸術」となる(註13).これは,和声の利用,音楽固有のリズムの発見などによって音楽が言語の抑揚からまったく分離して自立的な発展を遂げ,独自の音楽語法によって,言語とは独立した模倣芸術となったことをルソーが認めている文章として非常に興味深い箇所である.
 こうして音楽が模倣芸術となることによって,オペラの主題や登場人物についても,模倣が真かどうかを判断できる主題や登場人物,すなわち観衆と同じ人間の喜怒哀楽がオペラの主題となった.そしてオペラは音楽の助けを借りて,真に苦しんだり恐怖したりする人間たちが舞台にいるかのように思わせることに成功するようになったのである(註14).その結果,イタリアオペラはカエサルやカトンといった歴史的英雄を登場人物として採用するようになったのである(註15).そしてヴィンチ,レオ,ペルゴレージといった音楽家たちがこうして切り開かれた新しいオペラの道を一気に完成の域にもたらした.しかし一度完成の域に達したからといってそれがずっと維持されるわけではない.音楽と言語は別々の言語のようなものであり,音楽が優位に立つと言語を消し去ってしまうことがあるし,また言語の伝達者であるべき俳優たちも自分の声を誇示するために,言語を台無しにしてしまうことがある.どちらの場合にも,オペラは情念の音楽的ドラマではなくなってしまい,たんなるコンサートに過ぎないものになる.以上がルソーによるオペラの歴史の記述である.
 ルソーによるオペラの歴史概観には興味深い点がいくつかある.第一に,オペラの創生期における音楽と言語の問題である.『言語起源論』の読者は,『言語起源論』とこの記述を比較してみたくなるのが当然である.ルソーは『言語起源論』と同様に近代諸言語を非音楽的言語として規定し,近代オペラ創生期に克服されるべき最大の問題を非音楽的言語の音楽化の努力として説明している.さらに近代諸言語にもとづく音楽ではけっして得られない精神的喜び─非音楽的言語のもとでは精神的な効果をもたらすような旋律は形成されることができないのだから─を補うために,オペラに和声が導入されることになったという説明も,精神的なものを伝達するはずの旋律の不在を補うための和声の発見という『言語起源論』での記述となんら矛盾するものではない.
 第二に,ルソーが,音楽に言語の抑揚の反映といった従属的表現力しか認めない伝統的な音楽観から脱却した音楽観をはっきりと表明している点である.われわれはルソーが『言語起源論』において純粋音楽に独自の語法をもった言語としての位置づけを与えていることを明らかにしたことがあるが(註16),この点でも両者の記述は一致している.
 第三に,ルソーは古典主義的な幻想概念とは異なった,オペラの詩学としての新たな幻想概念を提出していることである.これが本論の主題でもある.

 4.ルソーにおける幻想概念
  ルソーによれば,はじめは神話世界のような,見たこともない世界や,それを成り立たせるための子どもじみた機械仕掛けがオペラの中心だったが,音楽が表現力をもつようになり,人間世界が描かれるようになるにつれて,オペラは,聴衆が我を忘れ,登場人物のなかに没入してしまう幻想空間になったのである.ルソーの説明のなかで重要な点は,第一にオペラが驚異や機械仕掛けをすてて人間の世界を描くようになったということと,第二に観客が登場人物のなかに没入してしまい,忘我状態になるということである.
  第一の点について言えば,古典主義美学では驚異や機械仕掛けは幻想の手段であり,驚異は感覚的肉体を喜ばすためのものであったし,機械仕掛けは知的欲求を満たすためのものであった.オペラが驚異や機械仕掛けをすてて,人間の世界を描くということは,観客の感覚的知的快楽をもたらす装置としての幻想を放棄するということを意味する.この意味でルソーの美学におけるオペラは幻想の劇場ではもはやない(註17).ルソーが推奨する主題とは,人間の「怒り,苦しみ,恐れ,優しさ,涙,うめきなどのすべての抑揚や興奮した魂のすべての動き」(註18)であり,「別れの時,二人の恋人たちの一方が死にかけているとか,相手の腕に入る瞬間,忘恩息子の真の帰還,相手のために死にたがっている母親や息子の感動的な戦い.心からの涙を流さずにはおれないこうした感動的な場面」(註19)なのである.要するに人間の情念こそがルソーの推奨するオペラの主題である.そこには古典主義美学が要求したような,熱狂しつつ,同時に覚めている魂はない.そうした魂であれば,上に挙げたような「感動的な場面」を冷笑することになるだろう.そこに必要なのは,登場人物の「怒り,苦しみ,恐れ,優しさ,涙,うめきなどのすべての抑揚や興奮した魂のすべての動き」を自分のこととして感じ取ることができる感性である.
  第二の点に関しては,第一の点について述べたことの帰結に他ならない.ルソーが要求する幻想とは,登場人物のなかに没入してしまい,その魂の動きや感情の動きを自分のことのように感じてしまう状態のことである.このような登場人物と観客の一体化という状態こそ,古典主義美学が否定的に見ていたものである.《オペラ》の次の一節は,オペラの古典主義的段階から近代的な段階への移行の歴史と関連したルソー的な意味での幻想をよく示している.
 「ちょうどこの時,夢幻世界のうわべの華やかさや機械仕掛けの子供だましの喧騒や,今まで見たこともない物の魅力的な姿に嫌悪を抱き始めていた人々は,自然の模倣のなかにもっと面白く,もっと真実な情景を求めたのである.それまでオペラは出来るがままに作られていた.というのは実在したこともないような,その像を対象と比較できものはだれもいないような物事の再現に使う以外になにも描くことができない音楽に劇場でどんなよりよい使用法があったことだろう.奇跡的なことはそれが本当に実在するのなら人々は感動するだろうが,実在しないものを描いても感動するかどうかは知ることができない.それに対して,芸術家が情念に言葉をうまく喋らせることができたかどうか,自然の対象がうまく模倣されているかどうかを自分で判断することは誰にでもできる.したがって音楽が描写し語ることを学ぶとすぐに,感情の魅力は魔法の杖の魅力を無視させた.演劇は神話の専門語から純化された.興味が奇跡的なものにとってかわり,詩人や大工の機械は壊され,オペラはもっと高貴で,怪物じみたところのない形を持つようになった.心を感動させることのできるものはすべてそこで使われ,成功した.もはや理性,いやむしろ狂気の存在によって畏敬の念を起こさせる必要はなくなった.神々は舞台から追い払われ,人間がそこで描かれた.こうしたより賢明でより規則に適った形態は幻想に最もふさわしかった.音楽の傑作は音楽そのものが忘れさられるような音楽だと人々は感じた.観衆の魂に無秩序と混乱を投げ込むことで,人々がうめく女主人公の優しく悲壮な歌を,苦しみの真の抑揚から区別できないようにしてしまうのが音楽だと感じたし,まったく別のときならわれわれを不快にしたはずの言葉と同じ言葉で,激怒したアキレスがわれわれを恐怖に氷つかせることができると人々は感じた.」(註20)
 ルソーによれば,古典主義的なオペラと近代のオペラを分ける大きな分岐点は,神話,機械仕掛け,奇跡,理性,神々の世界から,人間的魂,感情,情念の世界への移行にあり,オペラにおいて人間が主題として描かれるようになってはじめて,オペラは模倣芸術(模倣の真偽を聴衆がその個々の内心の感情によって判断することができる芸術)になったのであり,観衆はオペラのなかに自己を同化し,没入することが可能になったのである.
 ここには模倣にたいする考え方の変化がある.古典主義美学における模倣とは,数学=物理的方法によってありのままの自然から抽出された抽象的関係が模倣の対象であった.オペラでは驚異や機械仕掛けによって幻想の形態が取られていた.他方,ルソーにおける模倣は魂の動きが模倣の対象となる.『新エロイーズ』の一節を引用しよう.
 「ぼくは言葉のアクセントに合わせてつけられた旋律のアクセントのなかに,情念と音との力強い,秘められた結びつきがあることに気づかなかったのです.感情がさまざまな調子によって話し声に生気を与えるものなのですが,そのような調子を模倣すれば,今度は歌う声にも人々の心をゆさぶる力が与えられるものなのだということ,歌を聴かせている人の魂の動きの力強い再現こそが,それを聞いている人々を真に魅了するものであるということ,ぼくにはそれが見えていなかったのです.」(註21)
ここにはルソーの音楽模倣論を知る上に必要なものがすべて出そろっている.魂の動きの再現こそが模倣の対象であるが,それを可能にするのは情念の調子を音によって模倣した旋律のアクセントだということ.われわれの主題である幻想ということに関して言えば,「歌を聴かせている人の魂の動きの力強い再現こそが,それを聞いている人々を真に魅了するもの」であり,登場人物と観客の心理的同化による一体化を可能にすることが明確に記されている.そしてそうした一体化はどのような現象を引き起こすのか.再度,『新エロイーズ』の同じ箇所から引用しよう.
 「ところが一連の快い曲が終わったあとで,激しい情念の惑乱をまきおこし,かつそれを描き出すことのできるある表現豊かな大曲にすすむと,ぼくは一瞬ごとに音楽,歌,模倣を耳にしているとは感じなくなり,苦悩の,激怒の,絶望の声を聞く思いがしたのです.涙にくれる母たち,裏切られた愛人たち,猛り狂う暴君たちを,まのあたりにしている思いがした.そして有無をいわさぬ激動を身に覚えて,ほとんどすわっていることもできないくらいだった.」(註22)
舞台の上に俳優ではなく,真の登場人物たちを,そして彼らの情念を見ているように感じ,さらに彼らと一体化したように錯覚して,すわっていることもできないような感動を覚える.まさにこれがルソーにおける幻想である.

 5.オペラの詩学
 ルソーの音楽美学においては,オペラとは人間の真の情念を描くことによって,登場人物と観衆を心理的に一体化させる幻想の空間だとすると,オペラにおけるもっとも根本的な詩学は,演劇的世界と観客の同化としての幻想を成立させるための方法論ということになる.ルソーが提示する近代オペラの詩学は,観衆の想像力を利用して彼らを演劇世界のなかに同化させることを可能にする原理ということになる.これをもっとも広い枠組みで論じたのが『音楽辞典』の《構想》という項目で,それによれば構想とは,旋律,和声,テンポ,性格,転調,伴奏,エール,レシタティフ,合唱,二重唱,場面,幕といったオペラのあらゆる部分が,その細部から大枠にいたるまで一つの主題にむかって統一されていなければならないということを示す概念である.オペラを構成するすべての部分が一つの主題を中心に統一されてはじめて作品は一つになり,観衆を演劇的世界のなかに同化させることが可能になるだろう(註23).こうした考え方は,序曲論,幕間論,「旋律の統一性」概念,エール論,レシタティフ論などに一貫している.
 本論では紙数の都合上,レシタティフ論にあらわれたルソーの詩学を見ておこう.本論では『フランス音楽に関する手紙』におけるレシタティフ論を検討するが,その理由は『フランス音楽に関する手紙』のルソーにとって,レシタティフはもっとも重要な問題として扱われているからである.『フランス音楽に関する手紙』は音楽と言語の関係についての考察から入り,音楽と言語によって統一した想念が提示されるべきだという旋律の統一性に関連して,伴奏のあり方,二重唱の問題へと議論を進め,同様の視点から言語の韻律をもっとも直接的に反映すべき音楽言語としてレシタティフに言及している.すなわち『フランス音楽に関する手紙』は,本論の主題である幻想─この語は用いられていないが─を成立させるためのオペラの詩学という視点からさまざまな問題を論じているのである.
 まずレシタティフの定義から入ろう.ルソーはレシタティフを「和声的な音程で作られた抑揚をもつ朗唱」と定義する(註24).これは,どの言語もそれ固有の韻律法があり,その韻律法,すなわち音節の長短,抑揚の上がり下がりの一般的特徴にたいして和声的な味付けをすることで,表現力を強化したものという意味である.この定義は,音楽による言語の模倣という古典主義的な音楽模倣論の核心部分でもあり,けっしてルソーの独創ではない.ただ現実には,リュリの場合その模倣の対象となったのは,真にフランス語の韻律法ではなく,それ自体すでになんらかの模倣となっている悲劇における演劇的朗唱であった.これはリュリがレシタティフの音楽を作曲するときに,ラシーヌの悲劇の練習現場に赴き,そこでの朗唱を参考にしたという事実が,それをよく示している.したがってルソーが「もっとも優れたレシタティフというのは,話し言葉にもっとも近いレシタティフだということは明白です」(註25)というとき,演劇的朗唱の模倣によって話し言葉からまったく離れてしまったフランス語のレシタティフを批判していることは明らかである.フランス語のレシタティフに関するルソーの批判が大きく影響して,ブッフォン論争以降,とくにオペラ・コミックにおいてはレシタティフが廃止され,生の話し言葉がエールとエールの間をつなぐことになるが,これはルソーによれば,次のようなレシタティフの存在理由から見て,オペラをまったく滑稽なものにすることになる.
「レシタティフが音楽劇において必要であるのは,1.筋の進行をつなぎ,芝居を一貫したものにするためです.2.エールが連続すればとても我慢できないものになるので,エールを目立たせるためです.3.歌うような,そしてリズム感のある音楽によっては表現できないし,または表現すべきでないような多数のことを表現するためです.」(註26)
 ここには大きく分けて二つの存在理由が提示されている.その一つは,幻想を成立させるための真実らしさという観点からのものである.ルソー自身が挙げている理由の1と2はこちらに属する.これに続く一節はレシタティフの存在理由が幻想ということに大きく関わっていることをはっきり示している.
 「たんなる朗唱は音楽劇ではこういったことにふさわしいものとはなりえませんでした.なぜなら,言葉から歌への移行,とくに歌から言葉への移行には耳がどうしても受け付けない堅さがあって,滑稽な対立感が生じ,それがあらゆる幻想をぶちこわしにし,その結果,聴き手の関心さえも失わせてしまうからです.というのは,全体が少なくとも仮説的な言語と見なされることができるくらいに,説話を一貫したものにすることで,維持すべき一種の真実らしさがオペラにだってあるからです.」(註27)
「言葉から歌への移行,とくに歌から言葉への移行には耳がどうしても受け付けない堅さ」があるという主張は,古代ギリシャにおける音楽と言語の関係と違って,近代では音楽と言語がまったく異なった音響体系のもとにあるという考えにもとづくものである.
 第二の存在理由は,レシタティフの音楽表現上の役割に関するものである.3の説明がそれにあたる.つまりエールではうまく表現できず,レシタティフによらなければ表現できないような想念があるという主張である.ルソーはこの箇所でその例を挙げていないので,ルソーが何を念頭においていたのかは想像に頼らざるをえないが,ルソーが伴奏について述べている箇所や『アルミード』のモノローグ分析を見ると,これはおそらくドラマのもっとも激しい危機的状況における逆上した情念の描写のことを言っているのではないかと思われる.このようなレシタティフは,マソンの定義によれば,「情念が激しく爆発し,ときには登場人物の魂のなかでの戦いに身を委ねているような劇的な危機的状態の瞬間においては,オーケストラが必要な活気をもって介入し,舞台上の沈黙と身振りのせいで,朗唱がたえず途切れ途切れになっているあいだ,この内的な騒乱を表現する」(註28)ためのものである.ルソーによるアルミードのモノローグ批判は,まさにレシタティフのこの機能の観点から行われていると言える.相対立する二つの情念の相克を表すアルミードのモノローグは,キノーがアルミードのレシタティフのなかで激昂と愛情という相反する情念を,あるときには言外の意味において,あるときには歌詞の中断によって描いてたにもかかわらず,リュリがそれを音楽によって表現していないと批判する.
「というのは,激昂,愛情,それに相反する情念の対照が女優と観衆をもっとも激しく動揺させている場面で,こんな教条的な几帳面さ以上にできの悪いものが思いつけるものでしょうか?(...)詩人が音楽家に提供した言外の意味,中断,頭の中を駆けめぐる様々な思いは音楽家によってたったの一度も理解されていません.」(註29)
 音楽家にかなり高度な詩的能力を要求するこの批判は,当時としてはめずらしく,音楽家と詩人を両立させてオペラを作ってきたルソーならではのものだと言えよう.ルソーはアルミードのなかの相反する情念を音楽で描くために繰り返し転調を用いることを要求しているが,それは詩の表面上の意味と同時に言外の意味をも音楽伴奏によって表現することを要求するからである.それを可能にするのは,『フランス音楽に関する手紙』の伴奏に関する箇所で提示した管弦楽伴奏付きレシタティフの方法である.このようなレシタティフは当時のフランスではあまり知られていなかったが,イタリアのオペラでは伴奏付きのレシタティフといえばこれを意味していた.以上のことから,第二の存在理由も,登場人物の感情描写あるいは心理描写の真実性を高めるためにふさわしいレシタティフのあり方として提示されているのであり,オペラにおける幻想の詩学という観点から見るならば,第一の存在理由と同じ目的をもったものだと考えることができる.

6.おわりに
ルソーがフランス音楽を批判するとき,それは内面的感動を軸にした音楽観から,それを無視する物質主義的な古典主義美学にたいする批判でもあった.古典主義美学とルソーにおける幻想概念の違い,そしてこの相違する幻想を実現するために考えられた,それぞれのオペラの詩学に違いにそれを見ることができるだろう.
 さらに,フィリップ・ボーサンによれば,ルソーの『アルミッド』批判はフランス・オペラにたいする批判だけを意味しない.それはヴェルサイユに象徴されるルイ14世の国家機構にたいする批判でもあった.なぜなら「リュリがルイ14世のために考案したオペラの背後には,象徴としてのヴェルサイユがあったのである.そして,ヴェルサイユの背後には,一世紀前からこの宮殿のなかに血肉化されていた精神的,政治的,さらに詩的でもある秩序」(註30)があるからである.したがって『フランス音楽に関する手紙』のルソーは,『人間不平等起源論』のルソーと同じく「反体制弁士」にほかならない.
 このように,ルソーの音楽思想を突き詰めれば突き詰めるほど,音楽家ルソーは文明批評家ルソーと同じ相貌を見せるのは,たいへん興味深いことである.

《註》
ルソーの著作については、以下のものを利用した。
J.-J. Rousseau, Oeuvres complètes, Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard, t.I, 1959, t.II, 1964, t.III, 1964, t.IV, 1969, t.V, 1995. (以下OCI-Vと略記する) 訳出に際しては,白水社版『ルソー全集』を参考にしたが,文脈の関係から変更してある.

  1. C. Kintzler, Poétique de l'opéra français de Corneille à Rousseau, Minerve, 1991, p.12.
  2. だがしかし,このことはフランス・オペラの美学がリュリ以前にすでに完成していたという意味ではない.この分野の第一人者であるカンツレールによれば,フランス・オペラはフランスの古典主義悲劇が完成した時期に,それの他面としてその土台を作り上げたと考えられている(参照,Kintzler, ibid., p.218.この問題に限っていえば,C. Kintzler, La France classique et l'opéra ou la vraisemblance merveilleuse, Harmonia Mundi, HMB 590007.08, 1998を参照のこと).だが,その実践的完成にはラモーを,また理論的完成にはレモン・ド・サン・マールやバトゥーを待たなければならない.参照,Rémond de Saint-Mard, Réflexions sur l'opéra, 1747, Minkoff Reprint, Genève, 1972, ;Charles Batteux, Les Beaux-Arts réduits à un même principe, Paris, 1746, Edition critique de Jean-Rémy Mantion, Aux amateurs de livres, Paris, 1989.
  3. この主題に関してはカンツレールの優れた研究があり,本論でもそれを参考にした.参照,C. Kintzler, Jean-Philippe Rameau, Splendeur et naufrage de l'esthétique du plaisir à l'âge classique, Minerve, 1988.とくに本書の第一部「真理と幻想」第二章「フランス式庭園の逆説」.
  4. 参照,Batteux, op.cit., pp.82-83;「ここから次のように私は結論する。第一に、天才こそが芸術の父であるが、彼は自然を模倣しなければならない。第二に、彼は通常のありのままの自然、毎日目の前にある自然を模倣すべきではない。第三に芸術の存在理由であり、芸術の審判者である趣味こそが、芸術によって自然がうまく選択され、模倣されたときには満足するはずである。」
  5. 古典主義美学の根本原理は間接性,媒介性,人為・技巧性にある.反対に,ルソーの思想的原理は直接性,自然発生性,非媒介性であって,古典主義美学のそれらとまっこうから対立する.
  6. 参照,Kintzler, Jean-Philippe Rameau, op.cit., p.53,:「芸術が入りこむのはまさにこの点なのだ。幻想をなくすことはできないのだから、幻想を真理の付属物にし、道具として使わなければならなくなるだろう。幻想的なものを経由して、芸術は真なるものと格闘する。真理を発見するために、芸術は物質世界の魅力を利用する。感覚世界の幻想をつかって芸術は普遍的なものを特殊なものに滑り込ませたり、あるいはむしろ個別的で具体的な特殊性を,見ることのできない普遍的真理の手掛かりにすることができる。幻想という人工物によって遠回りをしながら、芸術は科学と連合する。いやそれ以上のことがある。芸術は精神と肉体を和解させ、肉体の快適を犠牲にせずに精神の満足を得るということだ。」
  7. 『新エロイーズ』第二部手紙23というフランス・オペラにたいする誹謗文書の最後で触れられている「音楽劇の真の構成」に関する「小論文」とは,『音楽辞典』の項目《オペラ》のことを指していると考えられている.その意味からすると,項目《オペラ》はルソーのオペラ美学を検討するうえで重要な資料であると位置づけることになんら問題はないことになる.参照,Michel Murat, "Jean-Jacques Rousseau: Imitation musicale et origine des langues", Travaux de linguistique et de littérature, XVIII, 2, Centre de philologie et de littératures romanes de l'Université de Strasbourg, p.152.
  8. 『音楽辞典』《オペラ》,OCV, p.949-950.
  9. Ibid., p.950.
  10. Ibid., p.951.
  11. Ibid., p.951.
  12. 「装置は巨大であるが効果を生むことはなかった.というのは模倣は常に不完全で粗雑で,筋は自然さから掛け離れており,われわれにとって魅力がなく,心情が関わらないときには感覚は幻想にうまく入り込めないからである.」(Ibid., p.952,強調は筆者)
  13. もちろん絵画,詩につぐ「第三の」ということである.
  14. Ibid., p.954.
  15. こうした歴史的人物を題材としたイタリアオペラを『イタリアオペラとフランス・オペラに関する手紙』のルソーはオペラのドラマトゥルギーに反すると批判していた.参照,内藤義博,「ルソーの音楽思想の形成 その二─『イタリアオペラとフランス・オペラに関する手紙』─」,「りべるたす第12号」,1998年,りべるたすの会.
  16. 参照,内藤義博,「ルソーにおける音楽模倣論の系譜と展開(後編)」,りべるたす第13号,りべるたすの会,1999年.
  17. ルソーは『新エロイーズ』でサン=プルーの口を借りて,パリ・オペラ座の驚異・機械仕掛けをこっぴどく嘲笑している.とりわけ次の一節は驚異や機械仕掛けの詩学的機能を明確に否定している.参照,『新エロイーズ』,第二部,手紙23,OCII, p.288-289:「最後にフランス・オペラについてもう一つ,私の見るところその最大の欠点は誤った壮大趣味であると思います.驚異を舞台にのせようという意図からそうなったのですが,驚異的なるものはもっぱら想像するにふさわしいものですから,叙事詩のなかでは所を得ても,舞台では滑稽なのです.日輪の車を模造しようと思うほどばかな芸術家がいて,このまがいものを見に行くほど幼稚な観客がいようとは,この目で見なければ信じられなかったでしょう.」
  18. 『音楽辞典』《オペラ》,OCV, p.955.
  19. 『音楽辞典』《二重唱》,OCV, p.791.
  20. 『音楽辞典』《オペラ》,OCV, p.953-954.
  21. 『新エロイーズ』,第一部,手紙48,OCII, p.132.
  22. Ibid., pp.133-134.
  23. 『音楽辞典』《構想》,OCV, p.752.
     ルソーはすでに『オンファルに関するグリムへの手紙』(1752年)において,この概念をもとにラモー批判を行っている.参照,;「彼以上に自分のオペラに,これほど巧みで,これほど望まれた統一性を与えることができなかった人もいません.そして彼はたぶん,大変よくできた美しい曲から優れた作品を一つも作り上げるにいたらなかったこの世で唯一の人でしょう.」(OCV, p.273)
  24. 『フランス音楽に関する手紙』,OCV, p.318.
  25. Ibid., p.319.
  26. Ibid., p.318-319.
  27. Ibid., p.318-319.
  28. Paul-Marie Masson, Les Opéra de Rameau, 1930, Dacapo Press, New York, 1972, pp.181-182.
  29. 『フランス音楽に関する手紙』,op.cit., p.322-323.
  30. Philippe Baussant, Versailles, Opéra, Gallimard, 198,邦訳『ヴェルサイユの詩学─バロックとは何か─』,藤井康生訳,平凡社,1986年,p.143.
[初出掲載誌:関西大学フランス語フランス文学会編,「仏語仏文学第28号」2001年]

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